Saturday, 20 April 2024

ゆうゆうインタビュー 佐々木達夫・成子

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現在の活動について教えて下さい。
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ギリシャ「Athens Festival」にて
(1969 年 8 月 5 日 )


達夫 私たち夫婦は 1973 年よりサンディエゴ・シンフォニーに在籍し、私が首席ティンパニスト、妻はバイオリニストとして演奏活動を続けています。毎年10月から5月まではオーケストラとオペラのコンサートを、7月と8月はサマーポップスで野外演奏を行っています。

成子 シンフォニーやオペラの他にサンディエゴ・チェンバーやレコーディング、室内楽の演奏も行っています。時間的には非常に忙しいのですが、技術を保つための毎日の練習は欠かしたことがありません。



——音楽との出会いについて話して下さい。
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小学校のピアノ開きでマリンバの演奏を披露(1957年)
 

達夫 小学校1年生の学芸会で偶然に木琴を担当したのが始まりです。担任の音楽の先生が私の音色を聞いて才能があると思ったらしいのです。我が子に才能があると知った父は材木を買ってきて、自分で木琴を作ってくれました。当時、木琴奏者は日本には2人しかおらず、毎朝ラジオから流れる彼らの演奏が国民的な人気を博していました。演奏家の名前は平岡養一氏と朝吹英一氏で、平岡氏は後に私の師となる人です。その音色を毎朝聴きながら独学を続けました。

成子 私の母は明治の女性としては非常に進歩的な人で、ミッションスクールの専攻科でイギリス人の宣教師から英語とピアノを学びました。その後、クリスチャンとなって教会でオルガンを弾いていました。母は自分が大好きだったピアノをぜひ私にも習わせたいと思ったのですが、当時は戦後間もない頃で、とてもピアノを買えるほどの経済的余裕がなく、代わりにバイオリンを買ってきてくれました。これが私にとって人生を決定する運命的な出来事になってしまったのです。


—— 音楽大学に入学するまでの経緯は。
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母の後押しでバイオリンを始める(1953年)


達夫 小学5年生の時、多くの学校がピアノを購入して、その際に催される「ピアノ開き」という行事に招かれ、私の演奏する木琴が好評を得たのです。聴衆を前にマリンバを演奏することが当たり前のようになり「将来は木琴奏者になりたい」と思うようになりました。高校3年生から東京芸大の受験態勢を整えました。毎月1回岡山から上京し、芸大の先生に付いて打楽器、歌、ピアノ、ソルフェージュ(聴音)等のレッスンを受けるのです。その頃は新幹線もなく、夜行列車による14時間の大旅行でした。

成子 私が生まれたのは終戦を迎える1か月前。6人兄弟の末っ子でした。日本の食糧事情は最悪で、九州大学農学部出身の父は酪農を始めていました。飢えで苦しむ日本の子供たちを救おうと決心し、勤めを辞めて田舎で開墾生活に入ったのです。学究肌だった父は音楽を‘遊び’としか考えない人でしたから、最初は母の思いは通りませんでした。しかし、父も母の熱意に押され、私は許しを得ることができました。音楽の道に進む決心をして大阪の高校に入学したのですが、当時、東京の音大の受験準備のために上京してレッスンに通うというのが常識でしたし、母は私を毎月通わせる代わりに東京の女子高へ転校させたのです。そして、国立音楽大学に入学。母の強い意思̶̶それが私を音楽家にしたと言えます 。


—— サンディエゴ・シンフォニー入団までの経緯は。

達夫 東京芸大在学中にフルブライト留学生(米国政府給費留学生)募集の話を聞き、幼少の頃から憧れていたアメリカ行きを実行に移すべく応募、そして合格。ニューヨークのジュリアード音楽院に2年半留学し、アメリカン・シンフォニーを経て指揮者ズビン・メータ氏の招きでイスラエル・フィルへ2年間在籍しました。1969年に帰国して、小沢征爾氏指揮の日本フィルハーモニー交響楽団に3年間所属した後、妻と共にブラジル国立交響楽団へ移籍し、その後、サンディエゴ・シンフォニーに入団しました。

成子 国立音楽大学を卒業後、東京の読売新人演奏会に出演し、当時は小澤征爾氏が主席指揮者を務めていた日本フィルハーモニー交響楽団へ入団。そして結婚して、直ちにブラジルへ渡りました。結婚もブラジル行きもサンディエゴ行きもそうですが、いつも私たちには突然に転機が訪れるのです。サンディエゴに到着したのは1973年9月で、ブラジルで出産したばかりの長男を連れてやって来ました。


——お二人の馴れ初めについて聞かせて下さい。
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東京文化会館リサイタルホールにて(1970年)


