Friday, 29 March 2024

ゆうゆうインタビュー アイリス・ヤマシタ

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昨年暮れに日米で公開された映画『硫黄島からの手紙』でアカデミー脚本賞にノミネートされ、彗星のごとく映画界にデビューを果たしたアイリス・ヤマシタさん。史実に基づいて太平洋戦争を日本側の視点から描いた作品はアメリカでも高い評価を受けた。5月22日にはDVD 版が発売されている。ウェブプログラマーを本職としながらスクリーンライターを志した動機、『硫黄島・・』の作品に関わった経緯、脚本を担当した日系アメリカ人としての思いなどを、大学の講演でサンディエゴを訪れたヤマシタさんに聞いた。


硫黄島からの手紙』は脚本家としての初作品ですが、ウェブプログラマーを本職としていながら、映画脚本家になったきっかけは。

私は以前から趣味で執筆活動を行っていました。私の両親はアジア人で、現実的観点から 「実用的な」仕事に就くように勧められました。そこで、フルタイムでウェブプログラマーとして働きながら、UCLA の公開講座を受けていたのです。もともとは小説を書くつもりでしたが、実際には作品を書き上げるのに大変苦労しました。脚本のクラスを受け始めてから、私には短いフォーマットが向いていると気付いたのです。


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『硫黄島からの手紙』は『父親たちの星条旗』に続くクリント・イーストウッド監督の戦争2部作。撮影現場で主演の渡辺謙に指示を出すイーストウッド監督 © Warner Bros. Pictures
——『 硫黄島からの手紙』の執筆意欲をそそられた理由は。脚本に取りかかる際、 作品に対して日系アメリカ人としての特別な思いがありましたか。

日本人の視線から硫黄島の戦いを描くというのは、監督であるクリント・イーストウッド氏のアイデアです。私がこの作品の脚本家に抜擢てきされたのは、 私が日系アメリカ人であるということが大きく作用したと思っています。


—— 日系二世であるご自身の家族背景について話して頂けますか。

私の両親は日本で生まれ、1960 年代に渡米しました。父はフルブライト奨学金を受けてアメリカに留学しました。父は現在、ロサンゼルスで眼科医を営んでいます。主婦だった母は2005 年に亡くなりました。1 歳年上の姉はロサンゼルスの広告代理店に勤務しています。


—— 硫黄島からの手紙』に対するご家族の反応は。

脚本担当が決定し、それを両親に告げたら 「クリント・イーストウッドって誰なの?」と聞き返されました。私の両親は映画観賞の趣味がなかったのです。母は映画が完成する前に亡くなったため、残念ながら作品を観ることができませんでした。 父を始め、私の親戚一同も、この作品をとても誇りに思っています。


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硫黄島の慰霊碑の前で握手する日米の遺族ら=東京都小笠原村(2006年3月)© Kyodo
——映画制作が開始された経緯を話して頂けますか。

当時、クリント・イーストウッド氏は『父親たちの星条旗』の制作準備に追われていました。リサーチを進めるうちに、彼は日本軍に対する関心を募らせていき、栗林忠道・陸軍中将に関する情報を入手したときには、とても感銘を受けていました。そして、彼は本能的に、太平洋戦争を日本人の視線から描いた作品の興味深さを感じ取っていたのです。


—— イーストウッド氏はアメリカ側から硫黄島の戦いを描いた『父親たちの星条旗』に続き、日本側の視点で『硫黄島からの手紙』 を監督しましたが、アメリカ人はより好意的に『硫黄島からの手紙』 を受け容れたようです。この反応を予想していましたか。それとも想定外。

『父親たちの星条旗』も批評家の間で好評を得ましたが、『硫黄島からの手紙』は外国語で、しかも敵の視線から描かれた作品でしたから、私はこの反響には驚きました。 クリント・イーストウッド監督の作品ということが多大な影響を与えたことは言うまでもありませんが。


—— 『 硫黄島からの手紙』が支持を得たのは、第二次世界大戦が異なる視点から描かれているのが理由だと思いますか。

そうですね。この作品が成功した大きな鍵は、アメリカ人が知らない側面を提示したからだと思います。


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『硫黄島からの手紙』は日本人兵士の視点で太平洋戦争を描いた作品。日本語映画がアカデミー作品賞にノミネートされた初の作品となった。
© Warner Bros. Pictures
—— 映画脚本の題材として、以前から第二次世界大戦に関心をお持ちでしたか。

私は『 硫黄島からの手紙』 を手がける前に、 “Travelerin Tokyo”という脚本を書いています。第二次世界大戦前夜と戦時中の日本が舞台で、当時の市民生活を描きたかったのです。その思いは『 硫黄島からの手紙』 で多少なりとも実現することができました。しかし、実際の戦闘について書くことなど考えたこともありませんでした。


—— 戦史を調査していて苦労したことは。

書籍、ビデオ、ウェブサイト、個人的資料、刊行物などを渉猟しながらリサーチを重ねましたが、最大の問題は、 実体験を詳しく語れる日本人の生存者が皆無に等しかったということです。 一方で、アメリカには戦闘の実録や情報が豊富に残されていたので、私はどうにか、生存者たちの資料や情報を集めることができたのです。


—— 第二次世界大戦中に多くの日系人が捕虜収容所生活を強制された史実について、どのような感想をお持ちですか。

私はかつて、捕虜収容所についての調査を行い、若くして収容所生活を体験した人々に話を聞いたことがあります。 彼らにとって、それは理不尽で悲惨な出来事でした。 今の時代では、出自や文化の違いで自分が刑務所へ送られることなど想像だにできません。それでも、私がインタビューを試みた方々は、その過去に悲嘆しているようには見えませんでした。収容所で暮らしていた頃はほんの子供で、その体験を単なる幼少期の記憶の断片として思い出しているのです。
 

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5月22日に発売された『硫黄島からの手紙』DVD (Warner Home Video / 140分 / 英語字幕付き / $34.99)
—— 第二次世界大戦は日本人や日系アメリカ人にとってデリケートな論題だと思います。戦争をテーマにしたハリウッド映画の中で描かれる日本人像をどのように感じますか。

かつて、日本人がやゆされ、戯画化されて描かれた時代は確かにありました。しかし、現代人は国際的視野を広げ、本質を見極めながら、多文化への深い興味を抱いているのではないでしょうか。


—— 次なるステップは。

現在、複数の新しいプロジェクトに関わっています。その中で、先ほどお話しした“Traveler in Tokyo” の映画化について交渉が進んでいます。

アイリス・ヤマシタ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1960 年代に米国移住した“ 新一世”の両親の下でミズーリ州に生まれる。カリフォルニア大学バークリー校で機械工学を専攻後、東京大学に1年間留学。ウェブプログラマーを本職としながら、趣味で書き続けていたシナリオが『 硫黄島からの手紙』の制作総指揮ポール・ハギスから評価され、脚本担当を請われる。スクリーンライターとして事実上のデビューを飾った『硫黄島からの手紙』がいきなりアカデミー賞脚本賞にノミネートされ、一躍脚光を浴びる。


(2007年6月16日号に掲載)