ゆうゆうインタビュー 玉城 一石

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紀元前3000年頃に古代エジプトで誕生した腹話術は、司祭や預言者が自分の声を神の声のように見せかけ、民衆はそれを「お告げ」や「奇跡」などと思ったそうです。日本では1940年頃から登場しましたが、いつしか素人芸のマイナーイメージが定着してしまいました。しかし、そんな印象を払拭し、腹話術を世界に通じるエンターテイメントへと導いた日本人がいます。その名も「いっこく堂」こと、スーパー腹話術師・玉城一石さん。“声の魔術師”の異名をとるエンターテイナーの素顔を紹介します。


腹話術への憧れ

子供の頃から大のテレビっ子で、学校から帰るとひたすらテレビを見ていました。バラエティ番組を観ては爆笑し、虚構の世界に感動して涙を流していました。中学3年生の時に放送されていた西田敏行さんのドラマが特に好きで、自分も役者になろうと思ったんです。こう見えても中学生の頃はむしろ暗い性格で、友達があまりいなかったんですよ。でも、このままではいけないと思い、高校入学を機に、先生や芸能人のモノマネを披露するようにしたんです。これが意外とウケてましてね…。「幸せの笑い」とでも言いましょうか、友達や家族の笑う顔を見ると自分も楽しくなって、ネタ探しにも結構気合いが入りましたよ。

高校を卒業して19歳の時に役者を目指して沖縄から上京し、22歳の時に劇団民藝へ入団しました。念願の舞台俳優としての一歩を踏み出したと思いきや、6~7年経ってもセリフがもらえず、将来に対する不安を抱えながらも日々アルバイトに精を出して劇団員としての活動を続けていました。そして、ある旅公演の打ち上げで、何気なく宇野重吉さんらのモノマネを披露してみたところ、座長の米倉斉加年さんが「君は一人芸も向いているんじゃないか」と言ってくれたんです。「そうだ、一人で何かやってみよう」と思いまして、翌日から毎日米倉さんの楽屋に押し掛けて、新聞ネタを入れた漫談をやらせてもらったんです。でも3か月間位通ったんですが、米倉さんは一度も笑ってくれないんですよ。

そんなある日、中学 2年生の時に学校で見た交通安全の腹話術の光景が脳裏に蘇り「これは面白い」と閃いたんです。でも、普通の腹話術ではウケないと思い、2つの人形を操る腹話術をやろうと考えました。芝居をやめて腹話術をやると言ったら、当然、劇団の仲間や先輩から非難があるだろうと思っていたんですが「悪いことじゃないんだからやりなさい」って米倉さんがおっしゃってくれて心が晴れました。1991年12月、28歳。劇団の活動を休止して、腹話術に熱く燃えた冬の旅立ちでした。


——練習の日々

21_1_1.jpg ところが、腹話術と言っても自分は右も左も分からないズブの素人。腹話術師を育成する学校があるワケでもなく、ましてやお金があるワケでもない…。そこで、図書館に行って本を借りてきたんです。『誰にでもできる腹話術』。この1冊の本を頼りにひたすら練習しました。最初にマスターした言葉は「おはよう」でした。初めはちょっと口を開けてね。いつでもどこでもずーっと「おはよう、おはよう」ってボソボソ練習してました。1年後に何とか人前で披露できるまでに上達し、ボランティアとして施設を回るようになったんですが、ある日、特別養護老人ホームで一人のおばあちゃんが帰りがけに「あなた、あがってたでしょ。まだ日が浅いの?」と言われましてね。ショックでしたよ。それで、腕前を上げて、誰もが認める芸を披露しなければならないと思うようになりました。

自ずと練習にも気合いが入りました。伝統的に腹話術は高い声が使われているんですが、以前からその法則を不自然に思っていた僕は、喉の痛みに耐えながら自分なりに練習を続け、低い声やダミ声を出すポイントを数か月かけて掴むことができるようになったんです。また「バ行やパ行は破裂音ゆえに、いくら練習しても口を動かさずには発声できません」と本に書いてあったのですが「これができなければアドリブは効かない」と感じ、1日10時間の練習を6年間続けて、その発声法を会得しました。また、衛星放送などでよく見られる、話し手の口の動きと音声のズレを再現する「時間差」などのワザも習得することができて、芸の幅が広がっていったんです。


