Thursday, 21 November 2024

ゆうゆうインタビュー スタン・サカイ

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あなたの経歴について話して下さい。

私は日系アメリカ人3世です。私と兄は京都で生まれ、ハワイで育ちました。父はハワイ出身で、戦後日本に配置され、そこで長崎出身の母と出会ったのです。私が今でも覚えているのは、京都の手塚治虫プロダクションを訪れて、近所の神社に立ち寄ったことを母に話した時、母は「あなたはそのすぐ近くで生まれたのよ」と言っていました。ハワイへ移った私たちは、古い映画館カパフルシアターのすぐ近くに住みました。そこでは毎週土曜日になるとチャンバラ映画を上映しており、私は毎週通いました。今では信じられませんが、当時の入場料はわずか25セントだったのです。私は三船敏郎の古い作品や、「7人の侍」に始まる黒澤映画をすべて観ました。私のお気に入りは、内出好吉監督の3部作「里見八犬伝」でした。今でもオリジナルのコピーを持っていたらも思います。他の2バージョンは持っていますが、当時私が見ていた1959年製作のものは、今だに探している最中です。



——芸術家やマンガ家になりたいと思っていましたか?
 

小学校のころから常に絵を描くことが好きだった私は、コミックも好きで、何でも描いていました。学校では私はクラスの絵描き上手の1人で、いつも何かを描いていました。カイムキ高校で私は始めてアートコースを選択肢し、その後ハワイ大学で美術を専攻しました。私の日本人の両親は常に「アーティストとして生活してゆくことはできない」と警告していました。彼らは私にコンピュータ・プログラミングやアカウンティングなどに興味を示して欲しかったのです。経理士だった父はいつも「ホテルの仕事に就かせてやる」と言っていました。マンガで成功を収める前、私はフリーランスとして働いていました。最初は大変でした。私はコマーシャル・アートや広告、本のイラスト、レコードアルバムのカバーなどを手掛けました。私はパートタイムでも何かマンガをやりたいと願っていました。コマーシャルの仕事と協力して出来る何かを…。そして、「兎用心棒」が誕生し、全てがマンガの仕事になったのです。


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Jotoro and one of Stanʼs dynamic dinosaurs trying out for the Olympics?
—— 芸術家になることに対して両親の理解を得るまでは時間がかかりましたか?

彼らが私の仕事を受け入れたのは、ハワイで最初に本のサイン会を開いた後だったと思います。私のマンガ「兎用心棒」が登場した当時、私は数年間フリーランスの仕事でカリフォルニアに住んでいました。全てが上手く進んでおり、ハワイの本屋から電話でサイン会に招待されました。父はこの機会に私に会いに行こうと考えていました。混雑するとは考えていなかったと思います。ところが、長い行列が出来ていたため、彼は店に入ることができませんでした。この出来事が彼が私を認めたきっかけだと思います。


—— 子供の時、お気に入りのコミックや影響を受けたものは何でしたか?

スパイダーマンです!私はスティーヴ・ディッコの作品や「ファンタスティック・フォー」が大好きでした。私はスタン・リーとジャック・カービーの古い作品を読んで育ちました。そして、今現在私はスタン・リーと共に仕事をしているのです。私は新聞掲載用のスパイダーマンのレタリングを20年間行っています。それはとてもスリリングなことです。なぜなら、私にとってスタン・リーという人はコミック界の第1人者であるからです。ある日彼は電話で「やぁ、スタン。私はスタン・リーだけど、文字を入れる人が必要なんだ。こっちへ来ないか?」と言いました。実際の彼は伝えられている通りの人物です。とても生き生きとして、エネルギーに満ちあふれています。本当に素晴らしい人です。一度、私はスタンに息子がマーヴェリックのキャラクターをとても気に入っていると言う話をしました。すると翌日、UPSによっておもちゃなどが入った大きな箱が届けられたのです。私の仕事で素晴らしいことのひとつは、私が昔ファンだった多くの人々と、現在一緒に仕事が出来たり、ウィル・アイズナーやリン・ジョンストン、セルジオ・アラゴネスなどのように友達になったりすることができることです。セルジオは私の親友の1人であり、子供の頃のヒーローでもありました。恐らく彼は「マッド」マガジンの作品が最も有名です。彼は1964年以来、毎号登場しています。現在、私たちは共同で彼のコミック「グロー・ザ・ワンダラー」を手掛けています。彼は本当にいい奴です。私は常に弱点を抱えた人間という設定のキャラクターが好きでした。「兎」も多くの弱点を持っています。彼は修行者として旅をしながら武士の道を学び、それらと関わっていかなければならないのです。


