September 13, 2025

家族

 

▽私は封建的な家父長制が亡霊のように残る旧家で幼年期を過ごした。有力地主の祖父から家督を継いだ父は (バブルが弾けて没落)、生業に就いたことのない、悪く言えば “世間知らずのエエカッコシー” だった。癇癪 (かんしゃく) 持ちで、プライドが高く、家族の中で一番厄介な存在。家長の権威を最大限に振りかざし、攻撃的で相手を威圧する気迫にあふれ、天下人のような大言壮語を繰り返すキャラだったが、トイレの詰まりを解決する道具「スッポン」の使い方を知らなかった。▽お隣さんは10人ほど共生している雑居家族。統率者は元米軍人のMさん。実子と義子が同居する複雑な家族構成のようで、メリハリある共同生活を維持するため、Mさんは家族一人一人に、芝刈り、プール洗浄、屋根掃除などの義務を課して大声で指導する。軍務経験があるだけに、Mさんの掛け声は鬼軍曹の新兵訓練を思わせるほどよく通る。一家は夏になるとプール遊びに夢中になり、親と子が順番に屋根から飛び込む愚行を一日中続ける。整然とした反復行動。規律ありすぎの家族は、遊んでいてもまるで海軍のブートキャンプ。▽肩こり解消のために、ほぼ毎日、私と妻は5〜6kgのバックパックを背負って生活している (これ効果アリ)。「ヤドカリ家族」と呼ばれる日も近い。(SS)
blue_line932
▽自分が子どもの頃は、祖父母、夫婦、子どもが一緒に暮らす3世代同居世帯が多かった。でも、"いけいけどんどん” の昭和の高度経済成長期、日本の産業の中心は、農業や漁業から製造業やサービス業に変化して、たくさんの人が農村から都市へ移動した。我が家も右へならえで、福島の農村から千葉へ移り住み、米作り農家から八百屋へと商売替えをした。4世代が同居していた大家族は、小さな核家族となった。▽私たち夫婦には子どもがいない。晩婚だったこともあり、子どものことまで考える余裕がなかった、というのが正直なところ。旦那もノンキな人で「子どもがいたらすごく幸せだと思う。でも、いなくても同じぐらい幸せだと思う」と言っていた。
自分は母親にはなれなかったが、母親のような温かい存在の女性になりたいと思う。▽定年後に「卒婚」や「友達同居」を実践している友人がいる。「旦那には月に一度くらい会うんだけれど、お互いに久しぶりで話も弾むし、新婚時代に戻ったよう」と、空き家になった実家で書道クラスを始めた友人がいる。「配偶者も子どももいないし、好きな仕事をしながら、友達同士で暮らせたらいいなって」と、独身・バツ2・未婚の母で同居している同級生もいる。昔ながらの “家族のカタチ“ に振り回されず、自分らしい生き方を選んでいるみんなの元気に拍手喝采!(NS)
blue_line932
sheau-ching-san.gif
家族の大切さは、台湾から離れ、日本へ留学していた時に初めて感じたかもしれない。生まれて初めてのひとり暮らし、料理もできず、生活の苦しさも知らず、日本語も挨拶会話レベルだけで日本へ行った私には、台湾の家族が恋しかった! 日本に着いてから、学校に通いながら、生活費だけは自分で稼ぐと宣言して、学校近くの八百屋さんでバイトをしていた。日本語があまり分からなくて、コミュニケーションが大変だった。アパートで泣きながら、野菜とフルーツの種類の単語を必死に覚えようとした記憶がある (笑)。でも、仕事をしていくうちに、スタッフの皆さんが常にヘルプしてくれて、あっという間にお店の一員と認められた。アパートの大家さんも私のことを娘のようにとても可愛がってくれた。“日本のママ” に感謝! 私にとって、台湾には大切な家族がいる、日本に第2の家族がいる、そして、アメリカに夫の家族+家族のような友人たち+職場の家族がいる。愛されている私は、世の中で一番ラッキーな人だと思えて、幸せを感じる。 (S.C.C.N.)
blue_line932
yoko
20歳でアメリカに来て9か月間滞在させて頂いたホストファミリーの家で、初めていろいろな人と一緒に暮らす体験をした。家族はコスタリカからの移民のホストマザーとドイツ系アメリカ人のホストファーザー、17歳の娘さん、アダプトした黒人ミックスの2歳の息子さんだった。そこには常に各国からの留学生2、3人が滞在していた。結婚して別宅に住んでいる成人した娘さんと旦那さん、幼い孫2人もよく訪ねてきた。クリスマスやサンクスギビングには大家族でディナーテーブルを囲み、プレゼントを送り合うなど、アメリカのホリデーを満喫できた。ハウスメイトの留学生の子たちとも友達になった。イタリア、スイス、フランス、スペイン、ブラジル、日本と出身国もさまざまで、みんなの話を聞くのが興味深かった。休日の度に、女の子たちとバスでラホヤショアーズにビーチタオルを持って、リラックスしに行っていたのが懐かしい。ホストファミリーとの生活で、良い体験をたくさんさせてもらって有難く思う。 (YA)
blue_line932
reiko-san
