▽阿武隈川の畔 (ほとり) に建つ福島の生家が道路拡張計画で取り壊されたのは四半世紀前。私が産声を上げた「離れ家」は公共駐車場の一部となり、コンクリートが敷き詰められて、寒々とした空間が広がっている。その界隈に並んでいた家屋・店舗も姿を消してしまい「故郷とはかくやあらん!」という情感が湧いてこない。心象風景が消失してしまえば「そこは故郷にあらず」と、つくづく思った。▽あまりにも鮮烈な故郷の記憶がある。 ① 5〜6歳の頃、家の周りで三輪車に乗って一人で遊んでいた。家の前を通る旧国道に “魔のT字路” があり、子供の私は大事故の瞬間を数回目撃している。母子が撥 (は) ねられた後、警察官に「坊やは見ていたね。その様子を話してくれる?」と尋ねられても、怖さのあまり、三輪車をキコキコと漕ぐばかり。キャラメルをもらっても、幼い目撃者は無言のままキコキコキコ。② 小学生の頃、故郷の同級生の親に不幸があれば、葬儀に出るのは学級委員。その役目を恨めしく思った。焼香の順番が巡ってきた女子学級委員。彼女は足がシビれてその場に転倒! 助け起こそうとした自分も同じ状態! 転倒する寸前に目に入った「物体」をつかんで体を支えたら、それは坊さんの頭。坊さんは驚いて振り返ったが、木魚は打ち続けていた。 (SS)