ゆうゆうインタビュー アンドリュー・フラウンド

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相撲に興味を抱いた理由は。

日本で暮らしていた時のことです。当時、市川 (千葉県) に住んでいた私は長時間かけて電車通勤をしていました。私は仕事以外では特別なこともせず、あまり社交的でもありませんでした。日本での滞在が終りに近づいてきた頃、ここでの思い出を残すために何かをしようと考えるようになりました。そこで、私は 『東京ジャーナル』 誌を開いて、東京周辺で面白いことを捜し始めたのです。何度か1日ハイキングを行い、その後で相撲の広告を見つけました。両国国技館は地理的にもそう遠くはないので、私は観戦に行くことにしました。当日、何も知らない私は 「開始時間:午前9時~午後6時」 とあったので、午前9時に行って、チケットを買って中に入りました。ところが、9時半から3時まで、幕下の力士たちの取組を観戦する観客はほとんど居ません。私は独りで土俵から遠く離れた席に座り、同じことを何度も繰り返す力士の取組を数時間近く見つめていました。自分でも私は何をしてるのだろうと思うほどでした。漸く人々が入り始め、メインの取組が始まりました。これが、私の最初の相撲体験です。私は空手や柔道などの格闘技を勉強し、日本文化にも興味を抱いていましたが、相撲に関しては特に気に留めていませんでした。そして、初めて相撲を観たこの日、あれなら私も出来るだろうと思ったものです。未来に待ち構えていたものを予感していたのでしょうか。


——カリフォルニア相撲協会と日本の相撲では大きな違いがありますか。

33_1.jpg 先ず、カリフォルニア相撲協会はアマチュアの団体で、プロではないので、日本相撲協会とは多少異なる国際相撲連盟の規定に則っています。アマチュア相撲がオリンピック種目になるため、日本相撲協会には無い国際的な標準と、ライト級、ミドル級、ヘビー級という男女別の重力クラスを設定する必要がありました。また、「腹巻きの下にタイツの装着を認める」、「顔の平手打ちは禁止」 など、規則や装束の違いもあります。儀式は要約されているものの、基本的に規則は同じです。また、土俵のスタイルも同じ。ただ、私たちは 「四股」 は踏まず、土俵に上ると相手の力士と向き合う所定の位置にしゃがみます。そして、行司 (審判員) の 「待ったなし」 の掛け声で両力士は両手を地面に着けて最終的なポジションを取り、「ハッケヨイ」 の声で立ち合います。日本式とはほんの少し違いがあるだけです。

が、相撲に対する文化的な考えは違います。日本では相撲はただのスポーツではなく、歴史的伝統を含めた深い意味を持ちます。ところが、日本の外では相撲は伝統よりもスポーツなのです。日本のプロ力士は毎日律された生活を送り、人生の全てを相撲に捧げますが、日本以外では相撲は週末に挑戦するような趣味であり、アクティビティです。ほんの一握りの人たちだけが本物のプロ力士になって、規律の厳しい世界で生きたいと思っています。しかし、様々な障害を乗り越えられず、ほとんどの人はその機会に恵まれません。


—— 相撲に対する多くの誤解を克服する必要性は。

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Akebono squares off against US Sumo Open champion Barnabas Toth. Photo by Chieko Hayashi.
ほとんど誰もが、相撲はただ大柄で太った人が行うものと考えています。が、実際に横綱力士は世界でもトップクラスの運動選手なのです。私たちはそんな誤解を一掃したいと思っています。大相撲の元横綱、曙関がここへ来た時にも私たちはこの誤解について話しました。彼の話では、NFLのチームが 「ジャパン・ボウル」 で訪日した際、数人のラインバッカーが曙関の所属していた東関部屋に招待されたそうです。そして彼らは相撲に挑戦したのですが、力士達は NFLの選手をこてんぱんに負かしたということです。もっと多くの人々がこの事実を知れば、相撲に対する認識も変わるでしょう。

優れた力士になるためには、迅速さ、強靱さ、柔軟性が必要です。千代の富士のような何人かのトップ力士は、50mや100mの短距離走を本物のスプリンターを負かすくらいに速く走ることが出来ますし、測定不可能なほどの強靱さも兼ね備えています。勿論、彼らは飛び抜けた柔軟性も備えていますし、全ての力士は完全な開脚が出来ます。体操選手だけが相撲の強靱さと柔軟性を合わせ持っているのです。相撲に必要な3つのコンビネーションは同調することが難しいのです。


