Sunday, 14 April 2024

ゆうゆうインタビュー マーティン L. イトウ

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北カリフォルニアのご出身だそうですが、ご家族がサンディエゴへ来られた時期は日系人が強制収容される以前のことでしょうか。

それより遥かに昔です。私たちは1927年以前からサンディエゴに住んでいたはずです。私にはエンカント地区の建物が流された1927年の大洪水の記憶が残っているのです。


——第二次世界大戦の開戦により、ご自身とご家族が収容された先は。

アリゾナ州ポストンです。父はモンタナ州ミズーラへ送られました。私たちはサンディエゴから汽車でサンタアニタへ向かい、そこからアリゾナ州ポストンを目指しました。ポストンへ行く前の数か月間、私たちはサンタアニタの馬小屋で暮らしていました。私は21歳の誕生日をその馬小屋で迎えています。


—— 当時、日系人としてカリフォルニアで生まれ育ったという事実が何を意味するのか、想像しにくいのですが。

私は日本語も理解できず、どうすることもできませんでした。国家の命令に従うか、さもなければ刑務所行きという状況に置かれ、選択肢は無かったのです。私たちは忍従に耐えて現実を受け入れました。アメリカ政府は日系アメリカ人のうち米国内で生まれた二世や帰化した一世の世代(ほとんど男性でした)を招集し、別々の収容所へ送り込みました。


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Pfc Martin L. Ito decked out in his dress uniform (above)... and in a lighter moment, (right) wearing his standard military issue boots and uniform.
—— ポストン収容所での生活はどのようなものでしたか。

とにかく暑かった!(笑)。私はじっとしているのが嫌だったのでトラクターの運転手として働きました。建物を造るために、仲間と一緒にセメントに混入する砂をキャンプへ運び込むという役目でした。私はグループの大工としても働きました。各グループには担当の大工がいて、物が壊れた時に修理をするのです。この仕事を機縁として本物の大工さんとも知り合いました。私たちはすぐ友達になり、彼はのこぎりやハンドソーの研ぎ方や手入れの仕方を教えてくれました。彫り物の仕方も教わりました。私たちは他にすることがなかったので、数多くの彫り物を作りましたね。ポストン第3収容所はコロラド川の近くにあり、私はグループ327の中にいて、川から約3~4マイル離れた地点で生活していました。トラクターで仕事をしながら、よく川辺へ向かいました。「柱を造るための木が必要」と言われていたので、川へ行くには正当化できる理由があったのです。


——本当の理由は何ですか。

釣りです! 私たちは川へ行ってトラクターに丸太を積んだ後、釣りを楽しんでいました。私は水泳は好きではなかったのですが、仲間の何人かは泳いでいました。川の対岸には陸軍のキャンプがあり、監視されていたので逃げることは不可能でした。とにかく、川を渡らない範囲であれば安全だったのです。その後、暫くしてコットンウッド(北米産ポプラの一種)でイカダを作りました。私たちはその木が通水性が高いという事実を知りませんでした。木々を束ねて、上手くいくか試そうということになったのです。


—— イカダで何をしようとしたのですか。

釣りのポイントに辿り着きたかったのです(笑)。魚が群れになって泳いでいるその場所は川岸からは届かないのです。イカダは川岸を離れて、次第に水の中へと入り込み、片側は沈み始めました。その時、私たちは対岸で砂埃(ぼこり)が上がるのを見ました。陸軍がジープで岸に乗りつけて私たちを待機している! どうやら、彼らは私たちが逃走を企んでいるとの疑念を抱いているようで、対岸から尾行していた様子なのです。私たちはイカダを岸に寄せて収容所へ戻りましたが、この行動については何も問われませんでした。


—— そういう状況の中で楽しみを見つけようとしたのですね。収容所で生涯の親友に出会えたという話も聞きますが、ご自身はいかがでしたか。

そうですね。収容所では本当に沢山の友達に恵まれました。その後、私が入隊した陸軍とは全く世界が異なっていました。


—— 陸軍に志願する前、ポストン収容所に滞在していた期間は。

1年強だと思います。その後、漸くアメリカ政府が日系アメリカ人の陸軍参加を承認したので、私も入隊しました。既に在ハワイの日系二世による第100歩兵大隊が組織されており、日系アメリカ人は信頼できるとのお墨付きをもらい、隊の規模が拡張されました。後に第100歩兵大隊は第442連隊戦闘団と合流するのです。


