数年前までは「死」と「来世」の謎が深まるばかりだった。▽祖父、祖母、父、妹の死を迎えて、ある謎に囚われていた。日頃の気苦労が強面 (こわもて) に滲み出ていた厳格な祖父。慢性の胃病に苦しんだ祖母。血族との相続争いに明け暮れた父。繊細すぎる感性が災いして精神を病んでしまった妹。生前の4人は「苦」の真只中にあり、死の影に怯えていた。臨終の刹那 (せつな)、皆に共通していたのは、優しすぎる微笑を浮かべて幽界へ旅立ったこと。苦の連鎖から逃れた安堵感には違いなかろうが、どんな世界で、何を見たのだろう? ▽今では、不幸・不遇に身を預けずに、自分で意味を見つけてユーモアに解し、自ら態度で示して人生に答えたい…と思うようになった。しかし、この「態度で示す」が実に難しい。私たち夫婦は、どちらかが死期を迎えたら、これまでの愉快な話をしながら、笑って見送ることにしている。「人生組曲の最終楽章をどう演奏して、幕を降ろすべきか」などと、大上段に構えるのをヤメた。お笑い芸人が (誰だったか?) 「死 (臨終) は落語のオチに似ている」と言った。劇的な結末ではない、少々気抜けしたような「あ、終わっちゃったな」というような。死はそんなものか? 死は経験則で語れないし、死の恐怖を克服したい欲求こそが煩悩。来世の謎解きもヤメた。 (SS)