—— カリフォルニア相撲協会が発足した経緯は。

日本からアメリカへ戻ってきた後、私は相撲に対して深く興味を持ち始めました。帰国後、ロスアンジェルスで教師として働き始めた私はダウンタウンで開催される 「ジャパン・エキスポ」 のチケットを生徒からもらい、昔を懐かしむべく、訪日経験のある友人を誘って出掛けたのです。そこでは、相撲のデモンストレーションも行われていました。私たちは観戦するうちに次第に熱中し、会場で挑戦者を募り始めた時、私が逞しい体格をした友達に強く促すと、彼が意を決して 「よし、お前もやるならオレもやる!」 と。そして、私たちは相撲に初めて挑戦し、すっかり気に入ってしまったのです。これが機縁となって、私たちは何人かの友人を誘って小さな相撲クラブを結成しました。効果的な運動でしかも“実用的”という側面から、多くの人々が相撲に傾倒していきました。UCLAで始まった私たちの小団体は、1998年頃からUCLAのレクリエーション・プログラムのクラスを提供するようになりました。


——小団体から国際的トーナメント 「US相撲オープン」 を主催するまでに発展した過程は。

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Female sumo dig in at the US Sumo Open. Photo by Chieko Hayashi
私たちは2000年に大きな転換期を迎えました。私は偶然にもアマチュア相撲世界選手権大会で2度チャンピオンに輝いたスヴェトスラヴ・ビネヴと出会いました。スヴェトスラヴは背も高くなく典型的な力士には見えませんが、彼の身体はほとんどが筋肉です。彼は祖国ブルガリアではレスリング、パワーリフティング、トラック・フィールド競技、コーチ、ハンドボールなどの豊富な功績が称えられた一種のスター的存在でした。ところが、私が会った時には、彼はアメリカに着いたばかりで行く当ても無い状態。彼をCSAのコーチに招くことになるのですが、それから様々なことが起こり始めるのです。私たちは組織をさらに次のレベルへと発展させようと必死でした。ブラジルのサンパウロで行われる2000年相撲世界チャンピオン大会に出場するため、スヴェトスラヴを巻き込んでチームの頭数を揃える必要があったのです。スヴェトスラヴは過去2年間に日本とドイツで行われた大会で優勝を果たしていました。ところが、ビザ取得のための書類作成が遅れて彼は参加不能になってしまい、私たちは自ら2001年に 「US相撲オープン」 を開催しようというアイデアに辿り着きます。先ず、私は国際交流基金に連絡を取り、イマイ・タカシ氏を始めとする方々から力強い援助を得ることが出来ました。しかし、その時点では、私がどれほどの困難に立ち向かっているのか理解していませんでした。分かっていれば始めなかったでしょうね。組織面や流通面など数多くの問題があり、私は6カ月間フルタイムで働きながら週に50~60時間をトーナメントの準備に費やしたのです。そして、初めてトーナメントを開催した年は参加者は僅かに25人でしたが、翌年には倍増し、昨年は NHK や TBS を含む世界中から50~60のメディアが取り上げるほどに規模が拡大しました。


—— 「US相撲オープン」 では何人かの有名力士を登場させたそうですが、その時の様子は。

とても素晴らしい出来事でした。私たちは幸運なことに相撲界の伝説とも言える元大関・小錦関と元横綱・曙関を迎えることが出来たのです。スポーツを愛する2人は「US 相撲オープン」 のプロモーション活動に快く同意してくれました。私はどちらか一方が何らかの理由で来れない場合もあるだろうと思っていました。特に、メディアに対してスケジュールや資料を提供した後では、それは悲惨な事態を招くことになってしまいます。ところが、全てが予定通りに進んだのです。在日時代は個性的に振る舞えなかったようですが、両力士は思いやりのある社交的な人柄でした。日本では彼らの言動が全て監視されているので、ここアメリカでは気楽だったと思います。小錦関と一緒に過ごした後で、私は彼が日本相撲協会の厳格な伝統の環境には合わなかっただろうと推察したものです。一方、曙関はインタビューで相撲の発展に貢献するため、親方として留まると述べていました。彼は若い貴乃花関らと力を合わせて協会の内部から多くの仕事が出来ると思っていたのでしょう。でも、現在は考えが変わったようですね。(昨年、曙は格闘技界への転向を表明)


