Friday, 26 July 2024

ゆうゆうインタビュー 猪俣陽子

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現在所属しているサンディエゴ・バレエ団について話して下さい。

サンディエゴ・バレエは1991年に非営利団体として創設されたプロバレエ団です。所属ダンサーは常時20名ほどおり、他のバレエ団と比べて各ダンサーの担当パートが多いのが特徴です。バレエと聞くと、日本では「難しくて高尚な芸術」というイメージが先行し、敷居が高いように思われがちですが、アメリカでは誰もが気軽に足を運べる雰囲気を持っています。私たちは、お客様に舞台の臨場感を味わって頂きたいという理由から、ホートンプラザやUCSD内劇場などの比較的小規模なシアターでパフォーマンスを披露しています。また、教育の一環として、サンディエゴ市内の各小学校を訪問し、バレエのレクチャーも行っています。


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陽子さん(手前) 1歳半。姉と近所の公園にて
——サンディエゴ・バレエ団入団の契機は。

私は1998年より日本のスターダンサーズ・バレエ団でプロとして踊ってきましたが、将来は海外で活躍したいとの夢を描いていました。アジアやヨーロッパへ渡ることも考えていましたが、高校時代の親友がロサンゼルスで暮らしていたこともあり、アメリカ西海岸に興味を持つようになりました。西海岸にあるバレエ団を調べているうちに、サンディエゴ・バレエ団がビデオオーディションを行っていることを知り、2002年の秋に応募したのです。私が踊った作品とレッスン風景を収録したプロモーションビデオを送ったところ、「ケガ人が出たため、すぐに舞台に出てほしい」という返事を頂きました。通常、春から夏にかけて50~60人の応募者の中からダンサーが選ばれ、秋から入団します。出演のオファーがEメールで届いた時は天にも昇る気持ちでした。サンディエゴは一度も訪れたことがありませんでしたが、「せっかく手にしたチャンスを無駄にしたくない」という気持ちが強い分だけ、渡米に対する不安はそれほど感じませんでした。

当初は研修生という形での採用でした。まだ労働ビザが下りていなかったので、3カ月毎にサンディエゴと日本を往復する日々が続きました。申請から1年半後にビザが下り、去年の10月から本格的に活動拠点をサンディエゴへ移すことになったのです。


——
活躍の場を海外に求めた理由は。

ビデオオーディションを受けた時は、実はバレリーナとして行き詰まっていた時期でもありました。何でも踊れるダンサーでありたいと思いながら日本で頑張ってきましたが、振付師の期待に応えられなくなっていました。その振付師と相性が合わず、自分本来の踊りを出せずに空回りする日々が続いていたのです。毎日のように落ち込んで、周囲が見えなくなりかけていた時、オーストラリアから教えに来ていたある先生と出会いました。その先生のダンスを見て「私が求めているバレエはこれだ!」と直感するものがありました。その時、「日本のバレエにこだわる必要はない。海外にも目を向けてみよう。環境の異なる外国で自分を磨くことで、新しい発見ができるかもしれない」と思ったのです。


—— バレエを始めた時期は。

8歳の時です。その前は体操教室に通っていました。ところが、近所にバレエスタジオができ、歩いて通える距離という理由で、親に言われるままにバレエに変更しました。小学生の頃はバレエがそれほど好きではなく、ただ通っているという感じでしたね。

バレエを真剣に始めたのは中学生になってからです。中学受験のために小学6年生の半年間はレッスンを休みました。復帰した時には仲間が私よりも上手になっていて「負けたくない」という思いが沸いてきたのです。それからは必死になって練習しました。徐々にバレエが面白くなり、いつしかプロになりたいとの希望を抱くようになりました。


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『くるみ割り人形』の「金平糖の精」
(18歳の頃)
——プロになるまでの経緯は。

その頃の私のバレエの先生は、生徒をできるだけ多くのコンクールへ出場させる方でした。1994年、私が16歳の時、バレエ界の登竜門と言われるスイスのローザンヌ国際バレエコンクールに出場させてもらいました。このコンクールの入賞者は世界でも一流のバレエ学校へのスカラーシップが得られることから、世界各国から出場者が押し掛けてきます。当時高校生だった私は、コンクール出場に向けて週6日の猛練習を続けていました。しかし、入賞は果たせず、世界の壁の厚さを痛感しました。それでも、将来はプロになるという決意は揺るぎませんでした。

