September 13, 2025

母の日

 

昨年の春、老齢の母が歩行中に転倒し、治療とリハビリのために入院を余儀なくされた。90歳を目前に負傷したので、寝たきり状態になることも覚悟していたが、幸いにも骨盤は折れておらず、4か月の入院期間を経て完治し、歩ける姿に戻った。療養中の母を元気づけようとした私は、病室で持て余している時間を楽しく過ごせるだろうと、母の日のプレゼントに音楽のCDを贈ることにした。その昔、母は村田英雄が好きだったので、往年の歌手の名前を挙げて希望を尋ねた。母の口をついて出てきたのは意外な歌手 (グループ) だった。それはSMAP!! えーっ! ファンだったのか!? 母のお気に入りSMAPの楽曲 BEST3:『がんばりましょう』 — 軽快なテンポで「どんな時も くじけずに がんばりましょう」と、老人を応援してくれているようで元気が出る。『らいおんハート』 — 家族愛が心に伝わって思わず涙が出る。『夜空ノムコウ』 — 「夜空のむこうには 明日がもう待っている」。素晴らしいあの世が開けているような気持になる。・・それぞれの歌に自分のコメントまで付けている。マイッタ。90歳を甘く見ていた。私はオンラインでベストアルバム 『SMAP 25YEARS』 を探し当て、母の日に届くように手配した。嵐よりもSMAPだそうだ。 (SS)
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▽小学生の頃、母の日によく『肩たたき券』を贈った。福島から千葉に移り住み、裸一貫から父と八百屋を開いた母は、早朝から晩までよく働いていた。近くにスーパーがオープンすると、軽トラックで曳き売りの行商に出た。パンパンに凝った母の肩はなかなかほぐれず、手が痛くなった。省エネのため、有効期限付きの券を贈るようにした。「期限切れだけど、最強の肩たたきの注文入りました」と、元気で明るい母の声が今でも聞こえてくる。▽動画再生回数が130万回を超えて話題となった「全国一斉 母の日テスト」。2018年に西武そごうが母の日プロモーションの一環として企画したもので、「母」にまつわる100の問題をテスト形式で作成。動画内で、東大生がテストを受け、終了後に母親に電話で正解を聞くまでの様子が「感動する」と、注目を集めたとのこと。母の好きな食べ物は? 生年月日は? 趣味は? 初恋はいつ? 幼いころの夢は? 尊敬する人は? など、意外に知らない「母」のことが100問 (https://bit.ly/2RUm3wL)。今年も母の日がやってくる。天国の母とは、もう一緒に答え合わせはできないけれど、私には、いつも「お母さん」と呼んでいる義理の母がいる。旦那にも参加してもらい、スピーカーフォンで「母の日テスト」を楽しんでみたい。(NS)
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母が病気で亡くなって、もう5年以上経った。義理の母もFluで亡くなって、2年以上になった。二人のお母さんが天国に召され、子供もいない私には母の日とは無縁だけど、 世の中のお母さんはスゴいと最近常々思う! 女性しか体験できない、つらい妊婦生活&出産! そして出産後の大変な子育て。周りのママたちを見ていると、生活の優先順位、食事のこと、買い物など、、、何もかも自分のことを考えるよりも、子供のことを優先にしている! それだけでなく、子供の通学のアレンジ、放課後のサークル活動、Day Trip、誕生日会、発表会など、数え切れないイベントに対応して、協力し、用意し、参加し、片付け、、、子供をドロップして、ピックアップして、毎日に何回も家とを往復しないといけない場合もある。子供の世話以外は、仕事をしたり、家事をしたり、、、本当に大変だなぁ〜と心から尊敬! 母の日がもうすぐやってくる。よく働く世の中のお母さんたちにサルート! (S.C.C.N.)
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yoko
23歳で私を産んだ母は、私が小学生のころはまだ30代前半だった。参観日に母が来ると 「お母さん、若い〜、綺麗〜!」とクラスメイトに言われるのが自慢だった。父は家のことは母に任せっぱなしだった。母は仕事と家事を両立させながら、私たち姉妹をしっかり育ててくれた。毎朝、洗濯しながら、朝食を用意し、私たちを学校へ送り出した後、掃除機をかけ、ペットたちとたくさんの観葉植物の世話をしてから、会社へ行っていた。夕方に帰宅すると、夕ご飯の用意。私たちに食べさせ、お風呂に入れて寝かせる。お風呂の準備と洗濯物の取り込み&片付けは私の仕事。子供の学校が半日の土曜日には、お昼ご飯を用意しに会社から戻ってきて、また出社。休日の日曜日は、朝から私たちを起こして、みんなで家の掃除。毎日忙しく働く母を見て育った。母はすごい。大人になってから、やっと母の有り難味が分かった。まだまだ若いお母さん、これからは、自分のためだけに時間を使って、毎日を楽しく、健康に過ごしてください。 (YA)
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reiko-san
