September 13, 2025

ルームメイト

 

20代初めの頃、普通車運転免許証を取得する「合宿コース」に申し込んだ。静岡県の小都市にある自動車学校で同室になったのは、私を含めて5名。考えてみれば、目的が同じとはいえ、年齢も職業も生活環境も異なる男たちが偶然にルームメイトとなり、2週間以上も寝起きを共にする機会など、生涯でそうあるものじゃない。私は単独行動を好む人間なので、合宿所での夕食後、街の中心部まで散歩するのを日課としていた。喫茶店で寛いだ後、門限には帰宿していたが、毎晩私が何をしているのか、ルームメイトから怪しまれた。夜遊びなどしていません。陽気な40代の自営業者は運動神経が鈍すぎると悩んでいた。「どうしても、方向指示器を逆に出しちゃうんだよ。教官から 『ふざけてんのか!』 と雷を落とされる」 と笑いながら話す。普通、右折の時は右に出すだろ? 運動神経の話じゃないだろ!  問題児は18歳のトビ職人。運転技術はピカイチで誰よりも上手い。路上教習でスピードを出しすぎて教官から怒鳴られまくっていた。その彼がテクニックに溺れたのか、教習所内で交通事故を起こした! 同乗していた教官が負傷して病院に搬送される。地元のTVニュースは「自動車学校内の事故で救急車が出動したのは、前代未聞の珍事」と報じた。(SS)
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▽明治生まれの祖母が、私の最初のルームメイトだった。子どもの頃から実家を出るまで、ずっと一緒の部屋で暮らしていた。「知らざあ言って聞かせやしょう 浜の真砂と五右衛門が〜」「あんたの父母はモダンな人で、結婚前にふたりで旅館に〜」「私は腹膜炎で一度死んでね、でも、また生き返ったのさ」など、毎晩、寝る前に面白い話を披露してくれた。テストに朝寝坊したことを祖母に八つ当たりしたり、ひとりの空間が欲しくて作ったダンボールの城壁の小窓から、祖母が特製のおはぎを差し入れてくれたり、落ち込んでいると「さすけね〜」と慰めてくれた。人生の機微を教えてくれたルームメイトだった。▽ワシントン州の学生寮で、クリスという金髪のルームメイトと暮らしたことがある。バドワイザーとビザが大好きな法律専攻の学生で、レッドツェッペリンのロックを年中流していた。母子家庭対象の返済不要の奨学金を得て頑張っていた。スニーカーを乾燥機で乾かしたり、バイトの前にリステリンで酒の匂いを消し、好きな時におならを連発。私が持っていたウォークマンに興奮して、自分のモノのように学生寮の皆に見せびらかしていた。今は弁護士として活躍している。「運命は自分で変える」的な、たくましい精神を彼女に教えてもらった。(NS)
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台湾の親元から離れ、日本へ留学中、小さな6畳のアパートを借りて一人暮らしをしていた。小さな台所、小さな浴室、小さな洗濯機、とりあえず生活には必要な “コンパクト設備” が全部揃っていた(全部サイズが小さい^-^)。住み始めて1年後、すぐ下の妹も日本に留学した。私の小さなアパートで二人の共同生活がスタート! 私は大学、妹は日本語学校。生活費だけは自分たちの力で頑張ると両親に言い張ったので、学校以外の時間は二人ともバイトしていた。妹は日本語学校から歩いて行ける喫茶店、私は大学から電車に乗って30分ほどの場所にある喫茶店でウェイトレスをしていた。妹とは休日になると原宿や新宿へ行ったり、食べたり、遊んだりしていた。でも妹は、やはり台湾の生活が自分に合っていると思い直して、1年だけで台湾に帰国。また一人暮らしになってしまい、私はとても寂しくなった! いつでも目いっぱい明るかった妹は、私にとって最初のルームメイト。そして可愛くて最高のルームメイトだった。 (S.C.C.N.)
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yoko
ルームメイトと部屋をシェアしたことがない。ホームステイ中にはハウスメイトが何人かいたが、部屋は別々だった。ハウスメイトの子たちは短期留学のヨーロッパからの留学生が多かった。一緒の家にいると自然に仲良くなるので、休日は大体一緒に過ごしていた。ハウスメイトの子がイタリア人だった時は、イタリア人の友人グループに入れてもらい (私だけイタリア語が解らない)、スイス人の時はスイス人のグループと遊んでいた。みんな気さくで良い子たちだった。ホストファミリーの家を出てから、ボーイフレンドとアパートをシェア (というか、相手が勝手に転がり込んできた) していたことはある。彼はゲームばかりして「吸って」「飲んで」夜中までお隣さんと騒いでいたし、散らかされるしで、あまり良い思い出は残っていない。ひとり暮らしの間は猫がルームメイトだった。散らかされても猫だと許せる (笑)。週末は一緒にごろごろ過ごして、平日は私が家に帰る頃にドアの前で待っていてくれた。可愛かったな〜。 (YA)
