ゆうゆうインタビュー ベン・S・セガワ

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サンディエゴ日系米人歴史協会 (JAHSSD) の活動目的は何ですか。

サンディエゴの日系米人に関わる歴史物を取り集めて保存していくことが私達の仕事です。戦時中の強制収容所での経験も含めて、私達の歴史をより皆さんに理解してもらえるよう、展示会の開催、学校等での講演を通して協会の普及活動に励んでいます。

私達はバハカリフォルニアとインペリアルバレーを含まず、様々な理由からここサンディエゴだけに活動領域を絞っています。メンバー全員がボランティアとして活動を続けているので、実際、サンディエゴだけに限定しても容易ではないのです。バハカリフォルニアだけを見ても長大な歴史が存在するでしょうし、公言されていない事実も隠されています。これは、オーシャンサイド、サンマルコスといったサンディエゴ郡北部でも同じことが言えます。閉ざされた歴史がそのまま消えようとしているのです。


——JAHSSD 設立の経緯は。

1991年のアリゾナ州ポストンでのリユニオン (再会の集い) が大きく影響したのですが、戦時中の立退きや収容所での経験がこの組織を立ち上げる発端となりました。1980年代以降、2 ~3年毎に私達ポストン被収容者 (強制収容所へ送られた日系米人) のリユニオンが開かれるようになり、サンディエゴからロサンゼルス、サンノゼからフレズノへというように開催場所は常に移動していました。収容所はポストン1~ポストン3に分けられて、私はポストン3で生活していました。リユニオンの話に戻りますが、サンディエゴでの開催が決まり、私達は展示会を設けようと考えたのです。歴史家であるドン・エステス氏の指揮の下、私達10人と当時副会長だったブルース・アサカワ氏、ユキオ・カワモト氏と共に準備に取り組みました。私達は写真や工芸品の他に、当時の日常生活で使用された物品を通してポストンでの生活の実状を伝えたかったのです。その結果、誰もが心を奪われる美しい展示会となり、大きな成功を収めました。

当時、私達は一般人を受け入れずに被収容者の友人や家族のみを招き入れていました。多くの人が未だ心の奥に深い傷を負っている事実を知っていましたし、私達の活動が話したくない過去の傷を掘り起こしてしまうとの懸念があったからです。月日が経過しても拭い去ることの出来ない痛みを少しでも和らげてあげたい ̶̶̶ というのが当時の思いでした。私達にとっても神聖な活動でしたし、収容所経験を持たない人々に容易に受け止めて欲しくなかったのです。被収容者の多くが過去に涙を流し、そんな姿を記事やテレビでこれ以上目にしたくないという思いもありました。

そして、1930年から40年代にかけて、児童司書として活躍されたクララ・ブリード女史の功績を称えるチャンスに恵まれました。昔、子供達は彼女のいる児童図書館をよく訪れていたものでした。私の前妻も当時はそんな子供達の1人でした。クララさんは日系米人の子供達について理解を示し、戦争が起こった時、収容所へ向かう幼い私達を駅まで見送りに来てくれました。彼女は 「私にこのカードを送りなさいね! あなた達が何をしているのか知らせるのよ!」と言いながら、皆にポストカードを配っていました。意外にも、多くの子供達が彼女へカードを送り始めたのですが、クララさんが届いたカードを40年間も大切に保管していたことなど誰も知りませんでした。本、鉛筆、洋服、ガム、様々な物資を送り、子供達のためにあらゆる努力を惜しまなかった彼女に、私達は敬意を表して栄誉を授与したいと考えていました。1991年、展示会に現れた彼女は言いました。「ベン、あなた達はここに沢山の歴史を刻んできたわ…。歴史協会を発足させて、人々にその足跡を見せてあげるべきよ!」と。そして、1991年9月4日、私達の協会が正式に設立しました。


—— 設立当時のメンバーを教えて下さい。

展示会の実行委員には、このまま解散したくないという思いがありました。クララさんから勇気を与えられた私は、「既に仲間はここに集まっているじゃないか! 皆で一緒に始めよう」と声を掛け、展示会実行委員全員がそのままサンディエゴ日系米人歴史協会の役員メンバーに就任したのです。周囲からの説得を受けて私が初代会長の座に就きました。当時、私の任期は2~3年だろうと思っていましたが、実際には6~7年務めました。私達だけで発足した協会も、現在では400名以上の会員を持つまでになっています。


—— JAHSSD が正式に発足した後のプロジェクトは何でしたか。

14_1.jpgドン・エステス氏 (JAHSSD歴史家) の指導で、私達の親世代の歴史を語り伝えるというプロジェクトが持ち上がりました。出来るだけ多くの人にインタビューを行い、彼らが経験した生活の記録を残そうとしたのです。戦後に日本へ戻っている人々もいて上手く先へ進めない問題もあり、私達は出来る作業から始めていきました。収容所生活経験者の協力による記録は誰にでも容易に理解できるように整理されています。これは現在も続いている活動の一つであり、年々業績を積み上げています。


