Thursday, 28 March 2024

ゆうゆうインタビュー 鈴木弘子

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プロアメフトの選手生活について話して下さい。

現在アメリカには女子のアメフトチームが81あり、3つのリーグに分かれています。私が所属しているのはWPLFで、サンディエゴにフランチャイズを置く南カリフォルニア・スコーピオンズの一員です。今年、ロングビーチ・アフターショックから移籍してきました。女子アメフトリーグに参加して今年で6シーズン目。毎年オールスター戦に選ばれてプレーオフにも出場してきました。現在、リーグでの日本人プレイヤーは私1人です。

WPLFの試合ルールはNFLと同じ4クォーター制で1 クォーターが15分。100ヤードのフィールドでオフェンスとディフェンスの各11名がプレイします。NFLと異なる点は使用するボールのサイズが一回り小さいのと、登録選手数がNFLが60数名に対してWPLFでは40名ということです。

私の担当ポジションはライン。簡単に言うと、ボールを持って走ることはせず、目の前の相手に激突してブロックする役目です。私はオフェンスとディフェンスの両方のラインを受け持っています。見た目には地味なポジションなのですが、肉体的にハードで 試合の鍵を握る重要な任務なのです。特に、オフェンスラインはラン攻撃の際に敵のディフェンスラインを粉砕し、ランニングバックが走るルートを作ります。また、パス攻撃の時にはクォーターバックを敵のラッシュから防いでボールを投げやすい環境を作るという、勝利を呼び込む重大な役割を担っています。大型選手を相手にする場合が多く、私の倍以上の300ポンドに近い体重の選手を食い止めるには相手の胸元から懐 (ふところ) 深く潜り込み、十分に腰を入れてめくり上げるという技が要求されます。

スコーピオンズの練習は火、木、土曜日の週3日、サンディエゴ州立大学近くのケーロックセンター(Kroc Center)で行われます。レギュラーシーズンは7月下旬から10月中旬までで14週間に10試合を戦います。



——WPLFの給与システムは。
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地元の浅草花川戸公園で開催された盆踊り大会に浴衣姿で参加(2歳、1967年)


給料は1ゲーム単位で支払われ、キャンプ中は支給されません。基本的には全員一律で決して多くはありません。マイナーリーグ野球の底辺レベルでしょうか。プロスポーツ選手といっても、ほとんどの選手が別の仕事を持っています。チームメートの中には軍務関係者、郵便局員、弁護士、警察官、セールスマンなどをして生計を立てている人もいますし、子供連れのママさん選手もいるんですよ。チームが紹介してくれるスポンサーが付くこともありますが、経済的には不十分で、私の場合は日本の出版社や新聞社に記事を書いて原稿料を頂いています。私はプロスポーツ選手のビザでアメリカに来ているので、他の仕事に就くことができないのです。それに、初めての日本人女子プロアメフト選手ということで日本のフットボール協会から注目されているので、違法就労などは論外ですから (笑)。


—— アメフトを始めたのはいつですか。

30歳の時です。当時の私は、野村證券の社員専用スポーツクラブで水泳、エアロビクス、ウエイトトレーニングのインストラクターをしていました。それまでは他のスポーツクラブに勤めていたのですが、野村證券で働くようになって初めてOLさんの生活を目にしたのです。月曜日は華道、火曜日は英会話、水曜日はエアロビクス…と、皆さんが様々な習い事をしている姿を目の当たりにして、私も新しいことに挑戦して自分を深めたいと思うようになりました。
最初は着付けを習いました。着付けを選んだ理由は「着れなかった着物が着れるようになる」 という確実な技術が得られるということです。水泳と同じで「カナヅチが泳げるようになる」という明白な結果を出せますからね。ゴルフも習っていたのですが、私を居酒屋のお姉さんだと思って誘ってくるインストラクターに嫌気が差して止めてしまいました。空手を習い始めた頃は女子プロレスに勧誘されたこともありましたね (笑)。そんな時、日本に2チームしかないアマチュア女子フットボールチームの一つ、東京の 「レディコング」 に所属する知人から 「一緒にやってみない?」 と誘われたのです。アメフトのルールも分からなければポジションの名前すら知らない私でしたが、お稽古ごとの感覚で始めてしまったのです。


—— アメフトに魅了された理由は。
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シンクロナイズドスイミングの東京代表としてジュニアオリンピックに出場(15歳、1980年)