—— 日系人に背を向けた政府のために戦うことに不安を感じたことは。

日系人は親日派と親米派に分かれていましたが、それが問題になることはなく、別サイドの人々を意識することもありませんでした。私は自らの人生の中で、自分の欲するままに生きる道を選んだのです。他の人もその人なりに選べばよいのです。戦争に参加するか否かは自分が決めることです。あの時代を生き抜くのは大変なことでした。自家用車を始めとして、私たちが所有する全ての物は国家に没収され、1年もしないうちに「倉庫に保管できないので売却する」と伝えてきました。私たちは1941年型の新型キャデラックやトラックなど多くの資産を持っていましたが、それらが僅か600ドルで売却されたのです。私たちは全てを失いました。あなたならどうしますか? 陸軍に参加しなかったら、終戦後に私たちは何ができたでしょう。浮浪者になっていたでしょうね。対立することが不可能なら、参加するしかない̶̶。こうして私たちの多くは志願したのです。


——「参戦すれば同じアメリカ人として、良き市民としての証明ができる」という気持ちがあったのでしょうか。

より優れたアメリカ人でしょう!(笑)。ほとんどのアメリカ人は入隊しませんでしたから。


—— 入隊後の動きは。

61_2.gif私たちはミシシッピー州シェルビーのキャンプで訓練を受けました。それがどの程度の期間だったのかは覚えていません。3つの小隊があり、私は大砲歩兵の無線操作手でした。私たちの大砲は105mm榴弾(りゅうだん)で銃身が短く、迫撃砲と火砲の中間の飛距離に到達できるように設計されていました。迫撃砲は近い標的のみを狙うことができ、大砲はその先の目標を砲撃します。火砲は背後からさらに遠くまでカバーすることができました。大砲は地上のサポートに使われたため、大砲歩兵は必要に応じてどこへでも移動し、他の大隊や連隊に配属されることもありました。


—— 当時の名前、階級、認識番号は。

イトウ上等兵・3991416。これは軍隊用です。どういうわけか、私は兵営では床屋の手伝いをさせられていました。


—— 散髪の経験があったのですか。

あるものですか! そのうちに学びましたが…(笑)。髪を切ることは簡単でした! 必要なのはクリッパーだけですから。


—— 収容所では木材の伐採、新兵訓練基地では髪の毛を切るようになったのですね。

そうです。基地内の酒保(しゅほ=Post Exchange)には散髪屋がありましたが、そこではいつも長時間待たなければならず、誰もが隊内の床屋を利用したがりました。訓練中などに仲間が私の元へ来て「髪を切ってくれるか」と聞くのです。検閲の頃になると誰もが散髪を望みました。ある時、私は汚れた自分の制服を見て、「洗濯しなければいけないから、暫く散髪はできない。時間が無いから」と告げると、「髪を切ってくれたら、君の分の洗濯もするよ」と相手が言うのです。それ以来、私は再び自分で洗濯することはありませんでした。彼らは髪を切ってもらいたいばかりに、私の所へやって来て「どうやら、君の洗濯をしなければいけないようだ」と呟くのです。これで私は多くの雑用から逃れることができました。


—— 他の隊と比較して、訓練技術のレベルはどうでしたか。

トップレベルでした!(笑)。私たち全員には別々のプログラムが用意されていましたが、多少の差はあれ、皆同じことを教えられたのです。訓練も隊別に行われましたが、スコアは保存され、射撃練習場に優れた射手が何人いるのかも一目瞭然でした。標的への命中率の記録が伝えられて、比較されていたのです。


—— 射撃ではトップだったのですね。

訓練全般において優れていました!


