July 5, 2025

故郷 ふるさと

▽阿武隈川の畔 (ほとり) に建つ福島の生家が道路拡張計画で取り壊されたのは四半世紀前。私が産声を上げた「離れ家」は公共駐車場の一部となり、コンクリートが敷き詰められて、寒々とした空間が広がっている。その界隈に並んでいた家屋・店舗も姿を消してしまい「故郷とはかくやあらん!」という情感が湧いてこない。心象風景が消失してしまえば「そこは故郷にあらず」と、つくづく思った。▽あまりにも鮮烈な故郷の記憶がある。 ① 5〜6歳の頃、家の周りで三輪車に乗って一人で遊んでいた。家の前を通る旧国道に “魔のT字路” があり、子供の私は大事故の瞬間を数回目撃している。母子が撥 (は) ねられた後、警察官に「坊やは見ていたね。その様子を話してくれる?」と尋ねられても、怖さのあまり、三輪車をキコキコと漕ぐばかり。キャラメルをもらっても、幼い目撃者は無言のままキコキコキコ。② 小学生の頃、故郷の同級生の親に不幸があれば、葬儀に出るのは学級委員。その役目を恨めしく思った。焼香の順番が巡ってきた女子学級委員。彼女は足がシビれてその場に転倒! 助け起こそうとした自分も同じ状態! 転倒する寸前に目に入った「物体」をつかんで体を支えたら、それは坊さんの頭。坊さんは驚いて振り返ったが、木魚は打ち続けていた。 (SS)
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▽私の故郷、福島県の会津柳津は日本有数の豪雪地帯で、昭和30年頃には積雪が数メートルにも達して、2階から出入りした記憶がある。子供たちはほっぺたを赤くしながら、ソリやかまくらで無邪気に遊んでいたが、半年間も毎日、雪かきや雪下ろしをする大人たちにとって、その生活は厳しい自然との闘いであったに違いない。▽故郷の深い山間 (やまあい) を縫うように走るJR只見線は、日本一紅葉が美しい路線として有名で、写真ファン憧れの鉄道になっているらしい。「これぞ日本の原風景! 秘境ローカル線沿いのノスタルジックな風景に感動! 只見川第一橋梁 (きょうりょう) には韓国人が大勢いたよ」と、友人がLINEを送ってきた。▽会津柳津では毎年、お盆の時期に「霊まつり流灯花火大会」がある。午後3時頃、お寺の本堂で大法要があり、その後、稚児たちが流灯を持って本堂から只見川まで歩く。夕闇が迫る頃、川辺にたくさんの流灯が流され、夜空に花火が打ち上げられる。「お迎えしたご先祖さまを再び送り出すんだよ」と言う祖母と一緒に、子供の頃、藁で作ったお供え物を乗せた精霊舟に手を合わせて一舟ずつ見送った。夏になると、線香の匂いに包まれた幻想的な故郷の町と、精霊舟に乗っているであろう、祖母、父、母、義姉を懐かしく思い出す。 (NS)
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アメリカに来てから、もう24年も経っている (自分もびっくり!!)。英語の発音や、見た目とは関係なく、市民権を持っている私は、いつも誇りを持って 「自分はアメリカ人だ」 と思っている。いろいろな問題があっても、この国には可能性がある。努力すれば夢を実現できる国だと私は思っている。日本に住んでいた20代の頃、よく母から 「台湾人なのに、考え方も生活習慣も日本人みたい」と言われていた。30代になると、母から「あなたはアメリカ人に変わった!」と言われた。気がついたら、自分はどんどん、言語、文化、慣習を吸収・習得できる人間になっていた。自分自身が好きになり、自分のことを尊敬できるようになり、自分の価値と大切さが分かるようになって、自分の生活に満足感を覚え、そしてハッピーでいられる。第1の故郷・台湾が恋しい。第2の故郷・日本も恋しい! けれど、第3の故郷になったアメリカは素晴らしい国だと思う。11月に最大のイベント、大統領選挙がある。国も国民も分裂しないように、平和でいられるように祈りたい!! (S.C.C.N.)
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yoko
私の故郷は、倉敷駅から車で5、6分ほどの酒津 (さかづ) というところだ。家から歩いて5分ぐらいのところに酒津公園という総合公園がある。酒津公園は、水遊びのできる浅い水門と水路、カモやアヒルが泳ぐ貯水池、遊具エリア、草花が摘める丘、ボール遊びに最適な芝生広場、遊歩道、無料の市民プールがあり、春になると園内に植えられた500本の桜が咲き、屋台も出て、お花見客で賑わう。私が幼児のころ、母は私を連れて、よく園内を散歩していたそうだ。小学生の頃は、仲良しだった従姉妹たちと、薄暗くなる夕方まで遊んだ。私たちの遊びは、つくし狩り、ダンボールで丘を滑る (シャツが枯れ草まみれになり、母に叱られた)、夏のプール遊び、水路で水遊びと小魚獲り、祖父に貯水池でボートに乗せてもらい、遊具で遊ぶなど、退屈することはなかった。中高生になるとあまり行くことはなくなったが、里帰りの際には、毎日、母と一緒に犬を連れて散歩した。写真を撮るのに素敵な場所がたくさんあるのに気がついた。小学生の子供たちの親になった今、近所にこのような公園があるといいなと思う。(YA)
