Friday, 26 July 2024

ゆうゆうインタビュー 秦 英之

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初めて開催される「ジャパン・フィエスタ・イン・サンディエゴ」についてお知らせ下さい。

来たる3月26日(土) にサンディエゴ・スポーツ・アリーナで開催される日米国際交流イベントです。日本に触れ、日本を学び、日本を味わい、日本を楽しむ ̶̶̶。サンディエゴの皆さんに日本の文化や日系人の歴史を知ってもらい、日本への関心を高めるとともに、地元日系コミュニティの一体化をアピールすることを目的に開催します。イベントは2部構成となっています。第1部ではサンディエゴの日系人の歴史や日本文化の展示・紹介を行います。そして第2部では、日本代表チーム「侍ウォリアーズ」と地元サンディエゴのAFLチーム「リップタイド」によるアリーナフットボールの親善試合を予定しています。


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アリーナフットボール
——日本文化の展示・紹介についてお話し下さい。

アリーナの通路を 「歴史・教育」「芸術」「食」「エンタテインメント」の4つのゾーンに区切り、それぞれのテーマに沿った展示ブースが設置されます。アリーナのフィールドではさまざまなライブパフォーマンスも行われます。日本学園の生徒さんによる日本舞踊、西野多恵子さんが指導するNeisha’s ダンスアカデミーの子供たちによるバレエ、サンディエゴバレエ団の猪俣陽子さんによる演舞、正賢寺太鼓グループによる太鼓、合唱、柔道など、地元サンディエゴの日本関連団体が魅力いっぱいの演技を披露します。

1880年代にサンディエゴに初めて日本人が移住したことが日系人コミュニティの始まりと言われています。 地元日系人の歴史、日本の伝統文化、未来型スポーツ「アリーナフットボール」、将来人間と共存する「ロボット」など 、日系人コミュニティの現在・過去・未来を多彩に紹介したいと思っています。



—— アリーナフットボールについてご説明下さい。

アリーナフットボールは屋内で行うアメフトのようなスポーツです。1986年にアメリカでリーグが結成されて以来、急速に人気が高まっています。フィールドの広さが普通のフットボールの4分の1で、選手数も1チーム8人とアメフトの11人より少なくなっています。攻守を兼任する選手たちが、アリーナという狭い空間でパスを投げまくってバンバンと得点を取り合う、そんな臨場感溢れる白熱したプレイがアリーナフットボールの魅力となっています。アメフトでは2チームの合計得点が40~50点ですが、アリーナフットボールでは何と100点もマークするんですよ。サイドラインが無いので、選手が観客の目の前に飛び込んでくることも珍しくありません。試合の前後には選手から気軽にサインをもらうこともできます。これは「ファンあってのアリーナフットボール」というリーグのポリシーが反映されたもので、ファンサービスの一環として定着しています。


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山田晋三(しんぞう)コーチと秦英之さん
—— アリーナフットボール日米親善試合の見どころは。

この試合に日本代表チームが勝利すると「日本のチームが初めてアメリカのプロのチームを倒す」という偉業を成し遂げることになります。スピード感溢れる攻撃力を活かして「侍ウォリアーズ」が地元サンディエゴの「リップタイド」にどこまで対抗できるか…。「敵地」という不利な条件の中で「侍たち」が勝つためには読者の皆さんの応援が必要です。アリーナフットボールの歴史に新たな1ページが刻まれる瞬間の証言者となるべく、会場に足を運んで下さい。

ハーフタイムショーでは、 元NFLチアの安田愛さんや柳下容子さんが華麗なパフォーマンスを披露するほか、世界で初めて2足歩行を可能にしたソニーの小型ヒューマノイドロボット QRIO (キュリオ) も特別ゲストとして登場する予定です。試合開始予定が午後7時なので QRIOの登場は午後8時を過ぎてしまいますが、小さいお子さんをお持ちの方も、この日だけは昼寝をさせて是非見に来て下さい。


——日本代表チーム「侍ウォリアーズ」についてご紹介下さい。

「侍ウォリアーズ」(米国式室内式蹴球日本選抜侍士団) は、日本の社会人アメリカンフットボールのトップリーグ「Xリーグ」のメンバーと大学生で構成されています。今回選ばれた24名の選手は日本のアメフト界で大活躍した学生、社会人の猛者たちで、AFLやNFLヨーロッパでプレイした選手も含まれています。 昨年、ケンタッキー州で行われた第1回アリーナフットボール親善試合では、地元ルイビルチームを相手に第4クオーターまで26対23と押し気味に戦った実績を持っています。チーム名は日本の武士道に由来しています。アメリカ生まれのスポーツに敬意を表し、その生まれ故郷米国で堂々としたフェアプレイを誓う品性、道理に任せて決断し、いささかも逡巡 (しゅんじゅん)しない義の精神、武士道の精神をチームの心得として「侍ウォリアーズ」と名付けられました。ビジネスの世界でも活躍する彼らが、スーツを脱ぎ捨てて世界にチャレンジします。