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The proud men of the 442nd Canon Company.
——隊の愛称はありましたか。

第442連隊の愛称…? そうそう、私たちは「ブッダ・ヘッズ=仏頭」の呼び名で知られていました。ハワイの日系人たちは米国本土の私たちを「カトンク」と呼んでいました。パンクしたタイヤを見たことがありますか。それが回る時にカトンク、カトンク、カトンクという音を立てるでしょう。ハワイ出身と「カトンク」とはライバル的な関係にありました。


——今でも、陸軍や収容所の仲間と連絡を取り合いますか。

陸軍入隊後、私は孤独を好むようになりました。誰とも親しくなりたくなかったのです。というのは…(声が途切れる)…死体運搬用の袋があるでしょう。戦闘が始まるのを知っていながら誰かと親しくなり、もしも彼らが負傷した場合、どう対処すればよいのか…。仲間が負傷したり死亡する現実に直面するのは、本当に辛いことです。私は、とにかく友人を失うことに耐えられなかった。でも、残念ながら戦争とはそういうものでした。私にも相棒と呼べる友達がいました。私たちは背中合わせで一緒に戦っていました。しかし、戦場で友情に浸ってはいけないのです。また、私には妹の夫である義理の弟がいて、彼も第442連隊でした。彼はE中隊(パラシュート歩兵連隊のエリート部隊)に所属しており、私はいつも彼の身の上を案じていました。でも、私には彼を守る術(すべ)など無かったのです。


——第442連隊はどこへ上陸したのですか。

ナポリです。それからイタリアを通り抜け、北方のフランスへ向かいました。ほとんど歩き通しでした。


——初めて戦闘を目の当たりにした時を覚えていますか。

初めての戦闘経験ははイタリアを北上中に砲撃を受けた時です。盆地に差し掛かった所に交差した2本の道と家屋があり、私たちはそこで昼食のために立ち止まったのです。その様な場所を決して選ぶなと教えられていたのですが…。敵からは格好の標的になり、大砲の狙いを定められてしまう危険性があるのです。その時の私たちは、横に小川の河床があり、食事には良い場所だと思ったのです。皆でトラックを隠し、大砲を木の下に置いて食糧を広げました。誰もが自身の携帯用食器セットを持っていて、多くの者はヘルメットを逆さにして座り、お尻が泥だらけにならないように椅子の代用にしていました。私たちは辺りを動き回りながら食事の準備に掛かっていたのです。すると突然、ジ、ジ、ジ、ドーン!という轟音が聞こえて、誰もが地面にうつ伏せになりました。食器を頭に乗せてヘルメット代わりにしている者もいました。直ちに避難用の穴を掘らなければならないのに、シャベルはトラックの中にある…。私たちはスプーンを使って必死に掘りました。これが初めて私たちが砲撃を受けた瞬間であり、重大な経験となりました。


——それは鮮明な記憶として刻印されている出来事なのでしょうね。

簡単に忘れることはできません。その後、私たちは二度とその様な場所に留まることはありませんでした。このように、私たちは全てを現場で迅速に学ぶ必要がありました。正直な話、そうせざるを得ないのです。最初の戦闘では死傷者が出なかったことが幸いし、後になって笑い話の一つとなりました。


——旧友、旧敵との対決を復活させる思いは。

私はテンピー(テンプルトン)やマーク(パレント)と一緒にプレイをしながら、エバンスを敵に回し、オジーとも何度も試合を行い、レスとは現役の最後に戦いました。私が実感しているのは、全員の実力が伯仲していて、誰もが全試合に勝利を収めようと挑んでくるということーーー。私にはGBLで白熱した試合が繰り返され、渾沌とした優勝レースが展開される様子が目に見えています。戦う意義がそこに存在しています。私たちは勝つために試合をするのです。


——第442連隊には攻撃時の号令があったのでしょうか。

「ゴーフォーブローク!(一か八かやってみる)」でしたね。戦闘中、こちらが準備万端なのに対して、敵の連携が崩れ始めて少しずつ後退を始めた時に勝機が訪れます。その時、誰かが「ゴーフォーブローク!」と叫び、全員が即座に突進します。その瞬間を躊躇(ちゅうちょ)すると、敵陣は態勢を立て直して突破がより困難になります。一旦通り抜けると成功です。突撃の際は、誰もが無我夢中になっていました。


——死に直面した瞬間はありましたか。

私たちがより遠くへ進軍するにつれて、さらに多くの戦闘に巻き込まれていきました。ある時、我が隊はアルノー川沿いを進んでいましたが、仲間の一人に望郷の想いが人一倍強い男がいたのです。彼は塹壕を掘る際、砲弾の破片を避けるには自身の体が収まる程度の大きさで十分なのに、誰よりも深く穴を掘っていました。その頃から、私は隊員の誰かと個人的に親しくなることを執拗に避け始めていました。必死に穴を掘る彼の姿を見て、私は戦争とは生死を争うことなのだと改めて実感したのです。ある時、敵陣から砲弾が撃ち込まれ、それが彼の塹壕を直撃したことから、彼は最初に戦死した仲間の一人となりました。それは皆の心に衝撃を与えました。