コンクール出場後、東京のスターダンサーズ・バレエ・スタジオに入所しました。アメリカ人の有名な振付師であるジョージ・バランシンやアントニー・チューダーの作品を備え、芸術的作品をレパートリーに持っているこのスタジオに魅力を感じていたのです。高校の授業が終わると、毎日スタジオに直行しました。学業との両立は難しく、試験前には一夜漬けの日々を繰り返していました (笑)。

高校卒業後の進路について考えていた頃、スターダンサーズの芸術監督である太刀川瑠璃子 (たちかわ・るりこ) 先生が昭和音楽芸術学院のバレエ科を開設するという知らせが入ってきたのです。太刀川先生から「第1期生として来てみたら」というお誘いを頂き、私自身の将来に繋がるに違いないと思い、昭和音楽芸術学院に進学しました。その後、1998年にスターダンサーズ・バレエ団に入団し、プロとしての生活が始まりました。


—— 日米におけるバレエの違いとは。

日本には国立や公立のバレエ学校、国立のバレエ団が存在しません。バレエ教室は全て個人経営で、「これが日本のバレエの教育機関」と呼べる世界レベルの権威を誇るバレエ学校はありません。日本でプロバレリーナと言っても、海外のレベルから比較するとアマチュア的な部分が目立ちます。日本ではバレエだけで生活できる人は少なく、「職業はバレリーナです」と言うと「それは趣味でしょ。本業は?」と聞き返されてしまうのが現状です。その点、アメリカを含めた海外ではバレリーナは立派な職業として認識されています。日本ではバレリーナ自らが公演チケットを販売しなくてはいけなかったのですが、こちらではその負担もありませんしね… (笑)。

リハーサル中にも驚いたことがあります。日本では、ダンサーたちは足が痛かろうが体調が悪かろうが、決して表情に出すことなく、普段と変わらずに踊り続けることを求められます。それが本番でなく、リハーサルであってもです。「根性」を賞讃する日本的な美徳なのですが、その結果、楽しむ余裕が持てずに感情表現が欠けてしまいがちです。アメリカ人ダンサーは、リハーサルでは「調子が悪いから踊れない」と素直に表明することもあり、非常に人間的と言えます。指導者もダンサーを信頼しているため、その点では比較的寛容でしょう。「信頼されている」と感じることにより、ダンサーたちは伸び伸びと踊ることができるのです。本番で調子が良く、気持ちが乗っている時の彼女たちは、私がどんなに頑張っても真似ができないような素晴らしいダンスを見せてくれます。


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ニューヨーク・セントラルパークにて(2004年2月)
—— サンディエゴ・バレエ団に入団して苦労したことは。

根本的に私はアメリカ人ダンサーとは体型も体力も異なりますから、初めの頃は戸惑いました。私の身長は160cmと日本では標準ですが、こちらではとても小柄に見られてしまうのです。それに、アメリカ人は手足が長く顔の作りも小さいですから、以前はコンプレックスを感じていました。でも、ある時に「私はアメリカ人になれないのだから、日本人としての私の身体を100%活かせばいいんだ」と肯定的に考えるようになったのです。すると、不思議と気持ちが楽になり、日本人の特徴である繊細さや正確さを大切にしたダンスでアピールしていこうと思うようになりました。

また、渡米した頃は自己主張ができなくて辛い思いをしました。日本では「周りからはみ出さないよう、仲間に気を遣いながら無難に踊っていきましょう」という環境の中に置かれていました。でも、アメリカでは自分の意見を明確に伝えないと周囲に分かってもらえません。そうでないと「何を考えているのか分からない」と思われてしまいます。今でこそ自分の意思を伝えられるようになりましたが、未だに仲間からは「おとなしいね」なんて言われてしまうこともあります。


