ゆうゆうインタビュー 吉岡香代子

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ダンスの道に進む機縁となったのは。

日本で母がクラシック・バレエを嗜んでいたことから、ヨチヨチ歩きの姉と私も習い始めたんです。まだオムツを当てていた頃ですよ! 親として物心のつかない娘に意図的に何かをさせようとした。それがバレエでしたね。でも、成長とともに、自分自身が望む道だと思うようになりました。


——そう自覚するようになった意識の変化とは。

8歳の頃は、私も姉も毎週土曜日がレッスンで終ってしまう生活がとてもイヤで…遊んでいたいし、友達とも会いたいし、姉妹そろってバレエをやめちゃったんです!でも、10歳の時に友達のバレエ発表会を観て目を疑った。昔、一緒に習っていた皆の上達ぶりにびっくり仰天! もう母に懇願して、再びクラスに通わせて欲しいと



—— 再びバレエを習い始めた時、どんなダンサーを夢見ていましたか。

絶対にバレリーナになる! その思いだけ。大阪でロシア・バレエ団の公演がある年は必ず母が連れていってくれました。当時のカラー刷りのプログラムを今でも覚えています。宝物のように枕元に置いて寝るんです。そして毎日毎日、何度も読み返して…。


—— 特に影響を受けたダンサーの存在は。

ファンだった女性ダンサーは居ないけれど、(ミハイル) バリシュニコフに熱を上げていました。彼の存在が私にダンサーへの憧憬を植え付けました。個人的にバリシュニコフの舞台を観たことはないですよ。でも、迫力と優美さを兼ね備えた彼の動きには驚嘆させられました。力強くて男性的…霊的というか、魂を鼓舞するようなダンスでした。


——自分にダンスの才能が賦与されていると自覚した時期は。

ダンサーとしての技術面はかなり高いレベルだったと思います。でも、身体的にはバレエダンサーには不適格で、先生は私に目をかけてくれなかった。姉は背が高くて痩身…バレリーナの体型をしていて私よりも将来を嘱望されていました。その姉がバレエをやめて、遂に私にチャンスが訪れたと期待したのも束の間、テクニックとルックスを備えた別の子が浮上して再び私は蚊帳 (かや) の外 ̶̶̶。高校時代に私達はバレエ・コンクールに出場したんですよ (微笑) …入賞したのは私だけ。やがて、ライバルの子も去っていった。… 思うに、その子は先生の強制的な指導への反発を繰り返すことに疲れてしまったのでしょうね。そして、私1人が残り、先生の指導を一身に受けることに ̶̶̶。想像以上に厳しいレッスンを課せられた私は、彼女たちが感じていたプレッシャーの重さを理解し始めていました。


—— どのようにプレッシャーに立ち向かったのですか。

10_0.gif意見の衝突の日々でした。高校卒業後、私は先生を補佐するためにバレエクラスで教えていました。当時はまだダンス修行中の身でもあり、クラスの月謝を納めていましたが、インストラクターとしての報酬は無料でしたね。先生は厳格な人で、私の生活全体を統制しようとしていました。外出を重ねて帰宅が遅くなろうものなら、私の母に 「躾けがなっていない」 と叱りつけるのです。彼女は母のバレエの先生でもあったので、私も母もまるで子供扱いでした。全てがダンス絡みで、私も先生も母もそれぞれが当惑している状態…。潮時を感じたのはこの頃です。


—— その後の展開は。

19歳になる私が学んだダンスはクラシック・バレエだけ… 今度は大阪でジャズダンスを習い始めました。そこに1人だけアメリカ人の先生がいて、彼はサンディエゴのダウンタウンにあるスタジオ 「ステージ 7」 のインストラクターでした。彼が SD に戻る時に 「ステージ 7」 の関係者に私を紹介し、現地でダンス奨学金を獲得する算段まで付けてくれたのです。当時の私はパートタイムの収入だけで経済的に苦しい状況でしたが、驚いたことに、昔のバレエの先生が私のアメリカ行きを知り、当時私が働いた分の報酬を支払ってくれました。厳しかったクラスと意見の衝突の日々… やがて訪れた先生との連帯感… 私は決して忘れないでしょう。


—— SDの生活は如何でしたか。

Great!の一言。最初の年は終日ダンスに打ち込めて、働く必要もありませんでした。翌年からはそういう訳にはいかず、レストラン関係の仕事でランチ/ディナー時に働き、残りの時間をダンスに費やすという生活。同じ頃、私は 「ステージ 7」 の他に 「カール・ヤマモト・SD・ダンス・シアター」 にも所属し、様々なショーのオーディションを受けていました。ある時、地方の大学のディレクターからダンスプログラムに参加しないかと乞われ、大学生活の経験の無い私は気持が動いて TOEFL などの準備のために日本へ戻ったのです。大阪に滞在中、ダンス講師の仕事を得たので日本に留まる決意をしました。更に1年程が過ぎて、今度は 「ステージ 7」 から夏季シンポジウムに講師として招待される幸運に恵まれたのです。

