—— サンディエゴで長年大リーガーとして活躍された後、再び戻ってきた今の気持は。 悪くないですね。私が現役時代に最高のシーズンを過ごしたサンディエゴに帰ることができたのですから、とても幸せです。この仕事を引き受けたのも、それが一つの理由でした。自分がかつて成功を収めた場所で、今度は新しいゴールデン・ベースボール・リーグ ( 以下、GBL) を通して再び人々と触れ合い、野球への情熱を分かち合いたかったのです。 ——新リーグGBLについて紹介して下さい。 新設されたGBLは独立した野球のプロフェッショナルリーグです。カリフォルニア州とアリゾナ州に8チームを抱えて、サンディエゴ州立大学キャンパスにあるトニー・グウィン・スタジアムで5月から9月にかけて90試合が予定されています。ほとんどの試合はナイトゲームですが、日曜日はデイゲームも開催されます。8チームのうち1チームは日本から参加する「ジャパン・サムライ・ベアーズ」で、全ての試合を敵地で戦います。GBLのもう一つのユニークな特徴は連盟が全チームのオーナーであるということ。つまり、あらゆるエゴを排除して、チームに最も適した方法を追求することができる点です。GBLは単なるゲームというだけでなく、それをエンターテイメントとして提供します。 —— サンディエゴ・サーフドウグスのホームであるトニー・グウィン・スタジアムでは、その名が付いたトニー・グウィン氏がSDSUで監督をしていますが、お二人はパドレスで長年の良きチームメイトだったのですね。 その通りです。あまり知られていませんが、入団した当時のトニーは平均的な野手でした。ところがその後、彼は何度ゴールドグローブを受賞したでしょう…10回です! 彼は優れた外野手に成長したのです。打者としての活躍ぶりは説明するまでもありません。彼はゲームや投手について学ぶべき点があったものの、バッティングに関しては安打製造機と呼ばれるほどの天才でした。全ては彼の惜しまぬ努力から生じた産物です。彼は毎日早くから打撃練習に取り組み、私の覚えている限りでは素振りの練習に余念がありませんでした。 —— パドレス、カーディナルス、オリオールズ、ジャイアンツなどのチームで活躍されたご自身が、GBLやサーフドウグスに関わるようになった経緯は。 昨年、私がドジャーズ傘下にあるマイナーリーグの3Aチームに所属していた時、GBLの選手人選担当ニック・ベルモンテから誘いの連絡が入ったのです。私は最初はあまり乗り気ではなく曖昧に応対しましたが、とにかく話を聞くために連盟の事務所へ向かったところ、意外にも1日で契約書にサインする運びになりました。私は彼らの運営姿勢に感銘を受けたのです。連盟が全チームを所有し、MLBのナショナルリーグのルールに従うという2点が気に入りました。 ——サンディエゴ・サーフドウグスでの役割は。 私はサーフドウグスの監督であり、二軍チームの管理者でもあり、他にもスカウト、PRと何でもこなします。全てが楽しい仕事です。私はこうしてリーグや選手たちについてのインタビューを受けることも楽しんでいます。世間ではGBLに対して疑問視する向きもありますが、懸念は直ちに払拭されるでしょう。皆さんが野球観戦に訪れた時、私たちを見て一目瞭然に理解に及び、誰でも楽しむことができるはずです。野球が備えている美点は、どんなゲームにも人を惹き付ける力があることです。監督としての私には、今まで体験したことのなかった全てをコントロールする権限があります。大リーグ傘下のチームには常に上層部が存在し、人選についての発言力を専有していました。第1、第2、第3候補で選択された選手がいれば、彼らは実力相応であろうがなかろうがプレイすることが可能です。でも、このリーグでは私の考え方と選択権が優先されます。それ以外の面では、私が所属していた大リーグ機構と同じです。チームにはあらゆる種類の選手が集まっています。契約を交したばかりのリッキー・ヘンダーソンのように大リーガーとしての名声を確立した者もいれば、経験の乏しい無名選手も含まれています。現在、キャンプには31名が参加し、各選手が24名の選手枠を目指しています。その中の15名に対して私は良い印象を抱いていますが、残りの枠に誰が選ばれるのか見当がつきません。登録選手を決定するには厳しい選考を要します。