—— スーパー腹話術師誕生

工作が不得意だったので、人形の製作はかつて人形劇団に所属していた劇団民藝の先輩に頼んで作ってもらったんです。そして誕生したのが「ジョージ」こと吉祥寺出身おっとり型の「吉助氏」、そして「サトル」ことシアトル出世鳥でうるさ型の「サトル・シアトル・トンデール」です。

93年頃から細々とですが、プロとして巡業の旅に出るようになりました。仕事で地方へ行ったある日の夜、酔っ払いながら頭にネクタイを巻いた大勢のサラリーマンが「イッコクドー !」って叫びながら盛り上がっている夢を見たんです。すごい夢でしょう。翌日から9体の人形と自らの一座を「いっこく堂」と改名したんです。

1998年、作家で演出プロデューサーの藤井青銅さんとの出会いは僕の人生を大きく変えることになりました。これまでの腹話術は人形と演者の言葉のやり取りという単純で古めかしいものでしたが、そこにドラマ性を加えて、人形と演者がそのドラマに応じた役柄となって物語を進行する手法を生み出したんです。

人形の数も12体に増え、この芸が徐々に皆さんに受け入れてもらえるようになり、ニッポン放送「高田文夫プロデュースOWARAI ゴールドラッシュ」を始めとする新人賞を獲得することができたんです。

2000年6月にはラスベガスで開催された「世界腹話術大会」に参加しました。「世界一の腹話術師」と言われているロン・ルーカス氏に一度自分の腹話術を見てもらおうとライブビデオを送ったところ、「日本語が分からなくても十分楽しめた。是非会ってアイデアを交換したい」と言ってくれたんです。英語を丸暗記していましたので、そのプレッシャーに押し潰されそうになりましたが、「ジョージ」を観客に紹介した瞬間、「え、これがジョージ ?」というような予想もしない笑いが返ってきて、一気に緊張の糸が解けて、自分本来の芸を披露することができたんです。ルーカス氏もとても褒めてくれて、観客の皆さんからもヤンヤヤンヤの喝采を頂きました。

その日、世界中から集まった沢山の腹話術師に会いましたが、自分と同じ発声法の人はいなかったですよ。自分の技が完璧だなんて全く思っていませんが、口を動かさず歯も見せない自分の発声法は世界に誇れる唯一のものなのかな…と思っています。


—— 限りなき挑戦

21_2_1.jpg「チャップリンのように愛される芸人になりたい」… これが僕の夢です。毒でウケを狙う薄っぺらな芸ではなく、心から笑い、泣ける大人の芸を追求していきたいですね。上質なエンターテイナーは人を幸福にするそうですが、僕の芸を観て心がホッと和んだらそれで満足です。観衆の幸せそうな顔、感動の涙が僕のエネルギー源。もう一度自分の原点 「幸せの笑い」 に戻って、世界中でボランティアをしたいと思っています。

現在は7月の米国ツアーに向けてリハーサルに励んでいます。サンディエゴでの公演は初めてなので、今からとても楽しみにしています。7月11日はご家族やお友達と一緒に 「幸せの笑い」 に浸って下さい。


玉城 一石 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1963年 (昭和38年) 神奈川県に生まれ、沖縄で育つ。19歳で役者を目指して上京、22歳の時に劇団民藝へ入団。1992年より独学で腹話術を始め、93年に「いっこく堂」と してデビュー。99年にニッポン放送「OWARAI ゴールドラッシュ」で優勝。99年、文化庁芸術祭新人賞、浅草芸能大賞新人賞、第37回ゴールデンアロー賞新人賞を受賞。2000年にラスベガスで行われ た「世界腹話術フェスティバル」で念願のアメリカ進出を果たす。

好きな言葉:畏敬の心
日課:朝起きたらうがい (喉を守る)
ストレス解消法:映画館に行く、ジムで身体を動かす
カラオケ十八番:久保田利伸さんの「タイムシャワーにうたれて」
好きなテレビ:どっちの料理ショー
好きなスポーツ:もちろん野球。もちろん阪神 !! 今年は本物です

 
(2003年7月16日号に掲載)