—— 演技や映画製作に興味を持つようになった経緯は。 私はパサディナとバークレーで育ったのですが、子供の頃から映画製作に興味を抱いていました。どういうわけか、私は映画産業界で働きたいという思いが強かったのです。その頃のヒット作『スター・ウォーズ』などの大仕掛けの映画に魅せられていました。ところが、自分が何をすべき人間なのかという明確な意識はありませんでした。自分が作りたいと思っていた映画が世の中の主流を行くメジャーな作品であることにも気付かず、ただ夢を描いていました。私は白人が大多数を占める地域で少年期を送っています。中学生の頃、アジア系アメリカ人の活動にも参加しましたが、そこで教えられたことを正しく認識していなかったと思います。アジア系アメリカ人が抱える問題の存在について漠然と理解していた程度でした。 ——映画製作の夢をどのように追い求めたのですか。 大学進学期を迎え、ジョージ・ルーカスが登場して脚光を浴びるようになった一流の映画学科へ進もうと思いました。南カリフォルニア大学を考えたのですが、結局、カリフォルニア大学サンタクルーズ校に数年間在籍し、映画理論や演出のクラスなどを履修しました。その後、カリフォルニア大学ロサンゼルス校の映画・テレビ専攻や映画学科への転籍を実現することができました。南カリフォルニア大学の映画学科とアート・センター・カレッジ・オブ・デザインへの入学も志願しましたが、どちらも受け入れられませんでした。 —— その後の動きは。 大学卒業後、自分自身で映画製作を試みましたが、その作品は未完成のまま、日の目を見ないで埋もれています。私には特にすることも無く、気ままにエキストラ出演の仕事を始めたのです。それは簡単で、楽しく、無料のランチも付いてきました。それが私に演技への関心を抱かせました。台詞はありませんでしたが、自らがキャラクターを想定し、どこまでやるかは本人次第という仕事です。これが契機となり、私は「ドラマ・ログ」でどのような役柄があるのかを探し、応募の写真を送り始めました。やがて、少しずつ自信が付き、台詞のある学生映画などに出演するようになり、さらに演技への関心を高めていきました。それまでは私の興味は製作の側にあり、自分の映画に出演したいという気持はありませんでした。そのような興味も湧かず、理解も及びませんでした。 —— この頃から俳優に興味を抱いたのですね。 このような経験を通して、私はアジア系アメリカ人の劇団であるイースト・ウエスト・プレイヤーズと出会ったのです。この劇団は最も古い歴史を持つ団体の一つだと思います。私は「トレーズ」などで若いアジア人男性俳優のキャスティング募集などを見つけて、写真を送ったりしました。しかし、舞台経験も無く、観劇にも出掛けなかった私はどの役柄も獲得できませんでした。ひどい演技だったのでしょう。当時はオーディションのビデオ撮影など行われていなかったのが幸運でした (笑)。私の俳優としての履歴書はほとんどが捏造 (ねつぞう) で、誇張して書かれたものでした。その中に特殊技能の欄があり、私はバイオリンの演奏と記入していました。これは事実だったのです。ある日、イースト・ウエスト・プレイヤーズから電話があり「本当に演奏できるのか」と尋ねてきました。彼らは上演舞台でのミュージシャンを探していたのです。私はバイオリンが弾けたことから仕事を得ることができました。ノーギャラでしたが、それは私にとっての演劇への入門となりました。最終的には作品のコンセプトが変更されましたが、私はこの機会を得て、リハーサル、プレビュー、オープニングナイト、上演までを経験することができたのです。この初体験で、私は演劇熱に取り憑 (つ) かれてしまいました。 ——訪れた好機を振り返って思うことは。 その後、私は再び楽団のパートを演じて多少の台詞もこなしましたが、私の大ブレイクはその次のショーでした。この時、突然に主役が降りたために、主役の代役として稽古に励んでいた私に仕事が回ってきたのです。私は優れた演出家たちと仕事を共にし、演技とは何か、舞台とは何かを体験的に知ることができました。イースト・ウエスト・プレイヤーズは私が最大限に学び、多くのことを身に付けることができた素晴らしい場所でした。 イースト・ウエスト・プレイヤーズに在籍していた私は、演劇界において、また一般的な観点からアジア系アメリカ人であることの意味を理解し始めていました。この劇団が設立されたのは、アジア系アメリカ人の俳優が世間に認められる機会を作るという目的からです。設立から20年が経過した80年代の半ばにおいても、その存在意義の大きさは変わりませんでした。私はそれまでに観た全ての映画作品からアジア系アメリカ人が締め出されている事実に気付いたのです。その状況が正当性を欠き、如何に自分のイメージに影響を与えていたかを理解しました。私は白人ではない̶̶その事実が受け入れられる必要があると思ったのです。私たちがイースト・ウエスト・プレイヤーズで上演した数多くの舞台はアジア系アメリカ人の歴史を取り扱い、そこから様々なことを学びました。 —— イースト・ウエスト・プレイヤーズが演劇界への入口となり、ご自身が受け継いでいる文化にも目覚めさせたのですね。 