ここでは確実な約束や取引などは存在せず、純粋に野球の実力に基づいて選ばれるのです。 —— 野球一筋の人生を歩んでこられたのですね。 ええ。しかし、始めの頃は今とは違った野球への接し方をしていました。当時の私は名声を得る手段として野球を考えていたと思います。その意味では、今の方が思い入れは深いでしょうね。昔の私は金銭欲はありませんでしたが、ただ優れた選手になりたかったのです。脱落することだけを恐れていました。 —— 誰もが子供時代に野球を楽しんだ経験があると思いますが、少年たちの夢である大リーグで活躍し、しかもオールスター戦やワールドシリーズにも出場していますね。 私は幸運だったのです。実際に体験するまで、それが如何なるものか理解することはできません。何に例えようもないからです。私たちは選手として最大限の世話を受け、試合に臨むことだけが与えられた仕事でした。選手として金銭的余裕が出た頃には、全てが無料で手に入るという奇妙な体験もしています。大リーグとは野球至上のリーグであり、そこでの仕事は試合に勝つことだけです。出場したオールスター戦を振り返ると、あの時代が私の現役としての最盛期だったと思います。ほとんどのプロのアスリートがそうであるように、野心を抱いてゴールへ向かう時にはその努力に見合った成果を期待します。その意味でも、オールスター戦に選ばれたことは天にも昇る気持でした。そして、クラブハウスへ足を踏み入れて他の選手と対面した時、如何にオールスターチームが優秀な軍団であるかを身をもって知りました。一流の選手を初めて目の当たりにして「これはスゴい!」と思ったものです。私が初めて出場した1981年のオールスター戦ではゲイリー・カーター捕手がMVPを獲得しました。彼は開催地クリーブランドで2本のホームランを放ち、ヴィダ・ブルーが勝利投手になったと記憶しています。 —— お父様も大リーガーとして活躍されたと聞いています。二人でワールドシリーズも体験している素晴らしい親子ですね。 10年前までは、私たちがワールドシリーズに出場した唯一の父子だったと思います。問題は彼はシリーズを制覇し、私は二度までも苦杯を舐(な)めたということです!(笑)。父は1948年の強豪クリーブランド・インディアンズに所属していました。このチームは7人の野球殿堂入り選手を輩出しています。父はインディアンズ時代は外野手、ホワイトソックスでは三塁手として活躍しました。父と時代を共にした往年の選手たちが言うには、父は素晴らしい強肩の持ち主だったということです。 私はその話の真偽を確認していなかったのですが、多くの人に聞いて回ったところ、皆が口を揃えて「父が誰よりも優れていた」と言い切るのです。是非、彼のプレイをこの目で観たかったのですが、私は彼が引退した翌年に生まれているので、その願いは果たせませんでした。 —— 親子でよく野球の話をしたのですか。 それは勿論! 私は安打数や本塁打数などの記録で父を越える度に毎回電話したものでした。そして私が「やったぞ!」と言うと、父は「それはやるべきことだろう?」と反応してくるのです(笑)。私は父に強い尊敬の念を抱いていました。父は16年間選手として活躍し、引退後に監督となりました。自身のチームを結成して選手を育成することはありませんでしたが、その点を除いて野球全般に関わってきた人でした。父に関する逸話は信じられないほど多く、1冊の本が書けるほどです。私が子供の頃、父はオークランドで監督を務めていました。父はいつも私を大スターたちに紹介する機会を作ってくれました。今でも、フランク・ロビンソン、ブルックス・ロビンソン、ミッキー・マントルとの出会いを覚えています。私はゲーム開始直前までユニフォームを着て球場に居たものです。そして、当時活躍していたほとんどの選手と知り合うことができました。それは素晴らしい体験でした。 ——人生を野球に賭けようと決心した時期は。 14歳の時です。それから猛練習を繰り返し、高校生になる頃にはまずまずの実力を備えていました。しかし、高校を卒業してもドラフトには指名されませんでした。その後15ヵ月間で私の野球の腕前は急速に上達しましたが、田舎者だった自分には何も起こりませんでした。そこで、私は野球以外の分野も学ぶために大学へ進んだのです。