——一般人にはどのようにメッセージを伝えているのでしょう。

最大限に多くの人々へメッセージを送りたいとの思いから、会報誌 FOOTPRINTS (足跡) の年4回発行と講演会事務局の運営を行っています。依頼を受ければ、すぐに誰かを送り出して講演を開く態勢を整えています。いつしか、収容所経験者への講演依頼を多く受けるようになりました。過去の体験に苦しむ人々を助ける目的で私達も最善の努力を尽くしていますが、暗い過去について未だに話したがらない人も沢山います。自分の人生には壮大なストーリーがありながら、とにかく話すことが出来ないという人達。通常、講演には私達3~4人で会場に向かい、パネルの他に幾つかの小さな展示品を持参するようにしています。私には講演終了前に皆さんに伝える言葉があります。それは 「ポストン収容所での経験が私を強い人間にしてくれた。今では4人の子供全員を大学へ送り出し、2人は卒業を迎えるまでになって誇りに思う」と。如何なる情報や知識も、一度身に付ければ他人に奪い取られることはないのです。車や家を奪われることはあっても、その記憶を他人に消されることはありません。


—— ポストンでの経験から得たものは何ですか。

大切な友人に出会えたというのがポストンで得た宝の一つですね。収容所に送られたのが私が11歳の時、1942年でしたから、私達はもう60年以上も友人関係を続けているわけです! 私達の友情は“希望の兆し”となり、強い絆で結ばれています。少なくとも50人以上の仲間達と今後も連絡を取り続けていきます。収容所経験が無ければ、これほど強い結び付きにはならなかったでしょうね。


—— ドキュメンタリー 「圧力下の民主主義」 を製作されたと伺いましたが。

製作の経緯を知っていますか? 日系米人の歴史をドキュメンタリー化して保存すべきとの考えから、カリフォルニア図書館協会に話を持ちかけている団体がありました。私達はカリフォルニア州議会から製作基金として3年間に渡り毎年100万ドルの供出を受けることになり、さらに、ビデオ製作を目的とした7万5,000ドルの要求も通ったのです! しかし、このプロジェクトへの資金集めは自分達でも出来るという確信があり、実際には5万ドルのみを受け取りました。私達が綴る歴史に誤りが無いこと、そして、自分達が受けた経験は日系米人に限らず誰にでも起こり得るという危険性を人々に伝えようと、皆で必死に働きました。製作後、このドキュメンタリーは数百校に上る学校へ配付されたのです。


—— ドキュメンタリーにはセガワ氏自身の経験に基づいている部分があると思います。ご自身の経験が同じ過去を持つ日系米人を代表する形になってしまう、そんなプレッシャーを感じていましたか。

実際に私自身が語り伝えた経験は列車に乗って収容所へ向かったという部分だけでした。当時、何が起こるのか、何処へ行くのかさえ分からずに、命ぜられるままに出発の準備をしなくてはならず、両親 (そして政府) の 「行きなさい」 という言葉に従い、仕方なく収容所へ送られたという事実だけを伝えたのです。


—— 個人的な歴史品など数多くの展示物を管理されていると思いますが、保管場所やミーティングを行う会場を確保されているのですか。

いいえ。でも、常にアンテナを広げて場所探しを続けています。自分達が永久に所有できる建物が持てたら最高ですね。以前は、自宅のガレージやベッドルームに全てを保管していましたが、現在はエステス氏 (前出の歴史家) の地下室を借りています。ロケーションを問わず私達に相応しい場所が見つかれば、今すぐにでも飛び込んで行くでしょう。活動力と熱意に溢れていても、それに伴う資金が無いのです。大型の歴史品を手放した理由も、十分なスペースの確保が無理だったからです。写真の保管は簡単ですが、農場から入手した300パウンドもある古い鉄床 (かなとこ) のような年代物の道具を保管するのはほぼ不可能です。誰もが楽しめるように、今後も出来るだけ多くの家庭から歴史品を集めようと思っているのですが。


—— 全員がボランティアでありながら忙しく活動されている、その理由を教えて下さい。

14_2.jpg私の子供達は、ポストンでの私の体験について尋ねたことがありません。一度もね…。でも、いずれ彼らも自分のルーツについて疑問に思う時が来るでしょう。人間はある時期を迎えた時、自分の人生についての思いを巡らせるものです。彼らがその問い掛けに直面した時、正しい答えが導き出せるよう、今、私達は一生懸命に頑張っているわけです。


—— 将来の目標を教えて下さい。

更なる若い世代の人達が JAHHSD に参加することを期待しています。自覚は無いかもしれませんが、若い彼らも歴史を作っているわけですし、将来、彼らの子供達が過去の事実を知りたいと思う時が来るかもしれません。また、日本人にも積極的に関与してもらいたいと思っています。日本へ行き、皆さんに私達の存在を知ってもらうと同時に、お互いの理解を深めたいという願いがあります。私達のグループと日本人は上手く関われていない部分がありますが、絆を深めることで文化の壁を取り除いていきたいですね。深く理解し合うことで、お互いの強さを引き出すことが出来る ̶̶ 私はそう信じています。


ベン・S・セガワ ・

サンディエゴ日系米人歴史協会理事長。同協会前会長でもあり協会設立メンバー。日系米人コミュニティーで活動を続けると同時に、バルボアパークにある日本 友好庭園の役員も務め、日系米人市民連盟、サンディエゴ・キリスト教会会員でもある。11歳の時、強制収容所へ送られた12万人の日系人の1人として 1942年から45年までポルソンで過ごす。1930年ラメサに生まれ、現在はグレース夫人と共にボニタに暮らす。

(2003年3月16日号に掲載)