ゆうゆうインタビュー ダレル・"マウス"・デイヴィス

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「アリーナ・フットボール・リーグの父」 の1人と呼ばれるまでの経緯は。

アリーナ・フットボールを創案したのはジム・フォスターという人物です。彼がアリーナに座っている時、フットボールを室内で行うというアイデアが浮かんだそうです。彼は実験的に行ったゲームの録画を私に見せてくれました。その時、私はとても退屈だなと思いました。私がアリーナ・フットボール・リーグ (以下、AFL) のフットボール・オペレーション・ディレクターとなり、もっと面白いスポーツに変える方法を考えたのです。私たちは面と向かい合って、現在行われているゲームの基盤となるルールやスタイルを作り上げました。先ず、私たちは攻撃チームに焦点を当てました。「ファンは何を望んでいるか」と自問自答しているうちに、それは「タッチダウン」だと思い付いたのです。そこで、守備に制限を加えて、より多くのタッチダウン、つまり多くの得点が入るように配慮しました。でも、それは正真正銘のフットボールで、激しく荒々しい攻防戦が行われるのです。但し、大きな違いは、全てのプレイが「観客のすぐ目前」で行われるということ̶̶。アリーナ・フットボールの観客は激しい戦いを間近で観ることが出来ますし、時に選手たちは勢い余ってスタンドにまで入り込んできます。ファンはこれが好きなのです。これらのポイントに従って、私たちはルールを設定しました。全てのプレイを狭いエリアで展開するのは可能だろうかという懸念がありましたが、結果として上手く機能したと思います。ジムが私にアイデアを持ち込んだ時、室内フットボールは攻撃的でエキサイティングという評判を得ていたので、私とスタッフはリーグ設立に主力を注ぎました。中でも、私たちが議論したアイデアの一つは8人のオフェンスと7人のディフェンスというスタイルでしたが、ジムに提案すると「それはアメリカ的ではないね」という答えが返ってきました (笑)。


——現在71歳ということですが、監督業を続けて何年になりますか。

私が継続してコーチ職を務めていたなら、かれこれ50年になります。でも、その間に何度か中断していた時期がありました。私は数年間軍隊に所属していましたし、それ以外にも何年か現場から離れていました。高校から大学、そしてプロのレベルも含めて通算40年くらいでしょうか。


—— つまり、フットボール・コーチという仕事の魅力に憑つ かれている。

(笑) フットボールは私にとってキャリアであり、同時に喜びの糧でもあるのです。そして、常に情熱的な若い人々と行動を共にすることから若さを保つことができます。彼らは私が望むことに対して必死に努力します。人生の基盤となるのは、多くの場合「他人から何を得ることができるか」であり、「今日何ができるだろう」「私たちは共に何ができるか」ではありません。フットボールはその点に醍醐味があり、変わらぬ面白さがあるのです。でも、その楽しさは常に勝利と関連しており、そのために勝たなければなりません。負けてもよいのですが、勝っている時の方が絶対に楽しいのです。敗戦に際しては、自らがすべきことに集中するよりも、敗因の追求に時間を割かなければなりませんから。


—— コーチになる決心をしたのは。

中学2年生の少年時代でした。私はスポーツが好きで、優れた運動選手でもありました… そう言うと、少し大袈裟すぎるかもしれませんが、人並みにフットボール、バスケットボール、野球、陸上競技などをこなしていました。が、同時に、自分がプロ選手になるほどの恵まれた体格には成長しないとも思っていました。私の身長は5フィート6インチ (168cm) で、誰よりも小柄だったのです。


——コーチになりたいと漠然とした思いではなく、子供の時からコーチに 「なるべきだ」 と考えていた。

そう。高校でクォーターバックをしていた時も、既にフットボールの本などを読んで研究していました。ある時、私は試合中にチームメイトを招集して、本で読んだ「スクリーン・プレイ」を試してみようと提案しました。私たちは全く練習していなかったので成功するはずもなく、事実、悲惨な結果となりました。その日、フィールドを去った後、監督が「あのプレイは何だったのか?」と私に聞いてきたのです。慌てた私は「あれは監督の作戦の一つです」と言って、その場を凌ぎましたが…。


—— ニックネームの 「マウス」 が生まれた裏話を聞きたいのですが。

41_1.jpg取り立てて面白い話ではないのですが、話しましょう (笑)。高校1年生のとき、私は誰よりも小柄でしたが野球の代表チームの一員でした。私はヨチヨチ歩きの頃から野球をしていたのです。とにかく、チビの私に対して父は「家の周りでゴロゴロしているマウス」と呼んでいました。それがどういう意味であれ、私の手はネズミのように小さかったし…。ある日、野球の試合で私が二塁を守り、兄がキャッチャーをしていて、私は兄が投げたボールを落としてしまいました。兄は「上手い手さばきだな、マウス!」と叫んだのです。何と、私のニックネームはそれ以来続いているのです。チームメイトも私を「マウス」と呼ぶようになり、2年後には先生たちの間にも浸透してしまったのです。大学へ行ってからも同じ。軍隊に入った時、私はこのニックネームからやっと解放されるだろうと思いました。兄もニックネームで呼ばれなくなったので、私もそうなるだろうと…。ところが、軍の訓練が始まり周囲を見渡してみると、全員が大学時代の試合相手だったのです。その時点で、私は自分が「マウス」のままでいることを知りました。そんな訳で、このニックネームは延々と私に付きまとっています。