母の思い出いろいろ。手先が器用で、編み物や裁縫仕事が得意だった。ピアノの発表会に着る素敵なドレスも作ってくれた。真っ白な布で縫い上げ、それを自分で素敵な藍色に染色してくれた。宝物だったはずなのに、今はどこにあるのか不明 (涙)。大好きなリカちゃん人形の服の数々も毛糸で編んでくれたっけ。味噌、梅干し、らっきょう、天然酵母のパン、ヨーグルト、何から何まで、手作りできるものはなんでも作っていた。ピアノを教えたり、父の幼児教室を手伝っていたりしたこともあって、多忙な母だった。よその子にも自分の子供のように、悪いことをするとしっかり叱るので、生徒さんからは恐れられていたようだが、面倒見が良く、困っている人を放っておけない性質で、子供や親たちからも頼られることが多かった。疑い深い性格 (笑) で、風評、迷信、デマなどにはそう簡単には引っかからない人だった。しっかり者ではあったけれど、おっちょこちょいなところも結構あった。早くに自分の母を病気で亡くしていたので、私たち子供に対しての愛情のかけ方は人一倍強かったように思う。思春期の頃はよく衝突したりもしたけれど、いつも私たち子供のことを一番に考えてくれて、世界一の母だったなと思う。 (RN)
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suzuko-san
52歳で急逝した私の母は、昔の、どの母親もそうであったかのように、働き者だった。かまどで、薪でご飯を炊き (どれほどの手間か想像もつかない)、洗濯板で洗濯をし (湯沸し器などない時代だから、冬は水の冷たさで手は荒れ放題)、掃き掃除と拭き掃除。その間には飼っていた鶏やウサギの餌やり。そして毎朝、父の靴をピカピカに磨き…。家事が一段落すると、歩いて市場に食事の買い物に。その合間に、子供たちの下着も含めた洋裁仕事。夕食後は、またまた薪でお風呂を焚いたり、せっせと編み物をしたり、あるいはセーターの毛糸をほどいて湯通ししたり…。これが、今と同じ24時間しか持たない主婦の毎日か? ホッとする時間などあったのだろうか、と思うほどだ。それに比べ、私の生活の体たらくぶりは、一体何なんだ? 母になれなかった、ならなかった私は、母の日を祝ってもらうことなど一生無いが、この親不幸モノの娘は、母と暮らした18年の中で、母の日だからと、母に感謝の意を伝えたことがあっただろうか。それどころか、私の誕生日が母の日と重なる年には、娘は母の日はそっちのけで、母が私の誕生日祝いをしてくれたりしたものだ。とっくの昔に逝ってしまった母に、せめてもの罪滅ぼし。母の写真にカーネーションを飾る。そして言う、「お母ちゃん、親不孝でごめんね」。 (Belle)
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jinnno-san
親不孝だわ、わたし。母の日の記憶が、ない (ヒドイ!)。小学校でカーネーション配られて、あげた、かな?(記憶に、、うっすらあるような・・・)  でも、小学校でカーネーションを全校生徒に配るバジェットがあったのか、など現実的なことを考えてしまう 笑。1回くらい米国からお花を頼んで宅配してもらったっけ (記憶がうっすら 笑)、なぜプレゼントをしないかというと、、お母さんからの、わたしが大人になってからの言いつけで、モノをくれなくてよいと。そのお金があれば、恵まれない子たちに寄付しなさいって。なーーんていい母親じゃなーい?一方、自称似非 (えせ) メキシコ人のわたしは、メキシコの母の日の習慣が好き。米国や日本の母の日とは違って、変動日ではなく固定日。日曜日も関係なく毎年5月10日。今年なんかは月曜日よ。でも、関係ないさ、あのお国は 笑。お母ちゃんがとっても大切な国なので、盛大にお祝いすること間違いなし 笑。スゴイのは、自分のお母ちゃんはもちろん、他人のお母ちゃんもお祝いすること。世界の “母“ 全てを祝福するのよ。子供と旦那がお母さんにありがとうだけじゃなくて、女性同士がハグしてんの 笑。その日、よーく観察してみて。やたらおばちゃん同士がチューしてハグしてるから 笑。(笑っちゃいけないけど、笑えるから!笑) (ゴメンね!笑)。(りさ子と彩雲と那月と満星が姪)
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今回のお題で、私は自分の母のことを書くつもりだった。締切日が過ぎ、ヤバいぞと焦っていた昨晩、旦那のお母さんが亡くなった。私の旦那は日本人母とアメリカ人父のハーフだ。5歳の時に両親が離婚し、父親と一緒に人生を過ごした。彼の母は、その後日本で再婚したが、子供は作らず、新しい旦那さんと共にアメリカと日本、離れていても精一杯、息子 (私の旦那) を愛してくれた。私も2人の息子を持つ母。海を越えて母親の愛情をアメリカにいる息子に届けるのは、涙することが多かったと想像する。旦那の母親は30年前に脳梗塞から半身不随になり、心臓にカテーテルを入れる手術もし、それでも84歳まで頑張った。数年に1回、日本に帰ってくる息子のために頑張っていたんだろう。このコロナ状況で、旦那を日本に行かせてあげたかったが難しい。改めて自分の周りにいる人たちに、愛情と感謝を日々伝えることを忘れてはいけないと感じた。母の日には、旦那のお母さんと義父と私たちで写っている写真に、花をそなえよう。(IE)

(2021年5月1日号に掲載)