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▽私の第一の故郷は6歳まで育った東京郊外の街。小さかったし、住んでいた期間もそれほど長くなかったけれど、いろいろなことを覚えている。毎日、青あざを作りながら練習して、やっと補助輪なしの自転車に乗れるようになったのもそこ。緩やかな長い下り道を、補助なし自転車で一気に下れた時の嬉しさはまだ覚えている。保育園のこともいろいろ覚えている。クリスマス会のケーキのロウソクの火が私の服の袖を焦がしたこと、サンタクロースに変装した園長先生が怖かったこと、お泊まり保育で夜なかなか寝付けず、保母さんを手こずらせたこと、etc。▽第二の故郷は小学校入学直前に引っ越した茨城県の田舎町。空き地、近くの森林、川で遊ぶ毎日が始まった。鶏、うさぎ、子豚、羊なども飼い始めた、田舎町とはいえ、普通の住宅街。両親の仕事も普通とちょっと違い、今から思うと、かなり浮いた家だったと思う。▽第三の故郷は2000年から暮らしているサンディエゴ。もう20年も住んでいるなんて、自分でもびっくりしてしまう。きれいな海もすぐ近くにあるし、まだまだ自然も多く残り、様々な人種、様々な文化をバックグラウンドに持つ人々が暮らすこの街が大好き。これからもずっとお世話になると思うこの故郷を大切にしたい。 (RN)
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suzuko-san
昔、昔のそのまた昔、私がまだ高校生で、生まれ故郷、福山にいた時のこと。『見上げてごらん夜の星を』という曲が大好きで、その曲が主題歌であった同名ミュージカルのLPレコードを購入。毎日、毎日聴いていた。その中に、記憶が正しければ、挿入歌の一つに越路吹雪が歌う「♪ふるさとは、いつでも帰る人を待っている。母親はいつでも帰る人を待っている♪」という歌詞の曲があった (題名は忘れた)。このお題をもらって、一番先に頭に浮かんだのがその曲、そしてわが故郷の母親である。4人兄弟姉妹の末っ子に生まれた私は、母親曰く「金魚のふん」。母親が行く先々へくっついていく甘えん坊だった (らしい。今の本人からは想像がつかないが)。夏の暑い夕方、彼女が家先に水を撒 (ま) き始めれば、私も撒きたくなって母親が持つホースを取り上げる。台所に行けば、その水撒きをさっさとやめて台所へ、という具合。今の言葉で言う「うざい」存在だった。そんな幼少時代も過ぎ、喧嘩ばかりしていた高校時代も過ぎ、18歳で故郷を後にし、東京へ。下宿先に故郷から届く段ボール箱の私の好物の袋菓子に、母の愛情をしみじみ感じ、涙したものだ。そんな母も、私が19歳、大学1年目で急逝した。母亡き故郷に帰る辛さ、寂しさが、しばらく続いたのは言うまでもない。(Belle)
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jinnno-san
旅行で何が一番楽しくって、濃い思い出を作れるかって言えば、、自分の地元はさておき、他人のふるさとを訪ねちゃうこと! 知らない土地でも、お友達の地元だからー Mi casa es Tu casa (私の家はあなたの家) 状態 (笑)。お友達も地元のカッコよさを見せたいから、歴史的なところからスタートね。遺跡やら、古い建物、それにまつわる話までしてくれて、遊ぶだけでなく、教育面バッチリよ。お話が分からないと恥ずかしいから、予習をしよう。観光客じゃなくて、ローカルの集まる酒場へ流れ込み(ご飯は?笑)、勿論、ローカルの集まる定食屋にも。友達のふるさとだけじゃなくって、地元の方のふるさとな訳だから、皆さんと速攻で馴染もう。聞き込み調査で美味しい地元料理も見つかるよ。わたしの中のベスト (他人の 笑) ふるさとはー! ③ ポルト (ポルトガル)! 友達が言ったとおり、歯のない爺さんたちが酒場で昼間っからワイン飲み続ける後ろ姿は、あたいのふるさとと呼びたい! 笑。② ナッシュビル (テネシー州)! 友達が言ったとおり、カントリーミュージックみんな聞いてるわ 笑。① 石垣島 (沖縄県)! 居酒屋の人が言ったとおり、毎日3回千べろを飲みにくるおじさん! 島中の人が具志堅用高さんの顔 (個人的感想ね 笑)。つまり、わたしは、どこでもふるさと満喫~! 笑! (りさ子と彩雲と那月と満星が姪)
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私の故郷は静岡県静岡市。静岡駅から車で約20分から30分ほどの海辺の町である。田舎ではあるけれど、市街地からそう遠くもなく、自然が豊かなうえ、交通の便も悪くない、生活しやすい所だと思っている。さらに、静岡駅から新幹線を利用すれば1時間で東京に着く。とはいえ、私にとっては「新幹線で東京へ行く」というのはなかなかの大イベントだ。まずは新幹線乗り場へ向かう。これが “遠くへ行く” という気分になる。そして、駅弁と好きな飲み物を購入して新幹線の車両へ乗り込む。大人になっても、新幹線で東京を目指す時のウキウキ感は変わらない。どうしてだろう。ほんの1時間の小旅行なのに、すごい所へ行く気分になる。子どもの頃からの記憶が、どこかに残っているせいだろうか。ニュージャージーからニューヨークのマンハッタンへ通勤していたこともあるのに、それよりも新幹線が楽しいのだ。今年の夏は新型コロナの関係で帰省できなかったが、来年こそ故郷の静岡へ帰って、また家族とどこかへ旅行に出かけたいと思う。新幹線に乗ってね…。 (SU)

(2020年9月16日号に掲載)