Thursday, 21 November 2024

ゆうゆうインタビュー アラン・ペイト

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ゲスト学芸員として迎えられた民芸国際美術館の“NINGYO: The Art of the Japanese Doll” について話して下さい。

全米で最有力と言われる 7 人の日本人形の貸し手が集結する、日本国外では最も包括的な展示会です。日本でもこれだけ充実した内容の日本人形展は開催されなかったと思います。勿論、日本には優れた作品が数多くありますが、本展の内容も決して遜色がありません。

展示会では日本人形の 6 つのカテゴリーに焦点を当てます。御所人形、雛人形、武者人形、衣装人形、からくり人形、そして健康祈願の人形です。世界各国にはそれぞれ特有の人形文化が存在していますが、これは人間の本能的な表現芸術であると言えます。

日本人形の起源は日本の先史時代まで遡ります。紀元前 4000 年から 3000 年の縄文時代に、人々は粘土で作られた小立像を豊作祈願に用いていました。それ以降、人形は豪華な儀式を含めた慣習のなかで歴史的、考古学的、文化的に重要な役割を果たすようになり、日本の精神や社会的意味合いが人形に吹き込まれていきました。そのため、人形は日本人の心の中に深く根づいており、彼らの人形に対する思い入れの強さは他国人とは異なります。古い人形は家族代々、手から手へと受け継がれていきます。教育制度が発達した今日の日本でも、人々は人形にかつての保有者の霊的要素を感じ取り、家へ持ち帰ることを拒みます。このように人々の畏敬が込められた存在として扱われ、他の芸術様式とは一線を画する人形だからこそ、日本国外でも、今回のような大規模な形でコレクションを一堂に集めることを可能にしたと言えるのです。



——英語の“doll”に含まれる意味合いは“Ningyo”ほど深みがないのですか。

そう言えるでしょう。“doll”の訳は「人形」となりますが、そこには日本語の「人形」が持つ精神的、性質的な豊かさを内在する深い意味は読み取れません。“doll”は「人形」とは程遠く、英語にはそれを正しく表現する言い回しが存在しないのです。なぜなら“doll”は玩具であり、軽々しい存在であるのに対し、「人形」はそれとは逆に、重い存在価値を認めている意味が含まれているからです。私たちは先ず、多くの日本人形は子供のために作られたのではないという事実を説明しなければなりません。それらは鑑賞用であったり、大人たちが始めた特定の儀式に使われたりしたのです。


—— 日本人形の芸術様式は遠い昔から存在しているとのことですが、今回の展示会で紹介される様式が誕生した時代は。

平和と安定に支えられ、急速に繁栄する社会の中で発展した江戸時代です。裕福な世の中で、人々は人形を含めた芸術に興味を示し、それまで到達し得なかった様式を確立していきました。室町時代や桃山時代にも貴族たちが人形を取り上げましたが、それは非常に初歩的な未発達のスタイルでした。それが江戸時代に入ると、急速に別のスタイルへと発展します。私が思うに、人形文化は江戸時代に絶頂期を迎えたのです。その後、人形の価値は減少し続けています。現代の人形アーティストは不快に思うかもしれませんが、その原因は時代文化に共鳴する姿勢の欠落だと思うのです。芸術的手腕を備えた現代の職人が素晴らしい人形を持ってきても、私は敬意を表しつつも、彼らが行っていることと過去に行われたことに同義性を感じることができないのです。西洋のテクノロジーが紹介され、無色油状のアニリン染料の登場や製造過程の変化により、人形の存在意義に違いが生じたのだと思います。アンティーク人形には時代、様式、技術、材料などが影響します。それは時間を逆行してまろやかに熟成し、私が敬愛する品質を与えられていきます。そして、ほ のかでありながら、他では認められない個性が生まれるのです。


—— 日本人形の素材は何ですか。
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Ningyo with mechanical features, such as this gosho-ningyo, have moving arms that allow raising its mask. Photo by Lynton Gardiner