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A more serious side to Miyamoto Usagi.
——「兎用心棒」は現実の侍がベースになっていますが、このアイデアはどうやって生まれたのですか?

私はサムライ映画を観、コミックブックを読みながら育ちました。そのため、私はスーパーヒーローを描きたいと思っていましたが、同時にサムライの物語についても調べていたのです。そして17世紀に実在した侍、宮本武蔵の人生をベースにしたシリーズを描きたいと考えてました。ある日、私はスケッチをしているとき、耳を縛った兎を描きました。私はそのデザインが気に入ったため、宮本武蔵の変わりに、悪と戦い、悟りを求めながら全国を渡り歩く、主人の居ないサムライ・ウサギ、宮本兎を誕生させたのです。それは、突然私の頭にひらめいたというわけではありません。それ程単純ではありませんでしたが、私はこのアイデアが気に入り、いったん「兎」を描き始めると、自ずから道が開けてきました。私が「兎」シリーズで創造した多くのキャラクターたちは、歴史上の人物がベースとなっています。


—— ストーリーラインはどうやって作りだすのですか?

すべてのもの、あらゆる場所からです。「兔」が私のスケッチから誕生したようにある時はスケッチから、ある時は読書またはテレビからなど、アイデアはあらゆる場所からやって来ます。私は日本や日本の民族学についての大きな書庫を持つほど、多くの書物に目を通します。同時にテレビをよく観ます。私はドキュメンタリーが好きで、時には日本のテレビも観ます。そのため、アイデアはどこからでもやって来るのです。私自身が日系アメリカ人で、日本の影響を強く受けたハワイで育ったにもかかわらず、一歩一歩前に進むという感じで、物語のためには多くの調査を行わなければなりません。なぜなら私はその時代や文化に住んだことがないためです。私は出来るかぎり道理にかなった、史実に沿った物語を作りたいと思っています。中には数ヶ所芸術的許容を加えた箇所もありますが、侍や武士道といった重要な部分は特に正確に描こう思っています。同時に、できる限り物語と共に注釈や参考文献一覧を導入しようと考えています。


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Stan hard at work putting together another of Usagiʼs fabulous.
—— お気に入りの物語はありますか?

私の好きな物語の一つは「ザ・カイト・ストーリー」です。この話は私が日本の凧作りの本を購入した後に登場します。3年後、「兔」が凧を飛ばしている場面をスケッチし、「兔」が凧の祭りに参加するというアイデアを思いついたのです。それから、私はさらに研究を行い、描き始めました。しかし、実際に完成するまでには何年もかかかりました。物語はある田舎に実在した凧の祭りを題材にしています。そこの君主は灌漑用の水路の建設を民に命令しました。そして完了後、凧揚げの日を設定し、人々にその日を寛ぎの一日として与えます。しかし、それは同時に、凧を飛ばす人々によって水路の土手が踏みつけられ、築堤を頑丈にするということも意味していました。私はこの素晴らしい物語を、作品の一部に取り入れたのです。同時に、大凧と呼ばれる40フィートもの巨大な凧の、和紙の作り方から竹の加工などといったすべての製作過程を盛込みました。

