Tuesday, 10 December 2024

ゆうゆうインタビュー 古賀三郎

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彫刻家を志した理由とは。

私は 4 人兄弟の末っ子で、共働きをしている両親の下で育ちました。それほど裕福な家庭ではなかったので、カチカチの泥ダンゴや木の弓などの自分で作った玩具で遊んでいました。5 歳の頃から小刀を器用に使っていたと思います。こうした遊びの中で、モノを作る喜びというものを自然に身に付けていきました。小学 3 年生の時に長崎から横浜へ引っ越したのですが、転校先の工作の授業で描いたポスターの構図が良いと先生に褒められ、その日以来、机に絵を描いたり、鉛筆に彫刻をして楽しむようになりました。先生のあの一言が私を彫刻家にしてくれたのだと思います。


——アメリカとの接点とは。
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自分で作った玩具で遊んでいた子供時代 (1954年/ 3歳)


私の両親は長崎原爆の被爆者でした。長崎の方言でよく「きつか、きつか」(疲れた、疲れた)と言っていました。被爆者はガンになりやすいと聞いていましたが、父は肺ガンで21年前、母は子宮ガンで19年前に逝きました。終戦後、広島や長崎といった被爆地には長期に渡ってアメリカ軍が駐留していました。異国情緒が漂う長崎の街には、私が5歳になるまでアメリカ兵の姿がありました。当時の私は、今では信じられないほど色白で髪の毛も赤っぽい色をしていました。アメリカ兵は私のことをハーフだと思い込んでいたらしく、友達と一緒に歩いていると、私にだけに5円玉や10円券をくれたんです。当時の10円といえば大金で、父親に「どこで盗んできたんだ」とよく怒られました。造船技師だった父親の日給よりも稼いでいたかもしれません(笑)。子供ながらも、身振り手振りでアメリカ兵と上手く会話をこなしていましたね。英語のリズムや抑揚が好きで、洋画のセリフをよく真似していたのです。お陰で、中学の英語の授業では発音が良いと先生から褒められました。


—— 彫刻家として本格的に歩み出した時期は。

知り合いの紹介で、中学3年の春休みに両親に連れられて、長崎在住の若手彫刻家・北村与八
(よ はち)さんを訪ねました。顔は「鬼瓦」を思わせる強面(こわもて)、頭は「大仏」のような天然パーマがトレードマークという強烈な印象の持ち主でした。高校は卒業しておいた方がよいという母親の願いもあって、一応は進学しましたが、「弟子になるなら早い方がいいぞ」という与八さんの言葉が頭から離れず、中学校の延長のような高校の勉強にも全く興味が湧きませんでした。「腕に技術を付けることは素晴らしい。日本は輸入した原料を独自の技術で製品化して、敗戦のどん底から這い上がってきた。モノを作ることはいいことだ。早い方がいい」という父の一声で、高校を3日で自主退学して弟子入りを決めました。


—— 修業生活の様子を教えて下さい。

35歳の熱血師匠に弟子入りした15歳の1日はとても長く、分刻みのスケジュールで動いていました。午前6時起床。掃除、市場へ買い出し、朝食の準備に後片づけ、そして8時半から仕事。昼も夜もおさんどんに明け暮れ、就寝前にデッサンの勉強をしていました。師匠は手を取り足を取り…なんて教えてくれません。 単純にマニュアル化できないから、見習いは文字どおり「見て習う」ほかに方法が無いのです。師匠の手先の動きや道具の使い方をひたすら見ていました。3か月目にいわゆるホームシックに罹りましたが、「モノ作り」の楽しさの力が勝っていたので脱走せずにすみました。月に2日の休日はありましたが、実際のところ散髪と洗濯以外は何もできませんでした。5年で年季が明け、師匠から特注の彫刻刀一式200本とスーツを頂きました。翌年からは「職人」の扱いで「お礼奉公」をさせてもらい、僅かながらも月給を頂けるようになりました。


——渡米を決意した経緯は。
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横浜で開催された路上パフォーマンス (1973年/ 22歳)


1972年に21歳で彫刻家として独立し、横浜を拠点に活動を始めました。全国の寺院や民家からの注文彫刻、そしてアクセサリー製作などを手掛けていました。そんなある日、「アメリカはでかいぞ、カリフォルニアの空は色が違う」と、ライオンズ・クラブの関係で海外を飛び回っていた知人の画家からアメリカ行きを勧められたのです。「ヒッピー」「ウッドストック」「ピーコック革命」「いちご白書」などの世相が日本にも伝えられて数年が過ぎていましたが、ギターを片手にフォークソングにもハマっていたことから、彼の言葉でアメリカがグッと近くに感じられたのです。そして、自分の彫刻でどこまでやれるか、可能性を試したくなった私は1976年に休暇を兼ねてロサンゼルスへ渡りました。でも、仕事の当てがあるわけでもなく、飛び込みで日系の建設会社に出向き、自分の作品の写真を見せながら営業に精を出しました。すると、ある社から「こんな立派な彫刻を購入してくれる家は紹介できないが、何か仕事はあるかもしれない。ここで働いてみないか」と、思いがけない言葉が返ってきたのです。そして、半年後に改めて渡米することを約束して私は会社を後にしました。その私を日本人の社員が追いかけてきたのです。話を聞いていたというその男性は、仲間同士で会社設立を考えていることを私に告げ、一緒に働かないかと誘ってくれたのです。 物件を購入して内外装に彫刻を施し、個性的な住居を作り上げる会社の方針に魅力を感じてその仕事を選び、半年後に改めてロサンゼルスにやって来ました。