△家族って不思議な共同体。赤の他人が一緒になって家族となり、子供が生まれて家族が増える。血縁で繋がっている家族もあれば、血が繋がっていなくても家族っていうこともある。一緒に住んでいない家族もいる。一緒に暮らす動物がいれば、その子たちも立派な家族の一員になれる。私が今、一つ屋根の下で一緒に暮らす家族は、夫と娘、猫2匹。コロナで一家は缶詰状態。密な生活を送っているから、ぶつかり合うことも増えたかもしれないけれど、総合的にはハッピー家族。△現在、日本で審議されている選択的夫婦別姓制度の導入の行方が気になる。姓の違う家族だと絆が弱まるのでないか、子供が混乱し、可哀想ではないか、など、いろいろと懸念の声も多いようだ。夫婦別姓を選んで結婚し21年目を迎える私たち夫婦。娘には私の姓を与えている(これはアメリカでも珍しいようだが)が、姓が違うからといって私たち夫婦の絆が弱くなっている気も全くしないし、娘も一向に気にしていないようである。家族って姓なんかで弱まったり強まったりするものではないんじゃないかな。夫婦別姓という選択肢がある国って魅力的だと私は思う。 (RN)
blue_line932
suzuko-san
最近、Youtubeで松坂慶子と故渡哲也が演じる「熟年離婚」というドラマを見た。世の中で時々起こる、主人の退職の日に妻が離婚を申し出る、という内容である。この夫婦には子供が3人。それぞれがちょっとした問題を抱えながら生きている、という設定だ。妻は彼と結婚して35年、家庭を顧みず、ひたすら職場人間として働く夫を一生懸命支え、子供を育て、という典型的主婦生活にピリオドを打ちたい、私も自由に生きたい、と宣言したのだ。青天の霹靂。退職の日に妻への宝石を購入したり、妻との海外旅行に備えて英語学校への入学など準備をしていた矢先の、爆弾発言に夫も一時は言葉を失う。まさかのまさかである。それぞれの子供たちが持つ問題にぶつかりながら、夫の「古風、石頭」的な考えが少しずつ溶けて行き、現実を受け入れていく、いかなくてはいけない状況に、自分のこれまでの人生を正当化してきたことを反省するも、既に時遅し。そして「家族はそれぞれいろんな悩みを抱えながら生きている。長い間一緒に暮らしてきたのに、家族って一体何なんでしょうね」という言葉で、ドラマは終わる。子供がいない私は、そういう騒動に巻き込まれることもないが、家族の在り方と真剣に向き合う機会も得られなかった。「一体、独りって何なんでしょうね」。 (Belle)
blue_line932
jinnno-san
うちの実家は、名古屋でお爺ちゃんが始めたプレス屋さんだった。プレス屋って知ってる? 洗濯屋さんとよく間違われるんだけど、クリーニング屋さんではない。紳士服がお店に並ぶ前、生地から仕立てあがったばかりのジャケットやズボンをですな、型に置いて、高圧の水蒸気アイロンでビシッとスーツの型に決める、アイロンがけ屋さん。肩、襟、腕、ズボンも線が入ってるでしょ、あれよ。時代と共に安価な海外製スーツに移行して、長男も別の道を選び、跡継ぎもなく、家業もお父さんの時代で店じまい。これはうちだけじゃなく、友達の家でも起きてるね。彼女の実家は東京浅草橋にある100年以上続く洋食屋さん「一新亭」。84歳と80歳のご両親だけで経営していて、体力的に毎日営業できなくなり、姉妹2人が交代で手伝うようになったって。オムライス&カレー&ハヤシライスが一皿に乗ってる “三色ライス” が看板メニュー。聞いただけでうまそ! うちと違って、ってことでTVの取材を受けたり、子供や孫、家族で手伝える環境がいいよね〜。ご両親幸せだろーね〜・・・あー! 今、大きな違いに気付いちゃった・・・うちは昭和・平成で閉店。一新亭さんは、明治・昭和・平成・令和・・・まだまだ現役だった! (しんつれい!笑)。(← 孫と彼氏が継ぐかもだしー!笑)。(りさ子と彩雲と那月と満星が姪)
blue_line932
私は二人姉妹の姉だ。冗談一つ言わない厳格なサラリーマンの父と、パートタイムで働きながら、一人で子育てをしたような母親の元で育った。この流れで行けば、私たち姉妹は真面目で勤勉に育ちそうなものだが、全く逆の状態。姉の私は、単位が足りる、足らないのギリギリで高校を卒業し、滑り込みで受かった短大卒業後、そこそこの会社に就職したと思ったら、たったの2年半で辞め、サンディエゴに語学留学。9か月だけの留学で帰国する予定が、旦那と出会い、そのまま永住。そして妹、紀子。出来ちゃった婚で、片田舎の本家の一人息子と結婚。彼の親はそこそこお金があるけれど、旦那は売れない貧乏バンドマン。造園の仕事をしながら、週末はライブ活動。日本ではまだまだ視線が厳しいタトゥー、夫婦そろって数が増えていき、娘の授業参観は、真夏の猛暑日でも長袖&長パンツだ。そして数年前、脱サラで自分たちのライブハウスを開けた! 現在は金髪の妹とドレッドヘアの旦那。数十年前は喧嘩と涙ばかりの実家の家族だったが、両親もかなり免疫ができた (ということにしておく)。COVID-19の世の中で、この家族が私の宝物だとつくづく感じる。(IE)

(2021年3月1日号に掲載)