—— 「US相撲オープン」 の歴史の中で特筆すべき思い出はありますか。

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Akebono towers over Hawaiian amateur champion, Kena Heffernan, as referee, two-time amateur world champion, Svetoslav Binev looks on.Photo by Chieko Hayashi.
勿論あります! 2002年の夏の出来事を私は今まで誰にも話せませんでした。後に親方となった元横綱・曙関をゲストとして迎えた時、彼は喜んでファンにサインを贈り、群がる人々の中で写真撮影にも愛想よく応じていました。トーナメントの前日には私たちの練習に参加して、新しい動きや技術についての指導もしてくれました。そして、当日に予想外の事態が起こったのです。ほとんどの試合を辛抱強く観ていた曙関は、ライト級、ミドル級、ヘビーウェイト級が終了し、終幕が近づくにつれてソワソワと落ち着かない様子になっていました。私は曙関の隣に座っていたのですが、白いシャツとスラックス姿の彼は次第に興奮して、テーブルに手を置き、大きく見開いた目で 「オレは闘うぞ!」 と叫んだのです。私を含めて全員が茫然となりました。5分後、まわしを締めた元横綱は準備運動を開始。そして四股を踏み始めて精神を集中させている様子。「稽古が必要だ」 と言うので、私たちは試合に出ていない選手を引っ張ってきました。曙関は練習相手を放り投げながら、オープン級のチャンピオン、ハンガリー出身のバーナバス・トスとの取組を待っていました。バーナバスは決して簡単に負けるような力士ではなく、今まで日本のプロ力士との試合にも勝っていました。ところが、曙関は楽々と彼を負かしてしまったのです。私たちは感激してゾクゾクと打ち震えていました。曙関は他の選手にも機会を与えて何度か取組を行いましたが、元横綱/親方がアマチュアを相手にすることは驚愕すべき出来事なのです。彼が親方を引退して K-1 の世界へ転身するまで、私たちはこの光景を話すことが出来なかったのです。過去の試合を振り返っても、曙関は今でも格好が良く、優れた世界クラスの選手だと思っています。


—— 「US相撲オープン」 の準備以外に CSAが行っている活動は。

33_2.jpg相撲というスポーツを広めるためにカリフォルニア各地でのデモンストレーションを行うと同時に、年間を通して小規模の競技会を開催しています。週ごとのクラスは会員だけでなく一般向けにも開いています。時期や場所により 7~20人が集まってきます。私たちは相撲をスピード、柔軟性、強靱さを要求するスポーツとして捕えると同時に、他の格闘技と同様に大切な文化的側面も紹介したいと思っています。そして最終的には、稽古と試合前の準備運動で 「四股を踏む」 スタイルまで人々に理解してほしいと思っています。つまり、私たちは相撲の興行的側面、文化、スポーツというそれぞれの側面をミックスして、あらゆるレベルに対応しているのです。私たちは相撲が活発なスポーツであることを皆さんに認識して頂きたいのです。


—— 初めて相撲に挑戦する場合、1日目には何をするのでしょう。

私たちのコーチ、スヴェトスラヴの指導法を説明します。先ず、まわしを着けることから始まります。そして、他の格闘技やスポーツと同様に全員が20~30分程度の基本的なストレッチを行います。これらの準備は正しい姿勢を保持し、ケガを回避するために必要です。そして、フットワークやエクササイズを行い、20~30mの短距離走やジャンプ運動に移ります。四股はこの後で踏むこともありますし、ストレッチに含まれる場合もあります。第一に、立ち合い前のしゃがんだ姿勢を皆ができるようになってほしいと願っています。その後、対戦前の両手を叩いて腕を広げる一連の動きを練習することもあります。私たちは日本で教えている80種類の全技ではなく、基本的な技術だけを習得します。素早い腕の押しと振り、低く重心を保つこと、脇を締める練習などです。相撲は誰もが何かを学び取れるスポーツです。基本的に入りやすいですし、さらに学びたい人には深く豊かな世界が待ち受けています。カリフォルニア相撲協会ではレベルと体型を問わず、いつも誰もが相撲を楽しんでいます。


アンドリュー・フラウンド ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

アンドリュー・フラウンド氏: サンタモニカを本拠地とするカリフォルニア相撲協会 (CSA) 創立者、理事長。毎年、世界中から参加者が集まる「カリフォルニア相撲オープン」を開催。ニューヨーク生まれ。カリフォルニア大学サンタバーバラ校文学部 卒。現在、CSA 理事長、UCLA エクステンション(公開講座) やサンタモニカ大学の講師を務める。スポーツ愛好家として相撲のほか野球、剣道、太極拳、合気道なども学ぶ。また、日本の伝統文化、宗教、哲学、歴史にも 関心を持つ。NHKやTBSを始め、「ジョン・カビラ・ショー」 などのラジオ番組による日本でのインタビューも多数。カリフォルニア相撲協会についての詳細は http://www.usasumo.com まで。


(2004年1月16日号に掲載)