レディコングのコーチから 「ルールが分からなくてもいい、とにかく目の前の敵にぶつかれ!」 と言われ、緒戦は何も考えずに当たっていきました。でも、チームは勝てませんでした。私が相手に打ち勝っても、他の選手が負けていたのです。私はその時、アメフトは団体競技であり、個人戦でもあることを理解しました。例えば、「この相手は体が大きくて勝てない」 と思うのなら2人で当たればいいのです。そうすることで隣の選手との連携が生まれます。また、私達が相手を抑えても、ボールを持って走る選手がゴールを突破しなければ得点できません。アメフトは作戦が作戦を凌でいく緻密なスポーツです。完璧な作戦を考えていても、相手がそれを上回る戦術を用意していれば負けてしまいます。私はルールを理解するにつれて、アメフトという奥の深いスポーツに魅力を感じるようになりました。アメフトの深みにハマってしまった私は 「作戦にも口を出したい」 「コーチになって後輩を指導したい」という願望と 「私が仕切ればチームは勝てる」 という自信が生まれ、レディコング入団2年目の1996年にポジションリーダーを務め、1997年には副将になりました。1998年にはオフェンスガード/ディフェンスタックルのポジションで主将になり、さらに翌年には、選手のみならずコーチとコーディネーターも兼任するようになりました。


——プロ入団の経緯について聞かせて下さい。

レディコングのスポンサーである保険会社が降りてしまい、私がチームのオーナーを引き受けることになりました。私がチームを引き継いでからは相手チームのワイルドキャッツ (大阪) に全戦全勝を記録したのですが、何か物足りなさを感じるようになっていました。「アメリカに女子プロアメフトリーグ誕生」というニュースを目にしたのはその頃でした。男の牙城だったアメフトに女子プロリーグが創設されるのは感動的でした。私はレディコングをアメリカのチームと対戦させたいという思いから、早速ホームページで情報を集めたのですが、トライアウト(入団テスト)の案内以外に何もありませんでした。私は現地に赴いて関係者と話をしてみようと、トライアウトの最終開催地アトランタへ向かいました。ところが、話が一転して自分がトライアウトを受けることになり、デモンストレーションゲームに出場することになったのです。

試合終了後、観戦していたデイトナビーチ・バラクーダスのオーナーからチームへの入団を勧められ、自分がトライアウトに合格したことを知りました。そして、日本に帰国した途端、成田空港で時事通信社の記者からインタビューを受け、翌日の新聞一面に 「鈴木弘子、アメリカのプロフットボールに合格!」 と大きく掲載されてしまったのです。テレビや雑誌の取材攻勢が私に押し寄せました。「実は、アメリカ行きはまだ決めていないのですが…」 などと言えない状況になっていました。勤務先からも後押しを受けて 「それなら、目標はオールスター出場だ!」 と自らを奮い立たせ、2000年に渡米したのです。



—— アメフトがアメリカ文化に及ぼした影響とは。
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2005年度US相撲オープンの無差別級で準優勝、ミドル級で優勝


アメフトはアメリカ人の生活に密着したスポーツです。例えばゲータレードは、60年代にフロリダ大学の弱小アメフトチーム「ゲーターズ」を救済したい(レードしたい)との思いから、この大学の泌尿器科専門医が開発したもので、これが世界で最初のスポーツドリンクとなりました。また、トレーニングマシンはアメフト選手がオフシーズンに身体を鍛えるために考案されたもので、現在ではフィットネスジムや各種機器が一般人の健康増進に一役買っています。

アメフトのチャンピオンを決定するスーパーボウルは、毎年テレビ視聴率が40%を超えてアメリカ人の2人に1人が観戦する国民的行事となっていますが、実際にアメフトはテレビ中継向けに生まれたスポーツなのです。試合が断続的なのでCM枠を入れやすく、ルールも相当に変更されたようですが、チーム、テレビ局、広告主、そして日曜日の午後にポテトチップスを食べながらカウチに座ってテレビを観る視聴者にとって無くてはならないスポーツです。また、撮影していない角度の映像を作り出したり、モノや人が動いても重ならないような画像をフィールドに映し出す特殊なCG技術もアメフトから誕生して各方面で利用されています。



—— 日米の違いを感じる点は。
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カリエンテ時代のチームメートと一緒にアリゾナの湖でウォータースポーツを楽しむ(2003年)


アメリカではスポーツの振興方法がたいへん発達しています。アリゾナ・カリエンテでは、野球のランディ・ジョンソン選手からサイン入りの帽子やユニホームを譲り受け、オークションにかけてチームの資金にしています。クリスマス前にはウォルマートでラッピングサービスもしました。「恵まれない子供の家」へ寄付するのが目的だったのですが、 地元のメディアが取り上げてくれるのでチームの宣伝になり、ウォルマートからスポンサー料として小切手をもらい、 ウォルマートも社会貢献という意味で企業のイメージアップにもなり、寄付先も喜ぶわけです。しかも、寄付先は「コーン缶はいるけれど、ツナ缶はいらない」などと必要な物をリストにするので、とても合理的です。日本では野球のチームでさえ潰れてしまうようなご時世ですが、日本のスポーツ界はスポンサー企業だけに頼ってしまっている傾向があります。スポーツは全てが市場に委ねられています。大勢の人にそのスポーツを認知してもらい、いろいろな方法で資金を集めるスポーツマーケティングの要素が日本にはもっと必要になってくると思います。