その前年、私は 『ジェローム・ロビンス・ブロードウェイ』 のオーディションを受けて落ちたのですが、プロダクション側が私のファイルを保管していて、SD に戻ったその年の夏にツアー興行のキャストを募集しているので来て欲しいとの連絡を受けたのです。 私にとって初のプロダンサーとしての門出でした。『ジェローム・ロビンス・ブロードウェイ』 のツアーは約1年間続き、LAで数か月間の公演を経て、東京と大阪でも上演されました。楽しかったですね…本当に楽しかった…故郷に戻って大勢の友達と家族の前で舞う喜び…。ツアー公演後は NY に移るのですが、そこでは苦しい生活が待っていました。誰も私を知らない…1年以上も仕事が見つからない…。私は再びレストラン関係の仕事に就きました。


—— ダンスを諦めようと思ったことはありましたか。

10_1.gifありましたよ! 何度も…。でもね、毎回オーディションで落とされるでしょう… 背が低い、外見がそぐわない… どんな理由であれ、逆に意欲が湧いてくるんです。毎回、最終選考まで残っていたので、もう少しで手が届くことを自分自身が知っていました。段々と配役監督に私の記憶が残るようになり、やっとグッドスピード・オペラ・ハウスの 『オン・ザ・タウン』 での役を獲得しました。


—— 『キャッツ』 に出演した経緯を話して下さい。

『キャッツ』 も同じような展開。でも、期待を膨らませてはいなかった。配役監督、音楽監督、舞台監督の3人が見守る最後の審査で、私は1人でステージに立っていました。配役監督から 「君のダンスは知っている。ひとつ歌ってみてくれないか?」 と言われたのを覚えています。完璧に歌い終わった時、「グッドスピード劇場での公演が1週間残っているね…来週の月曜日からでいいかい?」 との配役監督の声。合格の自覚が無かった私は聞き違いかなと思い、そのうちに実感が湧いてきて (微笑) … 至福の時でした。


—— 『キャッツ』 は 現代の代表的人気ミュージカル。 その作品に出演された感想は。

素晴しかった! 『キャッツ』 で歌われる楽曲を聴くことも、舞台で演じることも、私には現実の出来事とは思えなかった… 。夢のような世界。私はオーディションであと1歩のところで何度も涙を呑み、ダンサーとして浮沈を繰り返してきました。最初の頃、『キャッツ』 のステージに立つ前は緊張感が強かったけれど、やがて冷静になり、自分の仕事として舞台に臨んでいました。 『キャッツ』 では22匹の猫が登場し、18パートに主要な歌のシーンが含まれています。私の役は 「ホワイト・キャット」。1週間に8回上演し、そのうち水曜日と土曜日は1日2回公演。オフの日でも、ボイストレーニングやダンスレッスンに明け暮れていましたね。

『キャッツ』 が上演されていた NY のウインター・ガーデン劇場から通りを挟んだ所、ブロードウェイと50番街の角に 「オーボンパン」 (Au Bon Pain=美味しいパン) という名のコーヒーショップがあるんです。そこは地下鉄の駅にも近くて、オーディションの前後によく行ったものです… 『キャッツ』 に出演するずっと以前のことですよ。ここでコーヒーを飲みながら、劇場入口の巨大な 『キャッツ』 の看板を見上げていたのを思い出します。その頃はまだ 『キャッツ』 を観ていなかったけれど、オリジナルに出てくる 「ホワイト・キャット」 がアジア系だということを知っていた。だから、いつの日か自分が演じられたらな…と夢みたいなことをね…。それが実現したのですから…本当に信じられない。 『キャッツ』 に出演後も 「オーボンパン」 にはよく行きました。でも、看板が全く違って見えた。 『キャッツ』 は私のショー、そしてウインター・ガーデンは私の劇場…。その実感は感無量でした。


—— ダンサーが普段の会話で交わす内容とは。銀行員ならビジネスや金利が話題でしょうけど…。

金儲けの話はしないなあ!(笑)。 話題はダンサー仲間のことばかりですね。誰がどのショーに出演するとか、誰が誰と付き合っていて、誰が浮気したとかの私生活の噂話はしていました。でも、ダンサーの技術面を評価するようなことはなかったですね。


—— 成功しているダンサーを目にして 「私にも出来たはず」 と思ったことは。

その思いはダンサー全員が共有しています。「電球を取り替えるダンサーは何人いる?」というジョークがあって、その答えは10人。1人が替える人で、残りの全員は何もしないのに「それは私にも出来たはずよ」 と言うんです。


—— 『キャッツ』 後に出演した作品は。

『キャッツ』 の1か月後にリンカーン・センターの 『回転木馬』。その1年後に 『王様と私』 に出演し、1年間の契約がありながら2か月で舞台を降りました。キャリアを更に磨くことは可能だったかも…。でも、ダンサーとしてのゴールは達成されたとの気持もあった。それに、人間の結び付きがより大切に思えていた時期でもあり、新たな人生のステージに進む決心をしました。


吉岡 香代子 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

兵庫県出身。現在はダウンタウン SD で夫のトム・カーマイアー氏と2人暮らし。夫君は 元 NFL (ナショナル・フットボール・リーグ) 選手、サンディエゴ州立大学フットボールチーム・ディフェンシブコーディネーター (本誌インタビューにも登場)。吉岡氏は日本人ブロードウェイ・ダンサーとして活躍を続けたほか、ダンスの教師、パフォーマー、コメンテーターとしての経歴も持つ。目下、自伝の執筆に取り組んでいる。

(2003年1月16日号に掲載)