September 13, 2025

父の日

 

ギリシャ悲劇『オイディプス王』を引用するまでもなく、父と息子は終生の否定的関係と思っていた。父が他界する半年前までは —— 。父は平気で感情を表に出す直情径行/大言壮語の人だった。ホテルのラウンジで歌う歌手に「ブラボー!」と叫んで立ち上がったり、赤の他人を怒鳴 (どな) りつけたり、誰もが驚く行動ばかりで、私は父との距離を置いていた。父は会社勤めをしたことがなく、祖父の遺産で生活していた。弁護士になる夢は果たせず、不動産鑑定士の資格を取得したが、仕事が性に合わず、50歳頃から引退生活のような日々を送り、生き甲斐を見つけられずに76歳で世を去った。酒浸りの晩年は傍目 (はため) にも哀れだった。父はカンツォーネを愛聴し、オペラやクラシックにも通じていた。彼の魂を救済したのは音楽。私は父の日に 『3大テノール世紀の饗宴』 (パヴァロッティ、ドミンゴ、カレーラス) を贈った。最初で最後の父へのプレゼント。すると、父が部屋に飾っていたニーチェの『断章』を額縁 (がくぶち) 付きで送ってきた。「大河と偉大な人間は悠然と曲がった道を行く・・曲折の如きは些 (いささ) かも彼らを怖れしめぬ」 (ちょっと待った! オヤジもオレの生き様も、そんな格好イイものじゃない!)。相変わらずの自画自賛。その年の暮れに冥界へ旅立った。(SS)
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▽社会人になった年の父の日に健康枕とリネンセットを贈ったら、「これは、正月になったら使おう」と、嬉しそうに父が微笑んでいた。軍隊仕込みなのか、朝、真っ先に行なう父のベッドメイキングは感動ものだった。パリッと糊のきいた、真っ白なシーツを毎朝はぎ取り、角をきっちり折りたたみ、シワひとつないほどピンと張り、シーツや毛布や枕カバーを整えていた。▽第二次世界大戦下の日本、19歳の春に大陸へ出征した父は、−40℃のシベリアで極限の飢えと寒さに苦しみ、戦友の墓標の前で涙を流した。復員後は、福島県会津の没落旧家を出奔して千葉に移り住み、母と一緒に八百屋を開いて寸暇を惜しんで働いた。▽「夫婦は人生の戦友」と言うけれど、父はその戦友を亡くして男やもめとなった。でも、朝一番のベッドメイキングに始まり、炊事、洗濯、掃除をひとりで丁寧にこなしていた。▽最近、ベッドメイキングを習慣化している人は、習慣化していない人に比べて「自分が幸福である」と感じているという研究結果 (Humch.com) があることを知った。「小さな達成感や自信 → 前向きな気持ちや行動」といった連鎖が幸福度を上げてくれるとか。遅まきながら自分も父を見習い、毎朝ベッドメイキングをするようになった。(NS)
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私の母国の台湾は他の国と違って、父の日は8月8日となっている。中国語では8と8の発音がパパに似ているからだ (笑)。お祝いしたい気持ちは母の日も父の日も同じなのに、何故か母の日に比べて父の日のお祝いはつい忘れてしまう、という話をよく聞く。でも台湾では、母の日よりも父の日8月8日のほうが逆に覚えやすく、忘れにくいと私は思う (^.^)。偶然にも、私の父の誕生日は台湾の父の日と同じ日! そのお陰で、私と妹たちは毎年一つだけのプレゼントでお誕生日+父の日も両方カバーできていて、超ラク! 父は周りの人に迷惑を掛けないし、本当に優しく、明るくてジョークが好きな人。今年83才になる父は先月、交通事故に遭い、車は廃車になったが幸い体は無事だった。それをきっかけに車の運転をやめることになった。今は、外出時にバスやタクシーを利用している。父とは毎週土曜日にLINEでいろいろな話をしている。こんなに仲良くなったのは不思議な感じだけど、幸せを感じる。父にはもっともっと長生きしてもらい、健康でいてほしい!! (S.C.C.N.)
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yoko
父親っ子だったと思う。母、私、妹の“家族” と一緒に過ごすよりも、無口で、ひとりで好きなことをしていることの多い父だった。父がひとりで映画を観ていたり、音楽鑑賞をしている部屋に行って、一緒に過ごすのが好きだった。私が参加すると、観ている映画の話やクラシック音楽、洋楽の話をしてくれた。洋画、洋楽が好きになったのも父が観ていた (聴いていた) から。海外に憧れて暮らしたいと思い始めたのも、元は父からの影響だ。「若い頃、いろいろな国に行って住んでみたかったけど、できなかったから、子供には好きにさせてあげたい」。アメリカに留学したいと話す私に、こう言ってくれた。今でも感謝している。父は私が日本を出た後、私たち家族から離れ、新しい家族を持った。年がかなり離れた “妹” と “弟” ができた。父の新しい家族はとても温かい人たちだ。里帰りすると会っている。数年前に甥っ子が生まれ、父もすっかりお爺ちゃんをしているみたいだ。幸せそうでなによりだ。「パパ、父の日おめでとう」 (YA)
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reiko-san