そして、漸くドラフト6位指名を受けて、最初のラウンドでカーディナルスへの入団が決定しました。 —— お父様から貴重な指導を受けたのでは。 父は常に私の側に居てくれました。私が培った知識の90%は父から得たものであり、私の野球人生を深めてくれたのも父でした。そして、カーディナルスに入団した私は、父に匹敵するような優れた指導者と出会うのです。当時、フィールドコーディネーターを務めていたジョージ・キセルは野球のことなら何でも知っている博学者で、私は彼の指導から多くを学びました。 —— 野球選手としてご自身は体力派でしたか、それとも頭脳派。 言うまでもなく、私が野球人生を全うできたのは頭の働きによるものです。例年、私は準備万端にしてキャンプ開幕に臨んでいました。4~5月のシーズン開幕当初は絶好調で先発選手として溌剌(はつらつ)とプレイし、その後に少し低迷期を迎え、終盤になって再びエネルギーを取り戻したものでした。捕手は重労働のポジションで足に負担が掛かります。現役最後の数年間に私を悩ませたのがそれでした。 —— 野球人生の中で転機となった時期は。 カーディナルス時代のチームメイトで好人物だったルー・ブロックが「いつの日か試合を通して、ここは確かに自分の世界だと感じる時が来る」と言ったのです。それを実感した試合を特定することはできませんが、定期的に出場はしなかったものの、初のフルシーズンを過ごした1980年には「勝てる能力」が自分の中にあることを確信していました。 —— プロフェッショナルのレベルでも野球を楽しんでいましたか。それとも、勝利に対するプレッシャーに圧倒されていた…。 私はいつも楽しんでいました。それも、9回の最終回ギリギリまで。歳を取るにつれて、家族と離れ離れとなるロードが辛くなりましたが、試合自体は常に楽しいものでした。まるで自分自身が大きな子供のように思えたものです。その思いは、ここサンディエゴでも同じです。私は今も昔も変わることなく野球を楽しんでいます。サーフドウグスの監督という立場でもそれは不変です。 —— クアルコム・スタジアムで場外ホームランを放った唯一の人物と聞いています。 それはホームランコンテストでの出来事でした。デール・マーフィーと私の打席が1回ずつ残っていたのです。私はバッターボックスに立ち、バットを振ると確かな手応えを感じました。打球は球場の支柱とスコアボードの間を抜けていったのです。 —— それは自慢できることの一つなのでは。 冗談を言わないで下さい。ホームランコンテストの出来事など誰も覚えていません。それが試合中の出来事であれば事情は違っていたと思いますが。 ——選手として活躍した経験は監督業に役立ちましたか。 選手時代は常に試合に出場していましたから、「なぜ私たちがそうするのか」とプレイについて熟考する時間がありませんでした。野球人生の後半にそれを考えるようになった私は勉強を始めました。先発選手は試合をすることに必死で、他のことを行う時間が無いのです。そんな理由から、引退後に控え選手が先発選手よりも優れた監督として出現することがあります。彼らは座して観戦しながらゲームの分析を行う余裕があるからです。同時に、私たち捕手も監督業に向いています。バント処理、走者を塁間で刺すランダウン、送球の中継プレイなど、あらゆる面で他の選手よりもゲームの基本的な部分で実戦的に経験しているからです。私が引退した13年前、自分が再びこの世界に戻ることはないと誓ったものです。それが1年間休養して学校へ戻った後、再びフィールドへ帰ってきました。現役時代にコーチや監督が私に与えてくれた恩恵に対して、野球界に何もお返ししないというのは自己本位すぎると思ったのです。 ——ご自身はいわゆる実践型の指導者ですか。 そうです。私は打撃コーチになることも考えていましたが、ダン・チョロウスキーが担当することになりました。彼はカーディナルスの系列チームに所属して私の下でプレイしていました。守備全般は私が指揮します。私にとって守備力は最も重要であり、基本となるものです。また、投手コーチにはラリー・オーウェンズが就任します。選手を指導しながら彼らの成長を見守ることを今から楽しみにしています。特に、新人選手に対する私の洞察力が試されることになります。