達夫 日本フィルハーモニー交響楽団で、既に楽団のメンバーとして活躍していた妻と出会いました。アメリカやイスラエルに行って自由な空気を吸った私は日本の年功序列の壁が私の首席ティンパニストの座を遠くしていると思うようになっていました。そんな時、リオデジャネイロのブラジル国立交響楽団でティンパニストを募集していたので早速応募したのです。指揮者は私の経歴を見てオーディション無しですぐにOKサインを出しました。同時にバイオリニストも募集していることを知った私は、すぐに彼女に連絡しました。今思えば、これがプロポーズだったのです(笑)。

成子
イスラエルから帰国したばかりの夫は今より10kg以上痩せていて、18歳くらいにしか見えませんでした。でも、彼の演奏する打楽器を聞いて興味を持ちました。彼の音色とリズム感が他の人とは違うのです。それから彼を意識するようになりました。それでも、彼とはリハーサルの時や昼食時などに友達と一緒に話をする程度でした。そしてある朝、「バイオリンを持って今すぐ来られない?」と彼から電話があり、
ブラジル国立交響楽団の指揮者が待機しているホテルに向かいました。私の兄と叔父が移民している国なので私自身もブラジルに親近感を持っていたのです。オーディションを受けたらその場で合格。二人で「ど~する?」って顔を見合わせてしまいました(笑)。オーディション合格から10日後に結婚式を挙げて、その1か月後にブラジルへ渡りました。


—— 自分自身を評価できるアチーブメントは。
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サンディエゴ・シンフォニーでの公演(1995年)


達夫 一つはフルブライト留学試験に首席で合格できたことで、それは揺るぎない自信となりました。受験者約100人のうち留学資金を全額支給されたのは私一人で、打楽器奏者として合格したのも私が初めてでした。次に、イスラエル・フィルに在籍したことで世界第一級のオーケストラ、指揮者、ソリストと共に演奏する機会を得ることができ、音楽の真髄により深く接し、理解し、解釈することを可能にしてくれました。これは何にも勝る宝です。そしてもう一つ、Musical Heritage社から木琴のCDが発売されて約1万枚売れたことです。

成子 大学を首席で卒業したことも一つのアチーブメントと言えるでしょうか。その後、国際的な3つのオーケストラで37年間続けて演奏してきました。私はブラジルで長男を、サンディエゴで長女を出産しましたが、子供たちはそれぞれ医者になり、結婚して「母親の役目を終えた」と肩の荷を下ろしたところです。異国の地で家庭と仕事を両立できたことは私の誇りであり、最高のアチーブメントと呼べるものです。


—— 腕前を磨くために工夫していることは。

達夫 ティンパニーはオーケストラ演奏の中で土台であり、また全体の演奏を引き締める役割を担っています。演奏するタイミング、音色、ニュアンス、音量など常に細心の注意が必要とされますし、スコア譜とパート譜を読み込んで、曲全体の構成や個々のハーモニーを丁寧に捉えるように努力しています。

成子 バイオリンを弾く姿勢はともすると不自然になりがちなので、身体に負担を掛けてしまいます。毎日何時間も演奏する生活が続いて、肩、首、腰を痛めてしまいました。そこで、友人に勧められた気功を始めるようになり、力の抜き方をマスターしてからは調子も良くなりました。健康管理が第一ですね。


—— 至福を感じる時、苦痛を感じる時は。
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サンディエゴ・シンフォニーでの公演(1975年)


達夫 演奏の世界に没入し、素晴らしい音楽と一体化している時間は最高ですね。その積み重ねにより、私の音楽レベルを向上させることができました。苦痛… それは自分の才能に限界を見る時でしょうか …。才能は天賦のものであり、自分に与えられた力量には勿論感謝しているのですが、それ以上の能力を望む時に「辛さ」を感じてしまいます。芸術はどんなに深く追求しても満足できる領域などないのです。一流の演奏家でさえ最高の域を最後まで追い求めています。だからこそ、芸術の魅力は尽きないと言えます。

成子 自然とのふれあいです。木や花や草と一体化した時に至福を感じます。苦痛ですか? 演奏家の生活は常に本番に向けて心身共に最高のコンディションを保つことが大切で、緊張感を持続しなければなりません。人並み以上の忍耐力が必要です。逆説的に言うなら、実生活上で困難な事態に遭遇しても音楽の力に癒されてきたのかもしれません。私たちは夕方になると黒っぽい衣装に身を包んで“別世界”に飛び立ち、仕事を終えると再び“現実”に戻ってきます。その二元的人生が私たち夫婦を泥臭い現実生活から救い上げてくれたと思えるのです。