物語を簡単に言うと、祭りの間、賭博師たちがやって来て、祭りの主催者たちからお金を騙し取り、そこへ「兔」がやって来るという内容です。凧製作者、賭博師、そして「兔」の3つの観点から描かれた複雑な物語です。最後は町の人々は賭博師達を追い払い、賭博師達は「兔」を追い払います。「兔」は巨大な凧で素晴らしい逃走を行うのです。この製作はとても楽しいものでした。一番大変だったのは、当時賭博師たちがどのようにして騙していたかという部分です。凧の製作についての本は数多くあったのですが、日本社会の怪しげな部分について書かれた本はあまりないのです。そのため、私は古い座頭市の映画などから識見を得ました。


—— 「兔」は単なる仕事ではないのですね?

とんでもない!私はこの「兔」を製作することを愛していますし、本当に好きなことをできるという環境に感謝しています。翌月どうなるか確かではありませんが、私は現在10年先のプロットのアイデアまであります。私のスタジオは自宅にあります。そのため子供が小さいころ、私が専業主夫でした。子供たちは私のひざの上で私のドローイングを観て育ちました。多くのページの裏には彼らのスケッチもあるのです。


——子供にとってマンガ家の父親を持つのは夢のような出来事でしょうね?

はっきりとは分かりませんが、そうではないようです。彼らにとって私はただの親なのです。かつて娘のハンナに誰かが「スタン・サカイの娘でいるのはどんな感じ?」と訊ねたことがあります。彼女は「ただの父親」と答えました。彼らにとっては何も特別なことではないのです。


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Usagi with Jotoro on his shoulder starting out on a new adventure.
——アイデアを物語に発展させる時、決まった手順や方法がありますか?

はい。最初は、すべてのアイデアを集めます。そしてアイデアのひとつ得たとき、それを書き起こし、1~2ページからなる始まりと中間、ラストまでのラフ・ストーリーのアウトラインを作ります。アクションの描写とともにダイアローグの修正を行う場合もあります。その後、サムネイルを製作します。サムネイルは何インチかの小さな長方形の中にラフなスケッチを描き、その横に会話を書き入れます。ここから私はペンを使います。このやり方が私には一番適しているようです。すべてのアーティストたちがそうであるように、私は常に新しいものを開発しています。20年間で私のキャラクターたちも成長し変化しました。ほとんどの部分は無意識ですが、私のアーティストや物語作家、人間としての成長が影響していると思います。そして「兔」自身も彼の人生を背負っている感じがします。


—— 「兔」の製作中はそのキャラクターにのめり込んでいますか?

いいえ(笑)。私は「兔」を愛していますが、それほどではありません。キャラクターの目を通してものを観るという人もいると聞きましたが…。もし、私が忙しい冒険劇を作りださなければ、そうなることが出来るかもしれません。


—— ビジネスの面で、大手の出版社と仕事をするよりも、独立しているの方を好みますか?

独立してコミックを作るということは、すべての創作過程をコントロールできるということです。よい面も悪い面も含めてですが、それが私には合っています。私が感じたままに物語を語る自由を与えられるからです。唯一の制限は私自身が自らに課したことのみです。他の分野のアーティストと話をすると、主流のコミックでさえ、時折さまざまな要因で、彼らの創作ヴィジョンを妥協しなければならないようです。一方、私は私自身が好きなように完全にコントロールすることができます。そして、それに応えてくれる読者に感謝しています。また、共に働く人々も素晴らしい手助けをしてくれています。


—— 「兔」は「スペース・ウサギ」としても登場しましたが、その他の異なった「兔」の計画がありますか?

「スペース・ウサギ」は、オリジナルの「兔用心棒」の未来の末裔を描いたものです。彼が登場したのは、私が恐竜を描くのが好きだったからです。私は「兔」を描くことも好きだったので、時間を先史時代に遡るか、あるいは未来で恐竜の惑星を訪れるかという設定で、両方を同時に描く事にしました。そして未来の方がより楽しいように思えたのです。


—— 「兔」が現代の日本へやって来るということをイメージしたことはありますか?