——戦闘の真只中にある自分自身をどのように制御したのですか。

最初は気を失うほどの恐怖感に駆られますが、暫くすると慣れて割り切るようになります。ある時、私たちがジープで北上している時、突然に地割れの音が聞こえ、反対側で砲弾が炸裂しました。ドイツ製88mm砲でした。私たちは車を止めて、外へ出て溝に横たわりました。敵は、私たちが登ろうとしていた山の反対側の山腹から攻撃してきたのです。私たちがジープから飛び下りた瞬間、車体の下を砲弾が通り過ぎていきました。信じられますか? まさに危機一髪でした。喫煙者であった私は、売却用に残しておいたテイラーメイドと巻きタバコのブル・ダーラムを持参していました。私は一服しようとしたのですが、両手が激しく震えて、煙草を巻くことさえ侭(まま)ならなかったのです。漸くタバコを巻き終え、私たちは溝の中でひたすら待機していました。約30分後、運転手から支度をするように告げられ、「出発!」の合図に従って私たち3人はジープに乗り込み、その場を去りました。あれは髪の毛が逆立つほどの(笑)局面に遭遇した危険な体験でした。


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Martin, in a rare moment, proudly displaying his Purple Heart and Bronze Star for Valor.
——パープル・ハート勲章と青銅星章を授与された時の話を聞かせて下さい。

先ず、フランスのブリュエールで展開された「失われた大隊」と呼ばれるテキサス大隊救出について話さねばなりません。テキサス出身兵で構成された大部隊でしたが、ドイツ軍に包囲され、背後の戦線を突破しなければならず、それには援軍を必要としていたのです。山道を行く経験が豊富な第442連隊にその指令が下りました。結果として、私たちは救出した兵士よりも多くの兵士を失いました。約200人から成る歩兵中隊の中には、生存者が僅かに6名という悲劇に見舞われた部隊もありました。第442連隊は211人のテキサス兵を救出するのに800人以上の死傷者を出すという、文字通りの総力戦でした。

無線操作員だった私は、監視を行う絶好のスポットを探していました。私たちは砲撃要請を行う任務にありましたが、視界が遮(さえぎ)られていてはどうにもなりません。大砲の目の役割として、私たちは尾根に立ち、木立を抜けて見下ろせる場所を探していました。その作業は困難を極めました。その時、バン!バン!バン! という轟音が鳴り響き、私たちは走り始めました。私のヘルメットが頭から落ちて、私の後を追うように転がり始めました。私はヘルメットを拾い上げ、砲弾の届かない場所を目指して逃げたのです。暫くして、私と偵察員が立ち止まって見下ろすと、視界に飛び込んできたものは木々の枝と幹だけ…。それも100フィートに伸びるマツの木の上部、約4フィートの枝や幹は爆破されている無残な姿でした。私たちはそこで少し待つことにしました。無線電信機が重く感じていた私はホッとしましたが、それも束の間、再び敵が砲撃を始めたのです。私たちは再び立ち上がり、移動しようとしました。その時でした。バン!という音がして、誰かに野球のバットで殴られたような衝撃が私を襲いました。樹木に砲弾が炸裂し、その破片が落下して私に命中したのです。私は木陰に隠れていたのですが、突き出ていた腕に当たってしまいました。この負傷により、私は名誉戦傷章のパープル・ハート勲章を数週間後に受章しました。

この爆破で私は負傷しましたが、応急手当隊と砲兵隊が前線と連絡が取り合える便宜を図るべく、暫く留まることにしました。無線電信は連隊にとって視界であり、電波自体が丘を上り下りすることはないものの、その時の私は山頂に待機していたので両サイドからの伝達を受け取っていました。私は仲間に「自分が中継拠点になる」と告げました。これにより、仲間たちは安心して担荷を目的地へ運んだり、大砲の標的を定めることができたのです。重傷を負った場合でも、誰でもいつでも担荷を呼ぶことが可能でした。私自身もかなり重症でしたが、自分は後回しでも平気だと思っていました。イワモト軍曹だったと記憶していますが、彼から「どうするつもりだ」と尋ねられた時、私は無線電信と共に残ると言い、後から衛生兵と一緒に戻ると伝えました。私は迎えが来る日まで無線連絡を取り続け、メッセージを伝達する任務に明け暮れました。負傷しながら戦地に留まった功績が認められ、私に青銅星章が与えられたのです。この後、私はこの任務を離れてイギリスへ送られ、治療に専念しました。


