ゆうゆうインタビュー 鈴木功二

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ご自身が会長を務める「英語読み上げ算教育協会」について話して下さい。

私はアメリカ、イギリス、カナダ、メキシコ、ブラジル、オーストラリア、ベトナム、インド、中国、台湾、韓国を含む世界約20カ国の小学校から大学まで、30年以上に渡り算数教育やそろばん指導に当たってきました。その経験を基にして1984年に当協会を東京に設立しました。英語読み上げ算学習とは、数字を英語で読み上げ、また英語で読み上げられた数字を計算することにより、英語と計算に強くなるという学習法です。そろばん上達者は、実際にそろばんに触れなくても瞬時に計算できるようになります。これは、そろばんを頭の中にイメージできているからです。英語読み上げ算学習は、英語を発音することで左脳が働くだけでなく、イメージ計算の珠算式暗算学習により、創造性を司る右脳を働かせるという役目も果しているのです。英語読み上げ算は一見簡単そうに見えるのですが、これが結構難しいんですよ。数字とはいえ、D、F、L、R、TH、V など日本人には難しい発音も含まれています。計算する時には、数字を日本語に置き換えて考えるのではなく、聞こえてくる英語をそのまま理解する能力が要求されるのです。また、英語で読み上げられた数字を聞き逃すまいとして、常に緊張感を持って計算に臨もうとするので集中力が養われます。


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大学時代に「読み上げ算競技」で日本一の栄冠を2度に渡って勝ち取った
——珠算を始めたのはいつですか。

私がそろばんを始めたのは、比較的遅い小学校6年生の終わり頃でした。友人に誘われてそろばん教室に通い始めたんです。それまではそろばんに触れたことすらありませんでした。自宅にあった大黒そろばんを持って行ったら皆に笑われてしまってね。興味本位で始めたそろばんでしたが、すぐに面白くなり、毎日教室に通うようになりました。そうしているうちに、そろばんを始めて1年半で1級に合格できたんです。もっと腕を上げろと先生に勧められて再度1級を受けてみたら、今度は全科目満点で合格できました。当時は1級よりも上の階級は無く、1級合格者の次のステージは競技会に挑戦することでした。私も全国大会に出場したのですが、とても歯が立ちませんでした。全国には1級満点合格者が大勢いて自分の未熟さを痛感したんです。とても悔しくて、この経験から必死に練習するようになりました。


——英語で珠算指導を始めようと思った理由は。

中学、高校、大学を通してそろばんを続けていました。そして、大学2年の時に読み上げ算競技大会で日本一になったんです。嬉しいことに、翌年も日本一の座を獲得することができました。その時、「そろばんを海外に普及させたら素晴らしいだろうな」という気持ちが芽生えたのです。一応、アメリカやイギリスの数学関係のテキストや、中国が発行していた英語のそろばん解説書などを書店で手に入れて自分なりに勉強しましたが、決して外国で教えるための具体的な計画を持っていたわけではないのです。その思いを胸に秘めたまま大学院に進学し、同時に商業高校の教師として教壇に立つようになりました。チャンスが訪れたのは、1964年の東京オリンピックが開催された時でした。以前、知り合いの先生の教え子がオリンピック選手村の村長をしていたんです。彼にお願いしてアメリカの陸上選手に会わせてもらい、国際文化交流の一環としてそろばんを披露しました。丸暗記した英語でそろばんを教えたんです。その後、過去の実績と私の活動を耳にした珠算連盟より「アメリカでそろばんを教えてみないか」という連絡が入り、翌年28歳の時にロサンゼルスに赴いたのです。


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1964年、代々木のオリンピック選手村でアメリカからの選手にソロバンを指導
—— 渡米後の生活についてお話し下さい。