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私が人生で初めてルームメイトと暮らしたのは、21歳の時。サンディエゴの大学に1年間交換留学した際、キャンパス内の寮の2人部屋でアメリカ人女子と共同生活をした。縦長の狭い部屋にベッド、机、それぞれの荷物を入れる小さなクローゼットが2つずつ。小さい冷蔵庫と電子レンジは共用。慣れない英語や文化の中、英語しか喋れない見ず知らずの超アメリカ人な若者との生活は、面白かったけれど、いろいろと大変なこともあった。私はそれまで、自分のことを綺麗好きとか整理魔とか思ったこともなかったけれど、彼女と同じ部屋で暮らすようになってから、こんなに部屋を散らかして生活する人がいるものかとびっくりした。脱いだ服や使ったタオルがベッドの上のみならず、床にも散らかり、彼女の机の上は教科書やノートブック、食べかけのスナックの袋やら、その他雑多なもので山盛り状態。片付けたくなる衝動を抑えるのが一番難しかった。寮の他の部屋に住むアメリカやその他各国の学生が私たちの部屋に来ると、私のルームメイトのスペースの乱雑ぶりに閉口していて、私だけが気になっている訳じゃないと分かり、ホッとしたのを覚えている (笑)。 (RN)
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suzuko-san
私はこの国に来て人生初の主婦なるものを体験。子供なし。来たばかりの頃は友達もそうそういる訳もない。日々の主な会話相手は、必要以外はほとんどしゃべらない旦那、というつまらない生活をしていた。こんな生活を2年送ったら、飽きた、飽きた。何かをせねば、と始めたのが、自宅を使っての今で言う Airbnb (ま、対象は日本人限定だったが)。それが世に出てくる、う〜んと前のことだ。以来、フルタイムではないが、お客さんが我が家に滞在してくださる時は、まさにルームメイトという感覚。「全く知らない人と、よく一緒に暮らせるわね。私はダメだわ」と言う人もいたが、元来、私は人好き、世話好きという性格も相まって、このパートタイムのルームメイト生活が気に入っていた。彼らは、それまでのつまらなかった私の生活を大いに生き生きとさせてくれ、おまけにお金まで払ってくださる。宿を始めて3年後の離婚でその家を離れるにあたり、一旦、この仕事は中断したが半年後に再開。パートタイムのルームメイト生活を合計20年も楽しませてもらった。彼らの滞在中は夕食を囲みながら大いに飲み、大いに語り、中には1年に4回も来る人、毎年訪れるカップル等もいて、賑わせてくださった。まさしく パートタイム ルーメイト、万々歳!!だった。(Belle)
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jinnno-san
いろんな人がいるよねー。自分のルームメイトもそうだけど、人の家のルームメイト (笑)。パンデミック前は、ロスの友達のところに遊びに行くと、どこに泊まるか分からなかった、、。それは、、、彼に定まった家がなく、友達の家を転々としていたから (笑)。ストリートミュージシャンで、待ち合わせ場所はファーマーズマーケットのXX店の前、とか、演奏の音を聞きながら探す、とか (笑)。一日中外にいる間に 「今日どこに泊まるの?」と聞いていても、答えはその時になるまで謎だった。だから、かもだけど、わたしの旅行はいつもバックパック1つでどこでも行けるよう超身軽。ある時から、いつも泊まる家 (というか居候?) が決まった (笑)。そこの家では彼の楽団も練習をしていたので、いつも大勢が家にいて、誰が住んでいて、誰がルームメイトで、誰が遊びに来ているのか区別がつかない (笑)。それでも寝場所の確保だけは、いつもちゃんと収まった (笑)。いろんなとこ泊まったな、工事中の倉庫とか (笑)。どこに泊まるか分からん、ていうのが、トラさんっぽくて、オツじゃな〜い?(じゃないって?笑) そもそも、住所の定まっていない友達を訪ねていく?(やっぱり、わたしってフウテンのトラさん!笑) (結局、あの家のルームメイトって、、誰? 笑)。 (りさ子と彩雲と那月と満星が姪)
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アメリカに来て1年ほど過ぎた頃、なかなか上達しない英会話をなんとかしたいと思い、台湾人の女の子と1年ほどルームシェアをしたことがある。初めて他人と暮らしてみて、驚いたことがいくつかあった。まずは部屋の整理整頓。私は細かいところにはあまり気にしないが、基本的にソファーや床に靴下や洋服などが転がっているようなことは、昔も今もない (今は子どもたちの服を拾って歩いているが)。しかし、彼女はすごかった。部屋は基本グチャグチャ。あちこちに脱ぎ捨てた服が散乱しており、カーペットには付けまつ毛がいくつも落ちており、何度、毛虫と間違えて心臓が止まりそうになったことか。そして料理。とても衝撃的だった。ある日のこと、彼女が白飯の上にカレーのルーを置いて、電子レンジに入れようとしていた。何をしようとしているのかと思い、聞いてみたら、カレーを食べるのだと言う。彼女はカレーのルーをご飯に乗せてチンすれば、カレーが食べられると思っていたのだ。それを見た時、私は『Back to the Future 2』で、主人公のマーティが未来の自分の家に行った際に、彼の母親が手のひらサイズの小さなピザを機械に入れると、大きなピザが出来上がってきたシーンを思い出した。きっと彼女は、どこか遠い未来から来ていたのかもしれない。(SU)

(2021年4月16日号に掲載)