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鈴木孝昌(たかまさ)選手とチアリーダー
—— 「ジャパン・フィエスタ・イン・サンディエゴ」開催の経緯は。

昨年8月、侍ウォリアーズのヘッドコーチ、山田晋三氏から突然の電話を受けました。私も大学、社会人とアメフト部に所属していたので、山田氏とは学生時代から親交があったのです。電話の内容 は「第2回アリーナフットボール日米親善試合をサンディエゴで開催したいので協力して欲しい」というものでした。興味のある話でしたが、私一人で引き受けられる簡単な仕事ではなかったので、直ぐに承諾できませんでした。その後、第1回日米親善試合のビデオを見る機会がありました。スポーツだけの国際交流イベントという思い込みをしていたのですが、地元の病院や日本人学校を表敬訪問し、地域との触れ合いを大切にしている侍ウォリアーズの活動を目にして大変心を打たれました。そして、何としてでも彼らの力になりたいと思ったのです。

山田氏の協力要請を引き受けたものの、「スポーツは言語を越えた精神性を共有できる素晴らしい国際親善の手段に違いない。でも、貴重な日米交流の機会なのだから、アリーナフットボールに限定するのは勿体ない」との思いが強くなっていきました。時を同じくして、サンディエゴに暮らす日系アメリカ人が日本人との交流を望んでいるという話を耳にしました。私はベネスエラで生まれてアメリカで育っているので、彼らが求めているものが理解できるのです。同じ人種なのに、アメリカと日本では基本的な習慣や考え方が異なることから、互いに歩み寄れない要素も確かにある。でも、お互いの「日本人」というルーツに対する気持は同じ。この揺るがしようのない共通点を感じ合い、思いを伝え合う共有のプラットホームを作ることはできないだろうか̶̶̶。国籍を問わずに、子供から年配者までが参加できる大規模な日米国際交流イベントを実現しようと思い立ち、「ジャパン・フィエスタ・イン・サンディエゴ」の誕生に至りました。


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侍ウォリアー
—— 発案から実現まで約半年間という、スピード決定でしたね。

実際に話がまとまり、ゴーサインが出たのは今年に入ってからでした。サンディエゴにはこれだけ大規模なイベントを運営できる仕組みが整っておらず、本当にゼロからのスタートでした。当然、予算面での問題もありました。私がサンディエゴに赴任したのは昨年7月でしたし、右も左も分からないまま、毎日が試行錯誤の連続でしたね。一人で動き始めたプロジェクトも、アイスホッケーチーム・ガルズでインターンとして活動している星野太志さん、会社員の辻野裕美さんや石橋美奈子さんほか、多くの方々が協力して下さるようになり、少しずつ前進していきました。

前例の無いイベントの趣旨を各機関・団体に理解してもらうまでに相当に時間が掛かりました。逆風もありましたが、可能性を信じていた一番の理由は皆さんからのニーズを感じた確かな手応えがあったからです。イベントの話をする度に「面白そう」「ぜひ開催して欲しい」という、期待が込められた言葉が必ず返ってきたのです。実際、幸運にも恵まれましたね。準備期間があまりにも短く、今からスポーツ・アリーナでの会場確保は難しいと言われていたのですが、室内サッカーの試合が急遽(きょ)キャンセルになり、思いもかけず実現したのです。無我夢中で駆け抜けてきた半年間でしたが、多くの方に支えられ、イベントが開催できることに大変感謝しています。


—— フットボールへの並々ならぬ情熱を感じますが…。

父親の仕事の関係から、小学校の6年間と高校時代の大半をペンシルバニア州で暮らしました。私はベネズエラ生まれで、 中学時代を日本で過ごしたとはいえ、自分では日本人というよりアメリカ人に近いと思っていたのですが、高校卒業を控えた頃に「このままアメリカで暮らしていたら、自分の日本人としてのルーツを完全に失うかもしれない」と感じたのです。そこで、日本の大学に進学し、幼い頃から大好きだったアメフトを通して日本の文化や礼儀を学んでこようと考えたのです。

私は自らの希望で明治大学へ進学し、1934年創部の伝統あるアメフト部に入部しました。米国での高校時代もアメフト部に所属していましたが、米国とは異なる、日本の大学の体育会に受け継がれている想像以上に厳しい軍隊形式の練習法に初めは驚きました。最終学年に副主将兼主務となり、チームを4年ぶりのAクラスに導くことができました。また、東西学生オールスター戦の関東代表選手に選出されるなど、実に貴重な4年間を過ごしました。