—— 忘れられない出演作品は。

そうですね、どれも大切な思い出なので1作品を挙げるのは難しいのですが…。プロになった途端にソリスト (バレエの階級の呼称で、単独で踊るパートが与えられたダンサー) として活躍する人もいますが、私はコールドという群舞を踊る下積み時代からじっくりと経験を積んできました。例え、コールドでも「8人で踊る役がもらえた!」と言って喜んで精一杯踊っていました。

サンディエゴに来て初めてプリンシパル (主役) を務めたのが2003年12月。コロラド州とワイオミング州のツアー公演で、ダブルキャストとして『くるみ割り人形』の「金平糖の精」の役が与えられたのです。バレエ団で主役として踊ることは言葉に表せないほどのプレッシャーを感じるものです。過去に経験が無いだけに緊張しましたが、パートナーのダンサーにも支えられて無事に踊り終えることができました。この時の感動は一生忘れることができません。


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スターダンサーズ・バレエ団の『海賊』(2001年)
—— 自分の人生に多大な影響を与えた人物は。

サンディエゴに来た当初は、バレエ団から紹介されたユダヤ系アメリカ人の家庭でホームステイをしていました。ホストマザーはユダヤ人バンドを組みながらプロシンガーとして音楽活動をしている人で、私は彼女から多くのことを学びました。

ある時、団員の体調が急に悪くなり、私が急きょ代役として舞台に上ったのです。心の準備もなく、混乱した頭のま
まで舞台に立たされた私は、「体調管理も仕事の一つなのに…。もしかしたら、彼女は小さな舞台で踊りたくないから仮病を使ったのでは?」と 納得がいきませんでした。気力で笑顔を作って踊り切りましたが、疲労困憊してしまい、家に帰るとホストマザーの前で号泣してしまいました。その時、私は全てのことに疲れて、物事をネガティブに捉えていたのです。すると、私のホストマザーは「人間として生きていれば、思い通りにいかない時もあるのよ。それを上手く乗り越えていくしかないじゃない…。あなたはプロとして正しいことをしたのよ」と、優しく励ましてくれたのです。プロとして歌っている彼女ならではの言葉でした。私は少しでも躓 (つまず) いてしまうと、すぐに落ち込んでしまうタイプだったのですが、ホストマザーの明るく前向きな姿勢に感銘を受け、どんな状況でも自分の弱さに負けることなく、物事を明るく考えるようになりました。


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サンディエゴ・バレエ団の『青い鳥』。パートナーのケネス氏=アメリカン・バレエ・シアターのゲストダンサー=と (2004年2月)
——今後の目標は。

一昨年に10日間ほどニューヨークに滞在し、アメリカン・バレエ・シアターのレッスンを受講してきました。一流ダンサーが在籍しているアメリカ屈指のバレエ団であるだけに、レッスンのレベルの高さを実感して大いに刺激を受けました。今の自分の技術に慢心することなく、更に高いレベルのバレエ団で活躍できるように頑張りたいと思っています。将来的には、アメリカで指導できる資格を取得したいですね。そして、日本でバレエを教える立場になれたらいいですね。ピアノを専門とする姉と共同スタジオを持つのも私の夢。生徒たちに囲まれながら大好きなバレエを教え、そして自分自身も踊り続けていく。そんな人生を送ることができたら幸せですね。


猪俣 陽子 (いのまた ようこ) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

サンディエゴ・バレエ団所属バレリーナ。1977年9月22日東京都生まれ。8歳よりバレエを始め、16歳の時にローザンヌ国際バレエコンクールに出場。 昭和音楽芸術学院バレエ科卒業後、1998年スターダンサーズ・バレエ団に入団。2002年サンディエゴ・バレエ団に入団し、日本とサンディエゴを往復し ながら数多くの作品でソリストとして出演する。2003年8月の第36回埼玉県全国舞踊コンクールで読売新聞賞受賞、2004年5月の第2回横浜バレエコ ンクールで3位入賞など、各コンクールで輝かしい成績を収める。2004年10月より活動拠点をサンディエゴに移し、現在プリンシパルダンサーとして活躍 中。
チケットの購入・お問い合わせはhttp://www.sandiegoballet.org へ。


(2005年1月16日号に掲載)