でも、それが悪いことばかりではなく、時には楽しいこともありました。ポートランド州立大学バイキングズ時代は非公認のマスコットがマウスでしたし、NCAA (全米大学競技協会) の記録を数多く塗り替えたクォーターバック、ニール・ロマックスと彼の弟はネズミをあしらったアウトフィットを身に着けていました。行く先々で私のニックネームが取り上げられ、USFLチームのヒューストン・ギャンブラーズでは素晴らしいレシーバーたちを「マウス・ケッターズ」 (「The Three Musketeers=三銃士」のもじり) と呼んでいました。選手、チアリーダー、マスコットを含めた全員が、何処へ行くにも機会があればネズミの耳を被っていましたね。サンディエゴでもそんな現象が起こるのは時間の問題だと思っています。


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Riptide Cheerleaders strike a pose on media night
—— コーチをサンディエゴ、そしてリップタイドへ導いたものは。

フットボールと気候でしょう! ここには優秀なメンバーが揃い、喜びと成功を手にするチャンスが待っています。実は、私はサンディエゴでゴルフを楽しもうと考えていたのですが、予想していた以上に次から次へと果たすべき事柄が出てくるのです。好きな事にはどうしても深くのめり込んでしまうのが私です。とりわけ、特別なことを成し遂げようとしている時は、結果を得るために時間を費やさなくてはいけない。私にはNFLへ戻る機会もありましたが、人生の現段階で1日20時間の仕事を望んでいる訳でもなかった。NFLの監督は膨大なエネルギーを消耗すると同時に、最高レベルの成果が要求される仕事です。サンディエゴは素晴らしい場所ですし、チームには豊かな可能性が秘められています。私はこの地で自分の時間を保ちながらも、愛するフットボールに関わることが出来るのです。勿論、私が望んでいるのは勝利すること。フットボールという勝負の世界では、誰もが常に勝ちたいのですから。現在、私たちは幾つかの問題を抱えています。でも、それをクリアして、私はもっとゴルフに集中する自分の時間が欲しい!


—— プロ、アマチュアを問わず、全てのレベルでコーチを務めてきた感想は。

私は高校、大学のフットボール・チーム、そしてカナダ、NFL、USFL、WFLなどのプロの世界を見てきました。ほとんど全てのフットボール界に関与しています。何故か、私は同じ場所で長く仕事を続けることができない!(笑)。コーチ職を通して、アメリカを越えてカナダやヨーロッパなどの世界を知ることができたのは、本当に貴重な経験でした。


——AFL は他リーグと比べて、どう違いますか。

41_2_new.jpg明らかに大きな差異があります。アリーナはフィールドが狭く、選手は攻守8名づつで、キックの際にはネットを使ってボールが試合場外に出ないようにしています。それでも基本はフットボールで、見た目もフットボールです。私たちはスポーツ・アリーナで NFLと同様に16試合を戦いますが、ルールの違いから攻撃チームが頻繁に得点するため、観客の興奮度は NFLより高いはずです。アリーナ・フットボールではNFLや大学対抗の組織的なゲームよりも一対一のスキルが要求されるので、レシーバーや大柄な選手に重責が与えられます。また、AFL 2 では各チーム20名の選手しか登録できないため、選手たちは攻守を兼任しなければなりません。NFLでは各選手は役割に応じて専門のスキルを備えていますが、AFLでは全ての面で優れている必要があります。遠い昔、私が大学でプレイをしていた時も選手は攻守両サイドを戦いましたが、AFLでも同様です。攻撃チームのラインマンは守備チームの一員でもあるのです。どちらかに優れた選手でも、それ以外のプレイも学ばなければなりません。選手にとっては難しい環境ですが、子供たちは両様のプレイを繰り返しながら成長していったのです。アリーナ・フットボールでは2人のスペシャリストが要となります。攻撃チームでは1人はクォーターバック、もう1人はセンター或いはレシーバーです。守備チームでは相手のクォーターバックを守る選手。その様相はまるでチェスのゲームです。通常、優れたディフェンスのラインマンは巧みな攻撃が出来ませんし、優秀なオフェンスのラインマンは守備が不得手です。そのため、攻撃と守備のいずれかを選択しなければなりません。私たちは常に守備を固めて、彼らが攻撃も出来る能力を備えているか否かを確認します。時には、一か八かの勝負をすることも必要になります。