渡米前は想像もしていなかったのですが、アメリカに着いた私の立場は単なるビジターの1人にしかすぎませんでした。当時は受け入れ組織も無く、そろばんを習いたいという生徒もいませんでした。日系人からも「今どき、そろばんを習いたい人なんているの?」などと言われましたからね。それでも、「こんな便利なそろばんを何とかして紹介したい」という強い思いがありましたので、各地の学校をボランティアで毎日訪れました。珠算連盟から派遣されたと言っても、片道切符を渡されただけで生活費は支給されませんでした。昼間はアダルトスクールで英語を学び、深夜12時から翌朝6時まで印刷屋でアルバイトをしながら生計を立てていました。経済的に苦しい日々が続きましたが、数年後にはボランティアで訪れた学校から感謝状や依頼状を頂くようになりました。ある日、ビザ延長の手続きのために弁護士を訪ねたところ、その弁護士から「鈴木さん、そろばんとは好いところに目を付けたね!」と言われ、私の技術、経験、そして各学校からの感謝状や要望書が揃うなら永住権申請の対象になると説明するのです。その後、そろばんが算数教育に役立つことが認められ、渡米から4年後に永住権を手にすることができました。


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将来ラオスを背負っていく若い修道士たちへもソロバンを伝授
——永住権取得後、生活に変化はありましたか。

永住権を手にした後も経済的には苦しかったですね。ある企業から就職の誘いを頂いたりしましたが、「自分は何のためにアメリカに来たんだ」と何度も自問自答しながら、そろばん普及活動に力を注いできました。ある時、サクラメントで開催された CMC (カリフォルニア州数学教師会) で講習会を行いました。講習会終了後、受講生の一人が「大そろばん1丁と普通そろばん30丁が欲しいのですが…」と言ってきたのです。その人物は南カリフォルニア大学のリチャーズ博士でした。USCで教職課程の講座も担当していた彼は、「そろばんは算数の基礎概念を理解するのに格好の教育器具ですから、教師を目指す学生達に教えたいのです」と話してくれたのです。私は依頼された分のそろばんを直ちに彼に送りました。すると、リチャーズ博士は「支払いを済ませる前に品物を送ってきたのは、あなたが初めてですよ!」と言って驚き、これを機にお互いの信頼関係が深まっていきました。そして、彼のそろばんに対する理解と協力を得てUSC内にアメリカ珠算研究所を設立し、珠算教育活動が本格化していったのです。


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ラホヤのトーリーパインズ小学校で開催されたワークショップ。英語読み上げ算協会会員で、2004年7月よりサンディエゴでソロバン教室を開講する三浦邦昭先生。
—— 日米における教育の相違は何でしょう。

算数教育においては、日本語と比べて英語では数の仕組みが分かりにくいんです。例えば、数字の11は英語では「テン・ワン」とは言わずに「イレブン」と言いますよね。フランス語、スペイン語、ポルトガル語なども英語と同じ発想なんです。これらの国々の子供達は 1、10、100の位の感覚が無く、十進法 (Base Ten) や位取り (Place Value) など算数の基礎理解に困難を来しやすく、算数嫌いになってしまう傾向があるんです。ところが、そろばんは9までを一1桁上で表して10は隣の玉を使うことから、十進法と位取りが目に見えて理解できます。以前、日本のアメリカンスクール (小学校) を訪れた時、ある先生から大変感謝されたんです。彼女は「自分が子供たちにBase TenやPlace Valueを教えても50%しか理解してもらえないのに、あなたが今日10分間そろばんを使って教えただけで100%理解してくれた!」と感激していました。こうして、欧州、南米、アジア各地でも徐々にそろばんが注目されるようになり、私はこれまでアフリカ大陸と南極大陸を除く世界5大陸を飛び回りながらそろばん指導に当たってきました。子供たちは私のことを「ミスター・ソロバン」や「ソロバン・マン」などと呼ぶんですよ (笑)。


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自由の女神の前でほほ笑むソロバンの神様
—— アメリカ生活で印象に残っている出会いはありますか。