—— ご自分が感じている使命とは。

私はオフシーズンになると、日本の小学生にフラッグフットボールを教えています。タックルの代わりに腰から下げた細長い旗を奪って敵の前進を止めるという、アメフトのルールを踏襲して行われる簡単で安全なゲームです。作戦からプレイまでの全てを子供たちで行うのですが、例えば、最初の3回は運動神経の良い子がパスを受け取ります。そして、マークされていない運動神経の鈍い子に 「君は足が遅くてマークされていないから、4回目にパスするよ」と作戦司令を担当する頭脳派の子が指示します。すると確かに、足の遅い子が4回目のパスを受けてタッチダウンする成功率が高いのです。また、足の速い子が突進してきた時、その子のフラッグを奪うのは俊敏に追いかける子ではなく、むしろ運動神経が鈍くて立ちすくんでいる子が多いのです。つまり、このゲームでは不要な子は1人もいないことが証明されます。子供たちが社会に出る前に、アメフトを通して 「適材適所の役割が与えられて、人間社会が成立している」 ことを教えることは大切であり、私はその役目を果たしていきたいと思います。その立場が私にとっての適材適所でもあるわけですし…。今までは自分の母校を中心に教えていましたが、これからは全国の小学校を訪れたいですね。


—— 今後の目標は。h6.jpg

今でもオーナーを務めている日本のレディコングを米国のプロリーグに所属させたいという夢を描いています。私に続こうと、何人もの日本人女性がプロを目指しているのですが、思いを果たせずに悔しい思いをしています。今、その夢を実現する方法論を教える女子アメフトの専門学校を作ろうとしていますが、先ずはスポンサーを探さなくてはなりません。また、昨年から「eラーニング」の八洲 (やしま) 学園大学に籍を置き、スポーツを通して社会貢献していくための理論を学んでいます。この就学システムは文部科学省の規則改変に伴い、インターネットを通じて大学卒業資格が取得できるというもので、私のようなスポーツ選手でも受講が可能になりました。試験は指定された日時にコンピューターの前で待機するのですが、時差の関係で真夜中に受けることもあります。日本の体育教育に導入されなかった「適材適所を教える」という指導法を小学校に広めていくためにも必ず卒業して、子供たち一人一人が only one の貴重な存在になれる教育を推進していきたいと思います。


—— 鈴木さんのフィールドでの活躍を見に行くファンに一言。
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日本人初の女子プロアメフト選手として、現在、サンディエゴのスコーピオンズで活躍中(2005年)


日本人選手の活躍の場としては大リーグ野球が華やかで人数も多いですが、日本のフットボール人気はそれほど高くはなく、ましてや女子アメフトとなると注目度が低いのは否めません。でも、アメリカの国技としてのスポーツの世界で唯一の日本人女性が頑張っています。ルールを詳しく知らなくても構いません。是非、アメリカ人と一緒に観戦に来て下さい。私のプレイを観て 「スゴイぜ、日本人もやるなぁ」 と言ってもらえることは請け合いです。


鈴木 弘子 (すずき ひろこ) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

アメリカ女子プロアメフト選手。サンディエゴを本拠地とする南カリフォルニア・スコーピオンズ所属。1964年9月28日東京・浅草生まれ。高校時代はシ ンクロナイズドスイミングの選手として活躍。短大在学中よりスポーツインストラクターとして水泳、エアロビクス、ウエイトトレーニング等を指導。健康運動 指導士、ヘルスケアトレーナー、心理相談員の資格を持つ。1995年に日本の女子社会人フットボールチーム、レディコングに入団。2000年アメリカプロ リーグ入団テストに合格し、日本人初の女子プロアメフト選手となる。渡米1年目で1位指名によりオールスター戦出場を果たす。デイトナビーチ・バラクーダ ス、アリゾナ・カリエンテ、フィラデルフィア・フェニックス、ロングビーチ・アフターショックを経て、今年サンディエゴのスコーピオンズに移籍して活躍 中。愛称は Betty。2004年より八洲学園大学生涯学習学部人間開発教育課程に在籍。現在、サンディエゴ在住。
オフィシャルサイト=http://www.suzukihiroko.com
ブログ=http://suzukihiroko.blog8.fc2.com

(2005年8月16日号に掲載)