——期待以上の活躍をなされたというか、屈強なタイプなのですね。

多分、そうでしょうね。


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Some things never change. Martin, along with a small portion of his fishing gear, is still just as passionate as ever about goin fishin!
——本国に帰還した際に、偏見や差別に直面しましたか。

数回ありました。除隊となったロサンゼルスで、私は制服姿のままでレストランへ行きました。すると、彼らは私への給仕を拒絶したのです。これが最初でした。

次の出来事は、私がサンディエゴに戻り、エンカントの床屋へ行った時のこと。その時は終戦を迎えていたと思うのですが、散髪のために店内へ入り、私は待ち席に座っていました。これが待ちに待たされるのです。他の客が次々に来ては散髪を終えて出て行くのですが、私だけが残されている…。この状態が暫く続き、店内から客が消えた時に「あと、どれくらい待たなければいけないのですか」と店主に尋ねたのです。すると、彼は「私がお前のヘアカットをすることはない。お前たちは私の息子を殺したのだから」と言うのです。「アメリカ陸軍はあなたの息子さんを殺していませんよ」と答えると、「お前は日本人だろう」と攻め寄ってくる。「そうです。私はすぐそこの高台に住んでいます」「勿論、お前が誰かを知っている。でも、お前の仲間が私の息子を殺したんだ」「それは有り得ない。私はアメリカ陸軍で戦っていたのですから。私は海外から帰還したばかりですが、功績が認められてパープル・ハートを授与されています。あなたの息子さんと私は友達でした。一緒に学校に通っていたこともある」「それは、しかし…」「息子さんについてはお悔やみ申し上げます」̶̶。そして、彼は長い沈黙を続けた後に「君はアメリカ陸軍兵だったのか」と私に問い掛けました。「そうです」「君は私の息子を知っているのか」「ええ、私たちは同じ学校でした」「本当に…?」「はい、すぐそこです」̶̶。彼は混乱した様子に変わり、「あぁ、私は息子を亡くして、どうしたらいいのか分からない…」と呟いたのです。私は「彼の代わりになることはできませんが、少なくとも、いつもここに散髪に来ます」と彼に告げました。すると、彼は私を呼び寄せて、私の髪を切り始めました。散髪が終わり、私が「いくらですか」と聞くと「料金はいいから」との反応。「払わせて下さい」と言うと、彼は「取り乱して済まなかった」と私に謝罪したのです。以来、その床屋は私が髪を切る唯一の店となりました。



——
ご自身の人生を振り返る時、達成感に満ちた誇らしい気持になりますか。

勿論です。憤怒を抱き続けることで傷つくのは自分自身です。どんな状況に置かれても、周囲との関係をしゃ断してはなりません。それでは人生で失うものが余りにも大きいですから。


マーティン L. イトウ ・

1917年カリフォルニア州サンタクルズ生まれ。父は日本生まれ、母はハワイ出身。1927年以前に家族でサンディエゴへ移住。サンディエゴ高校卒業後、 アボカドの栽培と販売の仕事に従事。第二次世界大戦開戦により、家族はサンタアニタからアリゾナ州ポストンの日系人収容所へ送られる。収容所で米陸軍に志 願し、大砲歩兵隊の無線通信手となる。ヨーロッパ戦線での優れた功労、勇気、進取性、負傷兵士への献身に対してパープル・ハート勲章と青銅星章が与えられ る。戦後、サンディエゴに戻り、アボカド、トマト、セロリ、ピーマン、スクアッシュなどの農園経営を継続。エミコ夫人との間にマイク、ロバート、ジョー ジ、マルレーネの4人の子を授かり、結婚生活58年を迎える。現在もエンカントに在住。釣り愛好家として知られ、余暇には夫人とともに盲人のボランティア 活動を行う。

(2005年4月1日号に掲載)