アダルトスクールで英語を学んでいた時、どう見ても70歳位の日本人女性がクラスに居たんです。その女性に話し掛けてみたところ、やはり日本人で滞米生活が50年にも及ぶという方でした。彼女は「写真結婚」でアメリカに渡り、ようやく食べて行けるようになった時は戦時下でコンセントレーション・キャンプに収容されてしまい、英語を勉強する機会が無かったと話してくれました。彼女のその後の人生は、英語がそれほど話せなくても苦労はしなかったそうです。どうしても英語が必要な時は、日本語の分かる子供たちが通訳してくれたと言っていました。私は「何故、今になってそんなに英語を勉強しているのですか」と尋ねたところ、「孫が可愛くてね」と大きな笑顔を浮かべながら答えつつ、「日系2世までは日本語が通じても、3世になると英語でしか意思の疎通ができませんから」と事も無げに言うのです。そう言って、毎日頑張っている彼女の姿に私は励まされていたように思います。


—— ご自身に多大な影響を与えた人物とは。

私に忍耐力と克己心の養い方と算術の面白さを教えてくれた、そろばん教室時代の恩師である山田けい吾 (けい=金偏に圭) 先生を大変尊敬しています。ある日、先生は「お前、そろばんの技術が少しあるからと言って有頂天になるなよ。お前の知らないことは未だあるんだぞ」と言いながら、昔は「掛け算九九」の他に「割り算九九」が存在していたことを私に教えてくれました。「割り算九九」とは割る数よりも割られる数の方が小さい場合の一桁の割り算の覚え方です。これは語呂合わせなのですが、例えば「二一天作の五 (にいちてんさくのご)」は1を2で割ると答えは 0.5、「三一三十の一 (さんいちさんじゅうのいち)」は1を3で割ると答えは0.3と余り0.1というように小数点以下1桁の数と余りが立ち所に分かる暗記法なのです。私にとって初めて耳にした「割り算九九」なのに先生から「一晩で覚えて来い」と命じられ、翌日に先生の前で披露させられたのですが、少しつかえてしまった所でパシッと頭を叩かれてしまいましたね (笑)。


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ラホヤのトーリーパインズ小学校で開催されたワークショップ。オーストリア生まれでドイツ語も達者なセニアさんと一緒に撮影。 (2004年5月27日)
——今後の夢を教えて下さい。

そろばんの回答は○か×のみ。曖昧さが入り込む余地がありません。私自身は「白黒はっきりしなさい」という態度はあまり好きではないのですが、公平という面からすれば、誰の主観も入らずに安心して結果を出せる部分がそろばんの魅力だと思います。「そろばんの教育効果を全世界の人に知って欲しい」̶̶この思いを胸に、これからも世界各地を飛び回りながら、私の生涯を算数教育に捧げていくつもりです。今後の課題としては後継者の育成に力を注がなければいけません。でも、私自身が若い頃に経験した金銭的な苦労を後継者には掛けたくないので、そろばん普及活動に与えられる十分な資金確保を可能にする体制が整うことを願っています。職業病と言うのでしょうか、私の頭の中では絶えず数字が駆け巡っているんです。例えば、目の前に止まっている車のナンバープレートの数字が目に入ると、知らない間に掛けたり足したりしているんですよ。そんなことは人生で何の役にも立たないのですが、もう条件反射となっているんでしょうね (笑)。でも、これも大切な訓練の一つだと思っているので、今後も「そろばん人生」を邁進していくことになるでしょう。


鈴木 功二 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

教育学博士、英語読み上げ算教育協会会長、NPO特定非営利活動法人・国際文化交流協会理事長。元全国珠算教育連盟アメリカ支部長。1937年栃木県宇都 宮市生まれ。1959年中央大学商学部卒業、同年日本大学大学院経済学部入学、2000年に米国の大学より教育学博士号授与。大学在学中に全国珠算選手権 大会・読み上げ算競技で2年連続日本一に輝く。珠算学校教師や商業高校教諭を経て、1965年に全国珠算教育連盟の派遣により渡米。30年以上に渡り UCLAを始め300校を超えるアメリカ各地の公立学校や世界各国の大学で教員の指導に務める。過去に英語・日本語著書合計7冊を出版したほか、NHKテ レビ「英会話 III」に講師として出演するなど多岐に渡り活動を続ける。現在、夫人と共に東京都在住。

(2004年7月1日号に掲載)