—— 渡米後のエピソードを話して頂けますか。

1977年に再渡米した直後、あろうことか、その日本人男性の姿が消えてしまったのです。彫刻で身を立てると言っても、先ずは生活の糧を得なければならないので様々な仕事をしました。弁当屋さん、ブロンズ像製作所、寿司職人、観光ガイド、彫刻教室、リムジンの運転手、歯科技工士…等々。

映画俳優としてスティーブン・スピルバーグ監督の作品に出演したこともありました。真珠湾攻撃直後に、カリフォルニア沖に突如浮上する大日本帝国の潜水艦を描いた『1941 (いちきゅうよんいち)』というコメディ映画で、当初は三船敏郎さん率いる日本艦隊乗組員のエキストラとしてオーディションに合格したのです。ところが、私があまりにも目立ってしまったようで、スピルバーグ監督の意向で俳優として契約してもらえるという幸運に浴したのです。上水兵(潜水艦乗組員)としてセリフももらい、1日65ドルだった報酬は1週間850ドルになりました。撮影は2か月に及びましたが、とても貴重な経験をさせてもらいました。その後、ツアーガイドの仕事もしましたが、ハリウッドの経験を活かした観光案内はすこぶる好評でした。


—— ご自身に影響を与えた人物は。
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羽田空港からアメリカに向けて出発 (1977年/ 26歳)


10歳の頃でしたか、小学校の通学路の途中に建築中の立派な屋敷がありました。そこを通る度に、床柱の部分に鉋かんなをかける大工の姿を目にしたのです。鉋から魔法のように出てくる鉋屑。ぷーんと立ち上る木の香り。空くうに舞った鉋屑をすっと左手で払う大工の仕草と心意気がとてもカッコよく見えて、「これって粋いきだな…」と思えたのです。毎日その場所を通るうちに、次第に棟梁と仲良くなり、木屑や鉋屑をもらうようになっていました。その切れ端でいろいろなモノを作りました。棟梁は私に「木が新しいエネルギーに変化する」「木は切られても新しい生命を得て生き続ける」ことを教えてくれました。あの棟梁から学んだ木の素晴らしさを私も誰かに教えたい…という気持ちが常に心のどこかに宿っているのです。


—— 「木と癒しの関係」について説明して下さい。

多くの人が「鉄は強い、木は弱い」とイメージで決めつけていますが、これは誤りです。鉄筋コンクリートの寿命はせいぜい100年程度。一方、大自然から生まれた木は「生かして使えば」500-1,000年は朽ちることがありません。湿気があれば膨張し、乾燥すれば縮み、木はどんなに細かく刻まれても生き続けます。何気なく周囲を見渡しただけでも、椅子、テーブル、鉛筆、箸、爪楊枝(つまようじ)などが目に入ります。これほどまでに人間と密着している資源は他にありません。頑固な硬い木、馴染みやすい軟らかい木、筋が通っている木、ひねくれて歪曲している木など、その性格も様々です。そんな人間的とも言える木の温もりが人々に優しさや潤いを与えているのです。神社仏閣に代表される木造建築は、木に生命力を感じ、木と語り合い、木を愛し、大自然と共に生きてきた人々がいたからこそ誕生した日本の文化遺産です。


—— 開講された「マイ箸大作戦教室」とは。

これは「持ち箸運動」という資源保護キャンペーンです。 今、地球は重大な危機に直面しています。何と、1分間にサッカー場1面分の緑が伐採されているのです。このままでは今後50年間で地球上から全ての森が消えてしまいます。森は澄んだ空気を作り、雨も降らせてくれます。雨水は土中でろかされ、ミネラルを豊かに含んだ水を生みます。その一滴がやがて川となり、大海に注ぎ込んで海洋生物を元気に育むのです。そして、木は伐採されても生きて呼吸を続け、正しく用いれば数千年も私たちの生活を守ってくれる優れた力があります。その能力をどれだけ生かし、資源を大切にしていけるか。それが現代に生きる私たちに課せられた使命です。本格的に活動を始めたのは、 昨年、 マイ箸運動を行いながら日本全国を回っている「てんつくマン」こと軌保(のりやす)博光氏に会ってからです。 運動に対する彼の熱心な姿に心を打たれてしまいました。 「日本の文化である箸を皆がそれぞれに作り、レストランで食事をする際、 使い捨ての割り箸ではなく、自分の箸を持ち寄って食べましょう」と、マイ箸作り教室を通して呼び掛けています。