今年78歳になる私の父。若い頃に中学校の美術の教師を辞めてから、ずっと造形教室のようなものを自営で続けている。引退してもよい年頃になり、今は週に1〜2回だけの教室。週末や長い休みに、森の中で1日スクールや数泊のキャンプなどを実施している。教室をずっと前に卒業して、高校生、大学生になった子供たちもキャンプなどに参加しに戻ってきているらしい。ドラム缶に井戸水を入れて、焚き火でお湯にしたドラム缶風呂が大人気なんだよ、と嬉しそうに話す父。パン、タコス、すいとん入りの田舎汁、バームクーヘンなどなど、いろいろなものを作って、食べて、盛り上がっているようだ。数年前に娘を連れて帰省した際は、森に群生する竹を取ってきて、縦に割り、脚立 (きゃたつ) を動員して、みんなと流しそうめんを楽しんだ。今の一番の生きがいは、ライフワークとなっている版画の制作。数メートル四方の大きな木版に掘り出された作品は、父の頭の中を垣間見るような気がして興味深い。暇さえあれば、森の広場で一人、作品作りに取り組んでいるようだ。このパンデミックが落ち着いて、また父に会えるのを楽しみにしている。 (RN)
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suzuko-san
母の日は私が子供時代から既に存在していた (と言って、母に直接感謝の意を伝えた記憶がない不届きな娘だった) が、父の日の思い出は全くない…ので、調べてみたら、父の日は1910年にアメリカで誕生し、日本に入ってきたのが1950年頃。そして、実際に祝日となったのは1980年頃。母の日が市民権を獲得して70年後のことだ。やはり、子供を産む母の存在の方が大きい、ということか。それはともかく、18歳で故郷を離れた私は、6月の第3日曜と設定された父の日を家族で祝った、という思い出は全くない。東京の生活になってからは、その日は父と一緒にはいないし、その日を祝う習慣が自分の中に留まっていないので、まして「おや・・」という感じである。しかし、既に30年以上も前に他界した父だが、私の中に少なからず父の影響力が及んでいる。例えば、あの時代に趣味でクラリネットを吹いていた彼は、娘に楽器を嗜 (たしな) ませようとピアノを買ってくれたり (忍耐心のない私は、楽器を練習するより外で遊ぶことを好んだ)、映画やシンフォニー、はたまたサーカスやバー、キャバレーなど、娯楽の世界に数多く連れ出してくれて、私を彼同様の “必殺遊び人” に育てた。私はこの類希 (たぐいまれ) なる幼少時代をくれた父に、毎年やって来る父の日を「父への詫び状」の日として認識する。 (Belle)
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jinnno-san
ずっと離れているせいなのか、離れていることに慣れてしまったのか、実家の両親と話すのは、お母さんとは年に2回くらい+実家に帰った時に直接話すくらい。友達に言ったら、少なすぎると指摘されたわ。実家に電話しても、電話機が別の部屋にあって、聞こえないという理由で出てくれず、話せなかったことが何度もある。そのうち、お母さんがスマートフォンを持ち、ラインを使えるようになった。でも、わたしがラインを持ってなかった 笑。兄弟からのリクエストもあり、わたしもラインを使うようになった。それでも今年のお正月は、家電 (いえでん)、兄ライン、姉ライン、妹ライン、母ラインにつないでも誰も出ず、、笑。お父さんは?というと (やっと登場 笑)、なんと年に一度、家電で話せれば良いほう。または会って話すしか、ない (江戸時代か? 笑)。お父さんは「スマートフォンは持たない」宣言をしているので、ラインはムリ。コンピュータ系はダメ。家電しか通じないけど、それも怪しいので、、会って話すしかないのよー (21世紀とは思えん・・笑)。なのでー、父の日は、普段電話をしないわたしにとって、良いキッカケだわ! 電話しよーっと (電話に出てくれなきゃ、意味ないけどね 笑)。姉が家にいる時を狙って、電話するとか (・・だから、現代とは思えんのよ 笑)。(りさ子と彩雲と那月と満星が姪)
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以前に述べたが、私の父は冗談言わない、融通も利かない、東京下町育ちの厳格な男性だ。小学生の頃、『8時だよ、全員集合』の裏番組『俺たちひょうきん族』 が大人気に。多くの友達は “ひょうきん族派” になった。ある日、私が『ひょうきん族』を見ていた時、リビングに登場した父。「何だ? このくっだらねぇ番組は? 消せ! 二度と見るな!」・・ということで、泣く泣く “ドリフ派” に戻る羽目に。地元のお祭りに友達と出かけた中学生の私。祭りの後、コンビニの前で夜11時頃まで話し込んでいたら、どこからともなく、肌着とステテコ姿の父が自転車で登場。「てめえら、何時だと思ってんだ! さっさと帰れ!」と怒鳴 (どな) られた。彼氏ができて、毎晩のように電話で話したい乙女心の高校生。当時はもちろん固定電話、子機なし。たまたま彼からの電話を取った父。「てめぇ、人んちに電話してくんだったら、名前を名乗れ!」と怒鳴り散らす。日本に帰省した時、妹夫婦の家に遊びに行った。夜9時を回った頃、妹の携帯に電話してきた父。「○○(私の名前)は、まだそこにいるのか? さっさと帰れと伝えろ!」と。私、いい大人なんだけど・・。まぁ、それでもいろいろ感謝。父の日には、おいしい焼酎でも贈ろうと考えている。(IE)

(2021年6月1日号に掲載)