——コーチとして未だに試行錯誤の状態なのですか。

勿論です! 監督業は全ての面での調整と改善を実行することに尽きます (笑)。大学での監督時代、過去を振り返って「私は何と愚かだったのだろう」と反省したものです。私は自分の判断が全て正しいと信じて行動していました。若いコーチの誰もがそうであるように。そしてある日「あの頃は何も知らなかった」と気付くのです。以前、私は守備チームのコーチを務めていましたが、当時を顧みる際、「選手たちを最悪のポジションに置いていたのでは?」と不安に思うことがあります。それでも彼らは優れたプレイを見せてくれましたが… (笑)! 監督の言動を信じている時、選手もそれに乗じて、首尾良い結果を生み出す傾向にあるのです。


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Mouse putting the offense through its paces during practice
—— 攻撃面の革新者たる 「ラン・アンド・シュート」 の導入者として有名なコーチですが、そのオフェンス理論を巡って論争が繰り広げられたとか。

人々は私が考え出したした「ラン・アンド・シュート」攻撃を好まなかった。何故なら、昔から続いているスタイルを覆すことになるからです。この方法を導入しようとした当初、誰もが私に「それは無理だ」と言って否定しました。「なぜ出来ないのか?」「後方に最低2人は残さなければならないし、ワイドレシーバーを4人にすることは不可能」「本当に? 何故?」「そういうことになっているんだ」という具合でした。監督業は極めて保守的な仕事だったのです。今でも覚えているのは、ポール・マクガイアが ESPN にいたころ、彼にこの攻撃方法について話をした時のこと。彼はバッファローに戻り、スタッフに私たちの方法論を伝えると、やはり「それは不可能だ。それは出来ない!」との反応が返ってきた。しかし今、NFLでは誰もがこのやり方と類似した戦法を使用しているのです!

現在、私たちはリップタイドでその修正バージョンを練り上げています。この攻撃理論が効果的に実践されれば、誰も止めようがないはず。これは「ノック・オン・ザ・ラン・アンド・シュート」と呼ばれるアマチュア的なスタイルですが、他のどの攻撃方法よりも訓練が要求されます。このオフェンス・スタイルはレシーバーやクォーターバックが相手の守備を見て、それぞれに的確な判断と決断を下さなければならない。ですから、器用で頭の切れる選手が必要なのです。そんな選択を瞬時に行える聡明な選手など存在しないと異論を唱える人もいますが、そういう意見は到底受け入れられない。選手に何をするのか正確に伝えることができれば、間違いなく彼らはそれを実行します。私がデトロイト・ライオンズの攻撃コーディネーターに就任した時、彼らは攻撃部門で最下位でした。仮にあと4試合戦ったとしても、それでも最下位のままだったでしょう。それほど悲惨な状態だったのに、2年後、チームは攻撃部門で最下位から4位まで浮上しました。私たちはパスをすべき時に前方へ走り、誰もが走るべきだと考える時にパスを断行したのです。相手の守備チームは私たちの動きに翻弄され、為す術もありませんでした。大部分のチームはオフェンスの際、深く走り込んで有効なパスを呼び込む状況を整えようとしますが、私たちはパスを主体に攻撃態勢を作ろうとしたのです。実際にこの方法は効果的で、急速にチームの成績を向上させてラッシング部門でリーグ1位に昇り詰めました。このようにフットボールは大変に奥が深く、興味の尽きないスポーツなのです。特に、ファンにとっては楽しさが増大します。この攻撃理論を導入しない訳にはいきません。


ダレル・"マウス"・デイヴィス ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

アリーナ・フットボール・リーグ 2 所属のサンディエゴ・リップタイド新監督。40年以上のコーチ歴を持ち、NFL、CFL、USFL、WALFなどの全レベルでのコーチ職を経験している。 ウエスタンオレゴン州立大学卒業。NFLや大学フットボールに多大な影響を与えた攻撃スタイル「ラン・アンド・シュート」の発案者。その後、NFLではこ の攻撃理論を見本としたスタイルが浸透したと言われる。1975~80年にポートランド州立大学の監督を務めて42勝24敗の記録を残す。大学コーチ時代 は攻撃部門で6回、得点部門で3回の全米トップに輝き、NCAA (全米大学競技協会) において20個の攻撃記録を塗り替える。プロの初コーチ職は複数のチャンピオンシップ出場に導いた CFL所属トロント・アルゴノーツでの攻撃コーディネーター。USFLではヒューストン・ギャンブラーズで攻撃コーディネーターを務め、その後デンバー・ ゴールドの監督に就任。NFLではデトロイト・ライオンズの攻撃コーディネーター時代に「シルバー・ストレッチ」法を考案して成功を収める。 1994~95年アトランタ・ファルコンズのクォーターバック・コーチ。アリーナ・リーグでは1986~88年にAFLフットボール・オペレーション・ ディレクターとして活躍。リーグ設立やその後の発展に尽力し、顕著な功績を残した。※ダレル・"マウス"・デイヴィスとサンディエゴ・リップタイドについ ての詳細は http://www.sdriptide.com へ。


(2004年5月16日号に掲載)