人生で意識の大変化が起きた瞬間が三度ある。20代前半は細かく日記を付けていた。日記とは第三者が読む可能性を想定した行為であることに気付いて、怖くなった。私は日記帳を買い替え、赤裸々な感情表現をすべて削除し、事実だけを書き残すという大作業に取りかかり、あまつさえ日記自体もやめてしまった。処世術としての欺瞞 (ぎまん) という悪知恵が生まれた瞬間だった。40歳を過ぎた頃、将来を見据えるパノラマビューのアングルが大きく変化した。譬えて言えば、野球場のバックネットから外野席を超えて大空を映し出す「無限大の画像」が、突然、バックスクリーンからホームプレートを包み込む 「凝縮されたフレーム」に切り替わった。“人生の砂時計” が反転し、寿命の折り返しを覚醒させられた瞬間だった? 還暦を迎えて、老化という現実を前に死生観が大逆転した。父方の先祖で80歳まで生きた男は1人だけ。長寿家系じゃない。自分もあと十数年なら、死を念頭に置き、ひたすらQOLを追求すべきじゃないのか? もし、不治の病が発覚しても、むしろQOLの意義と価値が高まり、充実した余生になる。死は恐るるに足らず。そこまで達観を表明していながら、あえなく周章狼狽 (しゅうしょうろうばい)、世を儚 (はかな) む姿を曝け出したらみっともない。晩年も意識の変化が続くのかな? (SS)