「盛夏の灼熱の光は、我らを深く死に導く」 (誰の言葉だっけ?)。夏の太陽は旺盛な生命力の象徴なのに、胸騒ぎを覚える不吉さがある。特に日本の夏。幼少期から今まで、夏に寄せるスリリングな感触は変わらない。湿気まみれの暑苦しさ (諦念)、蝉の鳴き声 (読経)、蚊取線香の香りと煙 (法要) … 前世、現世、来世が渾然一体となった奥深い安堵感かも。COVID-19がもたらす死への恐怖感とは違う。茨城県の漁村 (平潟港) に家族と逗留していた6歳の夏。喫茶店で母とかき氷を食べていると、男児が溺れて行方不明になり、漁村全体が騒然となった。警察と村人総出の捜索が続いたが、少年は見つからない。薄暮に霞む無表情な漁港の海が幸福感を奪い去った。止むことのない蜩 (ひぐらし) の合唱、無機質に旋回して夜のしじまを破る灯台の光 … 鮮烈な記憶。2つの対照的な海岸があった。荒波が人を寄せつけぬ男性的な五浦 (いづら) 海岸と穏やかで女性的な勿来 (なこそ) 海岸。その夏に初めて海を見て、波の表情に人の心を感じた。五浦海岸には尊厳、勿来海岸には慈愛、静かな平潟港には安息、断崖絶壁から見下ろす太平洋には畏怖を ―― 。人間の喜びと悲しみは表裏一体と教えてくれた “原風景” となった。それにしても、父はどうして寂寥感の漂う8月末の海を好んだのだろう。 (SS)