語学留学生として米国生活を始めた1982年。当時は貿易摩擦でジャパンバッシングの叫びが喧 (かまびす) しかった。時代背景と相まって、ワシントン州東部のS市は白人が9割を占め、隣り町には白人至上主義団体の本部があった。日本人の存在が珍しいのか、店頭で顧客サービスを拒否されたり、何処からかリンゴをぶつけられたりもした。真珠湾攻撃の日 (12/7) に酔っ払い集団に行く手を阻まれながら難を逃れたことも。語弊があるかもしれないが、私はそんな体験を「新鮮」に感じていた。むしろ白人の本質を知りたかった。S市に暮らす私の大叔父 (great-uncle) からは、収容所体験として「白人は最後に裏切る」と聞かされた。私はこれらの出来事をエッセイにしてクラスに提出したところ、教員ほぼ全員がよそよそしくなった。ただ一人、20代の女性教師 Jさんから驚くべきアドバイスを受ける。「アメリカ市民になるのよ。そこから社会を変えるの」と、真顔で具体的なプロセスを私に細かく説明するのだ。アメリカ的な pragmatism の精神に触れた瞬間。冬の夕刻、大人数の少年少女聖歌隊が私を囲んで「あなたに神のご加護があるように」と賛美歌を合唱してくれた。子供たちの歌声を聞きながら、私は灰色の空を仰ぎ見て、落ちてくる綿雪の冷たさを感じつつ「これもアメリカか」としみじみ思った。在米1年目の冬の記憶。(SS)