そうなのです! ショービジネスにおける優劣関係や人種的偏見は私に衝撃を与えました。現実として多くの変化を必要としていたのです。学校での授業も含めて、私たちアジア系アメリカ人も歴史の一部であることを忘れられてきました。学校ではアメリカとヨーロッパの歴史を学びますが、アジアの歴史は勉強しないのです。私はイースト・ウエスト・プレイヤーズで働いた3、4年の間に目指すべき方向が完全に変わってしまいました。かつては主流のハリウッド映画を望み、アジア系アメリカ人の物語を拒絶していた自分が、アジア人を目的としたプロジェクトのみを行い、それ以外は対象にしない境地にまで辿り着いたのです。昔の私は、これらの話は規模が小さすぎると考えていましたが、実際には単に私自身がその重要性を拒否していたのです。ある時期を境に、私にはアジア系アメリカ人のテーマ以外は全く無意味に感じるようになりました。 —— ティム・トヤマ氏と仕事をするようになった機縁とは。 私が最初にティムに会ったのは90年代中頃で、場所はイースト・ウエスト・プレイヤーズでした。「会った」と言う表現は適切ではないですね。私が舞台セットのデザインをしていた時に照明を担当していた彼の姿を目にしたのです。ティムは脚本のワークショップのクラスも受けていました。その場で彼の作品が朗読されている時に、ある俳優/ディレクターが「彼の作品を読んでみる気があるか」と私に聞いたのです。翌年、彼は別の1幕ものの脚本を書き下ろしました。ナチスによるユダヤ人大虐殺が行われていた当時、6,000人のユダヤ人を救ったリトアニアの日本人外交官・杉原千畝氏についてでした。これが後に映画 “Visas and Virtue” (邦題『ビザと美徳』) となるのです。この時点で既に私は10年間も演劇界で働いており、演技とは何か、そして意味のある役を演じる機会を得ることの尊さを心得ていました。この作品は英雄的な奥深いキャラクターと深みのあるストーリーで構成されていたのです。私にとっては重厚な役を演じる機会に恵まれただけでなく、観客への影響を直接的に感知できた素晴らしい体験でした。私達は小規模なノースハリウッドのブラックボックスシアターで上演したので、(腕を伸ばしながら) 観客とはこれくらいの至近距離にあり、彼らのリアクションを聞いたり感じることができたのです。この興行は大成功を収めました。毎晩チケットは完売し、6週間を予定していた公演期間は8週間から10週間に延長されました。 —— 1幕ものの戯曲から短編映画『ビザと美徳』を製作するアイデアが生まれた経緯は。 私のアイデアと言いたいところですが、実は製作を担当していたトム・ドナルドソンが「最終日の体験を忘れないためにも、パフォーマンスを映画かビデオに収録しておこうじゃないか」と提案したのです。私の最初のリアクションは「それは良い考えだ! でも、映画の製作資金はどうする?」というものでした。ビデオ撮影は記録を残す目的では妙案かもしれませんが、映画とは違います。その後、彼のアイデアが的を射ていると私は思い、これこそ短編映画に最適のプロジェクトであり、自分にとっても絶好の機会だと悟ったのです。ストーリーは日本人とユダヤ人のコミュニティーに訴え掛ける内容だったので、私たちはそこから資金を得られると考えました。映画製作に携わりたいと願う私に再びチャンスが巡ってきたのでした。 —— それがシーダー・グローブ・プロダクションズを設立した発端なのですね。 1995、6年頃にティムの了解があって、映画化のためのプロダクション会社を設立することになりました。私はどこかで「スギハラ」の直訳が「Cedar Grove」であることを見て知っていたので、その言葉が頭の中に残っていたのです。そこで、社名を考える段階でティムに「シーダー・グローブ・プロダクションズはどうか」と打診しました。当時は仕事の全てが杉原氏の物語に関わっていたので、その名は理屈に適っていたのです。その後、私達がこの会社を続けることを決定した時にシーダー・グローブ・プロダクションの社名を保持することにしました。 ——1幕の劇作から短編映画への移行は大仕事でしたか。 それが大変であることは分かっていました。やるべきことは山ほどありましたし…。でも、実現できると信じていました。戯作から映画への台本の改作に当たっては、幕が降りる代わりにフェイドアウトになるという多少の変更を加えただけで、ほとんどが舞台の台本と同じでした。私自身は何も変えたくなかったし、変えるべきではないと思いました。このストーリーには既に魔法の力が備わっていたのです。毎夜の舞台で収めた興行の成功を映画化でも獲得したかったのです。舞台と映画は完全に異なる媒体なので台本も少し変化しましたが、その核にあるものはそのまま残しました。 映画製作は一つ一つ進められました。先ず、私達はロケ地を選定し、次に撮影のセット製作に協力してくれる人々を見つけ、苦労しながら寄付を募り、材料を手に入れました。時には、製作延期を余儀なくされる事態に直面して9か月間も滞りました。撮影直前に2人のプロデューサーが現場を去り、製作を中断せざるを得ず、完成への目処が立たずに不安に陥った時期もありました。