基本的な材料は木、絹、胡粉(ごふん) の3つです。木は形を削られることで彫刻が施され、基本的な本体が現れます。絹は本体を飾るために使用されています。錦、合成織り、紗(しゃ)、絽(ろ)などの様々な織物技術が用いられていますが、日本の織物ほど優れた技術はありません。最後に、牡かき蠣の貝殻を粉状にした胡粉を動物性接着剤(にかわ)と混ぜ合わせて使います。これを表面に塗り付けると、乳白光のような磁器の艶(つや)を出します。胡粉は中国より輸入されましたが、私は遥かシルクロードの向こう、ペルシャが発祥の地ではないかと推測しています。胡粉は漆うるしの技術と同じで、ブラシで本体に何層も塗り重ねます。動物性接着剤が立体感を出す可塑度を高めることから、小さな塑造物にも使用されるようになりました。中には、表面が木の彫刻ではなく、胡粉をそのものを繋ぎ合わせて作られたものもあります。胡粉は非現実的な世界を創造し、白く光る表情は日本人形の大きな特徴となっています。しかし、このような絶世の美を創り出す一方で、とても脆いという欠点もあります。本体の木は膨張性や伸縮性があるのに対し、塗り重ねられた胡粉はそうではありません。そのため、整えられた環境の中では何百年も保つことが可能ですが、熱や湿気などで木の伸縮が起こると割れ目が生じます。また、水で磨くと胡粉が剥がれてしまいます。

これは有名な女性コレクターの話ですが、彼女の幼少時代、同じように人形コレクターであった父親が御所人形を持ち帰り、家族全員が大喜びしたそうです。それは高価な作品で、彼らの家にふさわしい美術品として絶賛されたといいます。彼女の弟は家族が喜んでいる様子を目にして、その汚れている人形を綺麗にしてやろうと思い、人形をお風呂に入れ、注意深く且つ愛情を込めて洗い上げたのです。そして、家族の前で鼻高々に、胡粉が剥がれてしまった人形を差し出したというのです。人形を目にすると、人は直感的にその汚れを拭き落とし、輝かせたいと考えます。でも、そうすることで胡粉を瞬く間に落としてしまいます。陶磁器のように扱うことはできないのです。“ありのままの姿”を楽しまなければなりません。


——人形に超自然力や霊的な力があると考えられていたのは本当ですか。

先程も述べたように、人形は日本の先史時代から儀式や礼拝などで使用されていたと言われており、今でも浄化の目的で人形を焼く儀式が残されています。今回の展示会では、その例として赤い人形を紹介します。これらの人形は特に稚児を発疹性の疾病から守るために用いられていたものです。赤い色は病気を引きつけ、吸引すると考えられていたのです。当時の人々は、天然痘やはしかの疱瘡神(ほうそうがみ)が乗り移った人形を保持することを嫌って廃棄していたため、これらの人形は今ではとても貴重な存在となっています。また、「天児(あまがつ)」や「這
(ほ うこ)」という人形は、出産や子供の成長のための魔除けやお守りとして使われました。男子は成人するまでその人形を携えて、後に伝統的な方式で焼き、女子は生涯その人形を保持していました。「依代(よりしろ) (神霊が招き寄せられて移るもの)」という概念があり、一時的にしろ、人形はあらゆる種類の霊が宿る場所と考えられていたのです。


—— ご自身が日本人形に深く関わるようになった経緯は。

私は普通でない事柄を好みます。人に知られていない、先の見えない旅が好きです。例えば、私が理解できないものを発見した時、先ず人に尋ねます。そして、その人も答えを知らない場合、それがとても魅力的に感じられてしまうのです。私が初めて日本人形と出会ったのはシアトルの骨董屋でした。シアトルでの最初のパートナーは日本の古美術商人で、私たちは何度も日本を訪れました。日本に滞在中、彼が仕入れをしている間、私は周囲に質問ばかりしていましたが、誰も答えられなかったり、もしくは受け売りのような答えばかりが返ってきたのです。やがて私は 「彼ら自身も詳しくは知らない」 という現実に気付きました。人はあることに関して知識がない場合、それを上手くごまかそうとします。そして、ディーラーと呼ばれる職業の人々はそれに長けているのです。彼らは作品にまつわる裏話を作り上げます。それは優れたセールス技術ですが、必ずしも事実がベースとなっているわけではありません。