彼らを使いこなせるか否かで私の評価が明らかになるでしょう。 ——GBLではコーチや選手たちがファンにとって身近な存在となるのでしょうか。 ええ。それがGBLの顕著な特徴として認識されていくでしょう。新人選手はこの路線に馴染みやすいと思います。というのは、大学野球でもそのような野球が要求されるからです。誰もがファンサービスに労を惜しみません。これは私たちのリーグで仕事をする場合の必要条件です。 ——GBLと日本とのコネクションについて教えて下さい。 日本からウォーレン・クロマティ監督率いる「サムライ・ベアーズ」がGBLに参加します。彼らはトラベリングチームとして敵の本拠地で戦い、その分、他の7チームがホームゲームを増やすことになります。聞いたところでは「サムライ・ベアーズ」はかなり手ごわいチームのようです。日本チームとの試合では、どの球場にも大観衆が押し寄せるだろうと予想しています。特筆すべきは、野球解説者/参議院議員として著名な江本孟紀氏が副コミッショナーに就任し、国際野球の推進者として尽力されることになり、GBLと日本の関係はより深まっていくと期待しています。江本氏は日本プロ野球での現役時代にオールスター戦に出場するほどの名投手であり、後に作家、TV・ラジオキャスター、俳優、政治家として活躍しています。彼はGBLに多大な影響力を及ぼす存在となるはずです。日本チームの参加は、アメリカ人に日本の野球スタイルを披露する絶好の機会だと思います。 ——GBLのチームで監督に就任した人々と現役時代に切磋琢磨されたのでしょうね。 チームメイトとして、そして敵として、私は多くの人たちと共にプレイしてきました。GBLが誇れる特徴の一つは、野球を熟知している最適の人材を各球団の監督に配していることです。彼らはゲームの醍醐味を知り尽くしていて、ファンの野球への視野を広げてくれます。ダレル・エバンス、ゲイリー・テンプルトン、マーク・パレント、レス・ランキャスター、オジー・ヴァージル、ベニー・カスティーヨ、そしてウォーレン・クロマティ… 彼らは野球の神髄に精通した人々なのです。 ——旧友、旧敵との対決を復活させる思いは。 私はテンピー(テンプルトン)やマーク(パレント)と一緒にプレイをしながら、エバンスを敵に回し、オジーとも何度も試合を行い、レスとは現役の最後に戦いました。私が実感しているのは、全員の実力が伯仲していて、誰もが全試合に勝利を収めようと挑んでくるということーーー。私にはGBLで白熱した試合が繰り返され、渾沌とした優勝レースが展開される様子が目に見えています。戦う意義がそこに存在しています。私たちは勝つために試合をするのです。 ——GBLが与えてくれる刺激的な魅力とは。 リーグが誕生したばかりで若いということです。私は新人選手がチャンスを手にして飛躍的な進歩を遂げていく姿を期待しています。私たちが適切な指導を行うことで彼らはチャンスの芽を膨らませ、結果を出してメジャーへの階段を登っていくことでしょう。有望な選手を育てることが私たちの目的です。選手を売り込み、彼らをより高いレベルへ押し進めていきます。このように成功していく選手がGBLから誕生するはずです。サーフドウグスへの入団が決まった地元出身の選手マット・ウィートランドには大いに期待しています。また、メジャー盗塁王のリッキー(ヘンダーソン)も入団が決定しました。彼らは野球界の新開地で何かを獲得することでしょう。選手たちが次のレベルに進むにしろ、そうでないにしろ、少なくとも彼らは孫たちに「私はプロフェッショナルの野球選手だった」と伝えることができるのです。このリーグは年月を重ねる度に発展していくと思います。 ——野球に全てを捧げてきたご自身が、別の人生を想像することはできますか。 今なら多分できるでしょう。でも、私を夢中にさせてしまう特別な力を持つ何かが必要です。私はスーツを着てオフィスで働くことが嫌いなのです。ボールパークは私にとって変わることなく快適な場所です。この先の人生で、いつ何が起きるのか知る由もありませんが、今の私が行うべきことはリーグや選手たちへの貢献に尽きます。私は自分自身の為にすべきことをほぼやり遂げました。これからは私が得た知識を次の世代へ伝えていきたいのです。 (2005年6月1日号に掲載) |