——最も気に入っているご自身の彫刻作品を挙げて下さい。

過去の作品全てです(笑)。「これぞパーフェクト!」という作品が無いからこそ、次の作品への創作意欲が湧いてくるのです。これからも「最高の未完成」を目指します。

そうそう、一つだけ特別な作品がありました。日本で私の父の葬儀が行われた時、火葬場に父の喉のどぼとけ仏が残っていたのです。アメリカに一度も来たことがなかった父でしたので 兄に頼んでその喉仏を連れて戻りました。その後、父にそっくりの顔の仏像を彫り、背中に穴を彫って喉仏を納めて、木で覆ってそこに戒名を彫り込みました。父の顔の仏像は戸棚に置き、毎朝水を替えながら「ありがとう」の言葉を繰り返し唱えています。

去年まで、私は「宝くじが当たりますように」とか「お金持ちになりますように」など、現世利益をもたらしてくれる願い事ばかりを仏像に託していました。今年からは「ありがとう」に代えました。実は、この簡単な言葉の中に込められた感謝エネルギーのパワーこそが絶大なのです。


—— ご自身が歌われた「NIKKEI音頭 」を紹介して下さい。
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スピルバーグ監督の作品『1941』に映画俳優として出演 (1979年/ 28歳)


浮き草のような自分がカリフォルニアの大地にしっかり根を張ることができたのも多くの日系人の方々に支えられたからです。年齢を重ねていくうちに、日系人の皆さんが居られたからこそ今の自分があることに気付いた私は、その気持ちを形にして残したいと考えるようになりました。昨年、日米交流150周年を迎えた際に、今日の日系社会の礎を築いてくれた日系パイオニアの方々に感謝する気持を託し、三世、四世、そして後世へと日系の歴史を語り継いで欲しいとの思いを込めて曲を作りました。それが「NIKKEI音頭」(歌詞4番まで) です。 作詞は作家の村上早人さん、作曲は私が担当しました。昨年10月には、様々な分野の方々による協力を得てCDも制作しています。

今年3月26日に開催されたジャパン・フィエスタ・イン・サンディエゴの公式テーマソングにも採用され、イベント当日、初めて私が公衆の面前で歌う機会が大舞台を伴って訪れたのです。生前は浪曲歌手だった父親の形見である衣装を身にまとい、魂を込めて歌いました。

明治大正昭和の時代
大志抱いて、唯一人
夢という字を 詰め込んで
海を渡った トランク一つ
泥をつかんで 作ってくれた
移民の歴史 ここにあり
あ~あ~ それそれ 日系音頭でドン!ドン!


—— 今後の夢は。
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サンディエゴで開催されたジャパン・フィエスタで「NIKKEI音頭」を熱唱 (2005年3月26日/ 54歳)


私は、この世の全ての現象がアートであると思っています。宇宙からのスピリチャルなエネルギーが森羅万象を支配しています。人間も宇宙の法則に組み込まれた存在であり、私たちの人生が必然の糸に紡がれているように思えてなりません。大自然 ̶ 地球 - 月 - ̶ 太陽 ̶ 大宇宙…全てが繋がっていて、それをコントロールしている力を「神様」と呼ぶのでしょう。全てを包み込む慈愛に満ちた悠然たる「気」を感じながら、私は彫り続けていきます。

木を彫るから「彫刻家」という枠に囚われてしまうのではなく、様々なことに挑戦し、総合的な芸術を目指すアーティストとして前進していこうと思っています。今後は趣味である音楽活動にも力を傾注していきたいですね。実を言うと、各県の方言と訛りによる県人会バージョンの「NIKKEI音頭」の作成依頼が多数寄せられているのです。ハワイやブラジルからも「NIKKEI音頭」を聞かせて欲しいとの声が上がっているのも嬉しいことです。今後はアメリカ国内に留まらず、世界中を飛び回りながら、日系人に対する感謝の気持ちを歌い続けていきたい ̶̶ そんな希望を抱いています。


古賀 三郎 (こが さぶろう) ・

彫刻家。1951年3月26日長崎市生まれ。15歳で彫刻の修業を始め、1972年に独立。日本全国の寺院や一般家屋の注文彫刻を手掛ける。1977年渡 米。1983年にロサンゼルスのアートフェスティバルで入選。1984年より3年に一度の彫刻展を開催。1987年に南カリフォルニア大学 (USC) にて講義および作品展示。1995年にファッションメーカー、LA FLORENCE社の専属デザイナーとなる。現在、数々の彫刻作品を発表する傍ら、ロサンゼルスとサンディエゴにて彫刻教室を開講。音楽活動にも携わって いる。現在、夫人と3人の子供(息子2人、娘1人)と共にロサンゼルス郊外のウェストコビナに暮らす。
お問い合わせは Phone: 626-912-0183、626-416-8995、Email: This email address is being protected from spambots. You need JavaScript enabled to view it.


(2005年5月16日号に掲載)
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