こうして私は日本人形に興味を持ち始め、認識を高めていきました。そして、雑誌「DARUMA」(外国人向けに日本の芸術や古美術を紹介する英文誌)編集部とも親交を深めるようになり、日本人形についての執筆依頼を受けるようになりました。私は既に自分のやり方で資料を集め、調査を進めていましたが、この執筆活動を通して、より秩序立てて組織的に調査するようになりました。最初は男子の端午の節句について、次は雛祭りについてというように、1つの記事が別のテーマを導いていきました。ある時点で、私はそれを1冊の本にまとめることを思い付いたのです。周りを見回しても 「それを行うのは私以外にいないのではないか」 という自負がありました。著書の出版は方向づけられていたものの、それを実現させる条件が私には必要でした。


—— それは何だったのですか。
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Some ningyo transcend their wood, silk and gofun. If you listen closely̶you can almost hear this isho-ningyo laughing. Photo by Lynton Gardiner.


ある意味ではそうでしたね。人形の姿を見つめて、私たちに語りかけてくる話に耳を傾け、過去の記録にも目を通さなければなりません。私にとっての貴重な情報源は錦絵以前の白黒の線による古い木版画でした。家や店の中で祭りの一部として人形を陳列していた様子を見ることができます。また、1600年から1700年にかけての木版画からは、特定の人形様式が誕生した起源を知ることもできます。木版画家は当時の日常生活の優れた記録者でもあったのです。今日の私たちも、これらの情報を利用することや、木版画を見ることで日本人形をより理解することができます。

ここ4、5年の間、私は1か月置きに日本を訪れています。仕入れと同時に、より多くの情報を集めて研究を進めているのですが、日本語にしろ英語にしろ、日本人形について記された本は極く僅かです。可能な限り情報を渉猟しなければ、伝えたい内容をまとめることはできません。私は専門分野に詳しい学芸員や、日本人形に情熱を捧げる蒐集家などの人々と話をしました。彼らは見識に優れ、本に書かれていない多くの物語を知っていました。同時に、私は古文書の記録もひも解いています。その一部は、江戸幕府の日本人形に対する法規に関するものでした。人形の世界を解釈するために史料を読み解いて翻訳する作業も必要でした。人形の世界に深入りする度に、私はさらなる情熱を掻き立てられていきました。現在の熱狂度は最初の頃とは比べものになりません。私は謎に満ちた対象を探り、それを発見した時、より興味をそそられるのです。その謎は日本の芸術や文化を愛する人によって解き明かされていきます。謎の一片を集めることが、私たちを魅力的な江戸の庶民文化の世界へと誘いざなってくれる手掛かりとなるのです。



—— 日本人形は独特のスタイルで時代文化を反映したということですか。

その通りです。映し出すという意味の「反映」という言葉を使われたのは興味深いことです。なぜなら、日本語での「大きな鏡」という言い回しは、平安時代に芸術や歌が文化に与えた影響を記した歴史物語の題名(『大鏡』)でもあるからです。私は本のタイトルをそこから連想して「日本人形の大鏡」とするつもりでした。そして、広告には「江戸文化の反映」と謳いたかったのです。日本人形は日本の文化や歴史の探究にレンズのような役割を果たす̶̶という概念が常に私の頭の中にありました。それは、社会学、文化史、自然史、織物、文化、政治に至るあらゆる範囲に渡るものです。これまでの経験から、私は日本人形を通して日本文化のトピックを論述することができます。それらは論理的には人形との関連は無いように思われますが、私には説明が可能です。


—— ここにある 「友情の人形」 について説明して下さい。
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This“Friendship Doll”, from 1927, was one of only 58 ever created as gifts from Japan to each of the 50 states and select museums. Photo by Lynton Gardiner.