しかし、辛抱強く耐えて、完成の日が到来することを信じて継続し、ようやくやり遂げたのです。22分間の作品に約1年半の年月が費やされました。私達には通常の大規模な映画製作に必要な資金力がありませんでしたが、素晴らしい人々との出会いに恵まれました。映画製作について知識のある人々や、私たちの要求以上に応えてくれる人々の協力がありました。この映画製作は彼らにも意義深いものがあったと思います。 —— アカデミー賞受賞という素晴らしいスタートでしたね。 初作品の『ビザと美徳』がアカデミー最優秀短編実写映画賞の栄誉に浴したという事実は、私達にもこれ以上は望めない結果となりました。ティムと私は他のストーリーにも関心があり、お互いに似たモチベーションを抱いていました。当時はそれが何を意味しているのか分かりませんでしたが、私達は手にした成功を生かしながら前進していこうと思いました。 —— ストーリーやプロジェクトに求めているものは。シーダー・グローブ・プロダクションズが作品に語らせる重要なテーマあるいは使命とは。 私達が興味を抱くプロジェクトやストーリーには明確なテーマと共通する目的があります。『ビザと美徳』を振り返ると、あのような結果がもたらされたのは偶然ではないと感じるのです。ティムはとても感動的な歴史の一部に喚起され、その史実に基づいて優れたドラマを創作し、私達は才能ある人々の協力を得て映画製作を実現しました。意味の深いストーリー、それを伝える優れた語り口、高いクオリティーとプロの手腕を持つ映画製作者との組み合わせ̶̶私達が機能している姿がそこにあるのです。私達の目標はストーリー、題材、歴史を呈示して、願わくば人々に興味を抱かせ、疑問を持たせることです。映画は解答よりも疑問を提供します。それはドキュメンタリーではないからです。 —— 記録映画としても扱える題材を、歴史的な物語のスタイルにする方法論を選んだ理由は。 第一にドキュメンタリー製作は大変な作業なのです。私は完成度の高いドキュメンタリーを観る度に、その苦労が感じられて感心しています。私とティムは舞台出身者なのでストーリーテリングの方法論を知っていますし、その経歴が私達のスタイルを生んだのです。もう一つの理由は、表現力豊かなハリウッド映画への私の思い入れがあります。いつの日か、私はあのような感覚の映画を作りたいと思っているのです。ティムが執筆した “Day of Independence” (邦題/『日系人野球、独立の日』=タシマ氏の監督第2作目) では日系人収容キャンプを舞台にそれぞれの個人的体験が織り込まれています。死期を迎えつつある彼の祖父が日本に骨を埋めるために収容所を去る時、息子に告げた「お前はアメリカ人だから、ここに残れ」という惜別の言葉に重要な主題が込められているのです。 —— ご自身とシーダー・グローブ・プロダクションズの今後の予定は。 今の時点での主要プロジェクトは、現在公開されている『日系人野球、独立の日』の続編『メモリアル・デイ』の製作です。『メモリアル・デイ』は『日系人野球、独立の日』が終了した時点から始まる、第二次世界大戦下の日系二世部隊の第442連隊戦闘団についての物語です。隊員たちの交流や友情をベースとして、1945年のヨーロッパでの戦闘から終戦、戦後までを描きます。何人かは生還するのですが、ご存知のようにほとんどの隊員が命を失いました。これは歴史の断面を捕えた驚くべき内容で、あまり知られていない史実の一部です。 —— これらのプロジェクトで様々な役割を果たされていますが、俳優あるいは監督として、ご自身をどのように見ていますか。 そうですね、私は自分を俳優兼映画製作者だと思っています。脚本家ではありませんが映画監督と考えています。私は明確なメッセージを含んでいる映画作品を作りたいのです。そういう作品こそ、語り継がれる必要があるからです。演技の面から言えば、私はあらゆる役柄に興味を抱いています。スクリーン上にアジア人の存在が必要と感じた時には、私自身が役柄を演じることで解決します。俳優として、私はあらゆる可能性に挑戦したい。一方で、監督としては特殊なテーマに目を向けたいですね。作品を監督するということは、広範囲にコントロールする力を備えてコンセプトから完成までを見届けるということです。ですから、本当にそのストーリーに心酔していることが大切です。私が力を傾注したいと思えるストーリーは伝達する価値が強く感じられるものです。 —— 俳優と映画製作者として自分自身を発見してきたと伺いましたが、今でも自分探しの旅を続けているのですか。 素敵な言い回しですね。私は今でも自分自身について多くを発見していると思います。それは緩やかに、ゆっくりと何年も掛かりましたが、未だに自分が望むレベルまで辿り着いたとは思っていません。キャリアの面から言うと、私は俳優としての理想像とプロダクションが進むべき方向性を絶えず模索しています。私にはやり残していることが数多くあり、まだ自分の人生について人々に語られる段階ではないという気がします。ふと気が付くと底辺から高い所を見上げていて、これから向かう先を見つめながら、皆さんに伝えたいストーリーを探している自分がそこにいるのです。 (2005年3月1日号に掲載) |