大学卒業後はソニーへ入社し、同時に母校のアメフト部でコーチを務めるようになりました。入社2年目の1997年、アメフトへの現役選手としての情熱が冷めやらない私は、社会人アメフトチームのアサヒビール・シルバースターから勧誘を受けました。要請を受けて入団したものの、仕事との両立に苦労し、チームも社会人選手権の準決勝、決勝と2年連続して敗退し、初めの2年間は頂点を極めることはできませんでした。理由の一つとして、「仕事とスポーツの両立は苦しい」という甘えが私を含めた選手の心の中にあったのです。私は悔いの残らない1年を過ごした後に引退することを決意し、翌年は必死になって、仕事とアメフトを如何に両立させるかを考えました。365日のスケジュールを分析し、前年にできなかった全部の事柄を書き出し、それを徹底して実行しました。例えば、海外出張中でも接待ディナーの後に1日1時間のバーベルトレーニングを続け、出張以外での残業が深夜に及んで帰宅が遅くなっても30分のランニングは絶対に欠かしませんでした。こうした努力が実を結び、チームは念願の優勝を手にしたのですが、その時の喜びは何にも替えられないものでした。


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キュリオ
—— スポーツを媒介とする文化交流に寄せる期待とは。

民族や文化の相違を越えた力強い友好手段の一つであること̶̶̶。そこに期待を寄せています。私は中学1年の時にペンシルバニア州から日本へ戻り、鎌倉市の公立中学校に入学しました。自分では極く普通の日本人として振る舞ったつもりですが、中身は外国人になっていたようです。英語の発音が先生より上手いことから発言の順番を飛ばされることも日常茶飯事で、 自己主張が強いという理由で同級生の仲間にも入れてもらえず、いわば「帰国子女イジメ」に遭遇していました。次第に私は皆の輪から外れていき、頼れる仲間がいない中で唯一の支えとなったのがバスケットボールでした。コートの中では人種など関係なく、上手ければ誰でも認めてもらえるのです。この時に、スポーツがもたらす影響力を目の当たりにしました。

その後、高校2年の時に再びペンシルバニア州へ渡りました。昔の仲間との再会や、小学生時代に明け暮れていたアメフトを再び満喫できる喜びで一杯でした。ところが、実際には周囲の環境に溶け込むことができなかったのです。日本で4年半暮らしているうちに、私は「周囲との調和を大切にし、自己主張をせずに相手を尊重することが正しい」という日本的な考えを持つ人間になっていました。日本人的な部分しか出せなくなってしまった自分に、昔の友人は驚いていました。こうして再び孤立してしまった私ですが、やはりスポーツが自分を支えてくれたのです。アメフト部に入部したものの「小柄なアジア人が生半可に挑戦している」との印象を与えたのか、最初は全く相手にしてもらえませんでした。ところが、練習場に入ってタックルを一発仕留めた瞬間から仲間として受け入れてもらえたのです。



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イベントスタッフ
——今後の夢を教えて下さい。

やはり、大好きなスポーツを通じて、サンディエゴと日本の国際文化交流の推進に力を注いでいきたいと思っています。長年培われてきたスポーツの価値というものを次世代に伝えていきたいですね。

私は「4P (フォーピー)」という信条を持っています。Pure 「純粋」、Passion 「情熱」、Positive 「前向き」、 Pride 「誇り」の4点です。スポーツに対する純粋な気持と情熱は誰にも負けないと思っています。その中でも「いかに前進 (Positive) していくか」ということと、「どこまで Pride を保てるか」という点が重要であり難しいのです。時には妥協も必要かもしれませんが、Pride を持ち続けていれば自信に繋がり、簡単に挫折することもありません。頭で理解するのは簡単ですが、この4つのバランスを上手く保つことは本当に大変なことですね。今後も「4P」の信条を忘れることなく、日本とサンディエゴの架け橋となるものを求め続けていきたいと思っています。


秦 英之 (はた・アンディー・ひでゆき)

「ジャパン・フィエスタ・イン・サンディエゴ」実行委員長。ソニーエレクトロニクス勤務。1972年ベネズエラ生まれ。父親の転勤に伴い、小学生時代をペンシルバニア州フィラデルフィア郊外で過ごした後、日本へ帰国。高校2年の時に再びペンシルバニア州へ戻る。高校卒業後、明治大学法学部法律学科へ進む。 大学でアメリカンフットボール部に所属して副主将兼主務として活躍し、4年ぶりのAクラス入りに貢献する。東西学生オールスター戦の関東代表選手にも選出される。1996年大学を卒業、ソニーへ就職。同時に母校の大学フットボール部のコーチを1年間務める。1997年より社会人アメフトチームのアサヒビー ル・シルバースターに入団し、社会人選手権と日本選手権優勝など数々の業績を残す。1999年シーズンを最後に引退。2004年7月よりサンディエゴ在住。現在、夫人と2人の息子さんとサンマルコスに暮らす。「ジャパン・フィエスタ・イン・サンディエゴ」についての案内は (英語) www.japan-society.org/japanfiesta 、 (日本語) www.sandiegotown.com へ。

(2005年3月16日号に掲載)