—— 音楽の効用についてご教示下さい。

達夫 音楽は人間の喜怒哀楽を始めとし、より高い次元での精神活動を表現する手段であり、それらのメッセージを聞く者に、喜び、悲しみ、怒り、リラクゼーション、ヒーリングなどの様々な効用をもたらします。選ばれたクラシック音楽を聴くことで論理脳である左脳をリラックスさせ、イメージ脳である右脳を活性化させる効果もあると言われています。言葉では表現できない精神活動の世界を「音」を媒体として第三者に伝えるのが音楽ですが、演奏家の人柄、人生経験、考え方などの主観的要素が作用して多様な解釈となって表現される面白さも音楽の魅力と言えるでしょう。音楽は演奏家の人生そのものと言っても過言ではありません。

成子 幼児期からクラシック音楽に触れた子供は豊かな表現力と音感を身に付けて感受性が鋭くなります。それに伴って想像力も深まり、独創的な世界が広がっていきます。また、自分で楽器を弾けるようになった子供は忍耐力も養われます。言葉を覚えるのと同様に、音楽体験が早ければ早いほど習得度は目覚ましいものです。例えば、バイオリンは肉体的にも精神的にも高度で複雑な技術が要求されるのですが、子供はそれを簡単にマスターしてしまいます。仮に、レッスンを開始して4、5年で辞めたとしても、音楽を通して育まれた感受性は生涯を通じて失われることがありません。



—— 「佐々木音楽院」について教えて下さい。
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長女牧さんの結婚式。左から成子さん、達夫さん、牧さん、新郎の南俊行さん、長男の潤さん、潤さんの妻ムイさん、息子ベンジャミンくん(2005年3月)


達夫 半世紀に渡って私たちが学んだ音楽と技術を後輩に伝えたいという思いから開講しました。打楽器一般とバイオリンを指導しています。打楽器はマリンバ、小太鼓、ティンパニーを含む全般の指導を行います。スティック2本で気軽に始められます。音楽家を志す必要はありません。リズム感を養い、音楽を通してより有意義な人生を味わう手段を習得することも目的の一つです。個人レッスンを週1回行い、演奏発表会も開きます。私たち夫婦で始めた音楽院ですが、同じ志を持つ仲間を集めて、将来は全楽器を教える総合音楽院にしたいと思っています。

成子 私は最近まで「引退後は音楽から離れた生活を送ろう」と思っていました。今まではバイオリン一筋の人生でしたから、引退後は全く別の生き方をしようと…。でも、バイオリンは私の身体の一部になっていたのですね。近い将来に引退しようと考え始めた途端、「後輩に伝えなければ!」という使命感が私の血の中で騒ぎ始めたのです。若い世代の人達がクラシック離れしつつある時代ですから必要性を強く感じます。将来、子供たちがジャズやロックに興味を持ったとしてもクラシック教育の基礎は必ず役に立ちます。いつの日か、音楽の楽しさを分かち合えた生徒さんの中から、どのような分野でもプロとしての演奏家が誕生したら最高の喜びですね。



佐々木達夫 ・

サンディエゴ・シンフォニー 首席ティンパニスト。1944年3月30日岡山県生まれ。7歳よりマリンバを始める。東京芸術大学卒業。1965年フルブライト留学生としてジュリアード 音楽院に留学、ニューヨーク・フィルのティンパニスト、ソール・グッドマン氏に師事。ニューヨーク滞在中、平岡養一氏に師事。ストコフスキー指揮のアメリ カン・シンフォニー、ズビン・メータ指揮のイスラエル交響楽団、小沢征爾指揮の日本フィルハーモニー交響楽団、ブラジル交響楽団を経て、1973年サン ディエゴ・シンフォニーに入団、現在まで首席ティンパニー奏者として在籍。オーケストラ演奏の傍ら、世界各地でリサイタルやマスタークラスを行うなど国際 的に音楽活動を続ける。


佐々木成子 

サンディエゴ・シンフォニー バイオリニスト。1945年7月18日大阪府生まれ。7歳よりバイオリンを始める。1969年国立音楽大学を卒業後、日本フィルハーモニー交響楽団に入 団。1972年ブラジル交響楽団への入団決定と同時に結婚し、達夫氏と共にリオデジャネイロへ渡り、翌1973年夫婦でサンディエゴ・シンフォニーへ。 オーケストラ演奏のほか、室内楽や“Legally Blonde 2”など数多くの映画音楽録音に携り、教会コンサートにも出演するなど幅広く活動中。

San Diego Symphony公式サイト: www.sandiegosymphony.org



(2005年10月1日号に掲載)