これは1927年に海を渡ってきた「ミス関東州」あるいは「ミス満州」と呼ばれる人形です。私の専門とする時代の枠を外れていますが、当時58体が製作されて、現在44体のみが存在しています。これらはとてもユニークな物語を秘めた貴重な人形です。

1920年代のアメリカでは反アジア人感情が高まり、移民を制限する法律が制定され、多くの公民権が抑圧されました。そんな社会情勢の中、聖職者シドニー・ギューリックは日米両国の理解を深めて協調の精神を促そうと、アメリカの生徒たちが縫い上げた12,739体の「青い目の人形」を日本の生徒たちへ送るという運動の先頭に立ちました。そのお返しとして、日本から「友情の人形」と名付けられた58体の市松人形が届いたのです。人形は有力美術館のほかに各州に1体ずつ渡されました。各人形には「ミス関東州」「ミス満州」というように、日本の主要都市、地域、植民地の名前が付けられていました。これらの人形は第二次世界大戦の開戦までは好意的に受け入れられ、一般向けに展示されていました。やがて、戦争が始まると人々の関心が失われ、全ての人形は取り払われました。ここに残るその1体は、最初に迎えられた場所からは遠く離れたニュージャージー州の「蚤の市」あたりで発見されたものです。幸運なことに、蒐集家がこの人形の存在に目を止めて救い出したのです。


—— この意義深い人形さえも評価されない現実に遭いながらも、ご自身が胸に抱いている希望とは。
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Alan, alongside the exquisite bunraku-ningyo. Ningyo such as this were puppets, with moveable heads, hands, eyes and eyebrows


これらの人形だけが西洋で見落とされているのではありません。日本にも過少評価されている作品が数多くあります。日本文化の要である京都や東京でも、日本人形にはあまり関心が寄せられていません。展示会、研究、記録保存などの活動も僅かです。

私は自著の出版と「NINGYO展」開催により、学術研究者と芸術界に喚起を促したいと思っているのです。彼らは先に述べた事実を問題にしなければなりません。私が投げ掛けた論議に対して、日本人の専門家たちがどう反応するのか興味津々です。私の今後の具体的な目標としては、日本人形という特殊な芸術様式に対する認識と知識を深めていくということです。日本のアニメのようにポピュラーになるという幻想はありませんが、私が望むのは「人形」という言葉がより深く理解され、広く一般に認識されることです。勿論、それが日常で使用される“馴染み言葉”になるとは思いませんが、特に組織的レベルにおいて、アジア芸術を取り扱う美術館では定期的に日本人形の展示会を開催してほしいと願っています。

少なくとも、これらの美術館は日本人形を所蔵すべきです。日本人形の芸術的価値に敬意を払い、公共に向けた使命として紹介できる知識と意欲を持つべきなのです。美術館の目的は社会を教育することであり、教育には正しい評価と鑑賞力を必要とします。そして、理解することが正しい評価を生み出します。私は今、これらの素晴らしい作品の仮の管理人であると考えています。それぞれの人形は300年もの歳月を生き延びてきましたが、私が個人的に永続的な保管を試みても限界が出てきます。永く寿命を持ち続けてほしいこれらの人形を、私は一時的に預かっているのです。



アラン・ペイト ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

アメリカを代表する日本人形の研究家。”NINGYO: The Art of the Japanese Doll”の著者で、2005年6月から2006年1月にかけてサンディエゴの民芸国際美術館で開催されている同タイトル展示会を担当する客員学芸主任。 1988年韓国・ソウルの延世大学で韓国語を専攻。1990年ハーバード大学で東アジア研究の文学修士号を取得。プリンキピア大学でフランス語と歴史学の 学士号も取得。日本人形に関する講議で全米を巡り、京都なども訪問。ラホヤのアジア古美術店 「L’Asie Exotique」 の元共同経営者で、現在は江戸時代の日本人形を専門とするギャラリー「赤鼠屋」を経営。日本人形や展示会についての詳細は http://www.mingei.org または htpp://www.akanezumiya.com まで。
※”NINGYO: The Art of the Japanese Doll”展示会の案内は本誌(2005年8月1日号)「美術・歴史」欄(P.32)を参照。


  (2005年8月1日号に掲載)