いいえ(笑)!私は多分現代の日本より古代の日本についてのほうが詳しいのです。かつて、21世紀の「兔」の子孫を創作しましたが、彼女は女性調査リポーターでした。



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Stan and his creation at his 27th San Diego Comic-con.
—— 「兔用心棒」20周年記念を通じて、何か特別なプランはありますか?

今シーズン、「兔」はTVシリーズ「ティーンネイジ・ニンジャ・ミュータント・タートルズ」に再び登場する予定です。「ビッグ・ブロール」という4つからなるエピソードです。「兎」はコミックで彼を助けるキャラクターたちとともに、次のシーズンにも登場します。ニンジャ・タートルズのひとりレオナルドが「兔」の世界へ行き、他の世界から攻撃されるというストーリーです。これらは連続コミック用に作られた「兔」の話とは別ですが、とても楽しい物語となっています。また、幾つかの新しいおもちゃとともに、ハードカバー・卓上用大型豪華本「アート・オブ 兔用心棒」が出版されます。綺麗なカラーセクションも含めた全200ページです。私が一番興奮しているのは、ゲストによるセクションです。「兔」がセルジオ・アラゴネスやフランク・ミラーなどの人々によって描かれているのです。


—— 「兔」の映画化やTVシリーズ化を考えたことはありますか?

定期的にスタジオから映画やTVシリーズからの誘いがあります。その幾つかは興味深いもので、実現しなかったことを残念に思ったプランもありますが、今はまだ気の合うプロデューサとコネクションがもてていないのだと思います。


—— 世界中で人気がある「兔」は、侍の国、日本ではそれ程ではないと聞きましたが…。

アメリカンコミックが日本の市場に少しでも影響を与えたことは今までありません。日本市場向けのマーヴェル・コミックがいくつかありましたが、どれも長続きしていません。おかしなことですが、「兔」はヨーロッパではよく売れています。ヨーロッパ各地の人々は「兔」をこよなく愛しており、ポーランド語やクロアチア語など、10もの異なった言語で出版されています。


—— 「兔」は何カ国もの言葉を流暢に話すわけですね?

彼は私よりも多くの言語を話します。実は、私は今年10月と今年後半にポーランドへ、11月中旬には妻とともにスペインへ行きます。


—— 仕事ですか?

そうです(笑)。私たちは幾つかの素晴らしいフェスティバルにゲストとして呼ばれており、仕事と同時に多くの遊びも混じっています。私は旅行が好きなので、これはとても喜ばしいことです。


スタン・サカイ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

日本の京都生まれ。ハワイで育つ。その後、フリーランスのアーティストとしてキャリア追求のため、カリフォルニアへ移住。ハワイ大学で美術の学位を取得 後、カリフォルニア・パサディナのアートセンター・カレッジで引き続き学ぶ。自身のコミックを発表する前に、1984年アルベド・コミックに初めて登場し た「兔用心棒」で注目を浴びる。「兔」のキャラクターは「ティーンネイジ・ミュータント・ニンジャ・タートル」ショーに出演し、洋服や印刷物にも使用され ている。サカイ氏は日曜新聞に掲載された「スパイダーマン」の数コママンガや、セルジオ・アラゴネスの「グルー・ザ・ワンダラー」でレタリング賞を受賞。 また、作品はペアレンツ・チョイス・アワードやインクポット・アワード、多数のアイスナー・アワード、2つのスペイン・ハクスチャー、アメリカ図書協会賞 を獲得している。2003年には国際マンガ家協会部門賞を受賞。現在、彼の作品はダーク・ホース・コミックやファンタグラフィック・ブックスより出版され ており、19巻目を迎える。今年は「兎用心棒」20周年記念として「ティーンネイジ・ミュータント・ニンジャ・タートル」の新しいTVシリーズに登場す る。また、新しいアクション人形やハードカバー卓上用大型豪華本「アート・オブ 兔用心棒」が発売される予定。彼の作品は国際的に有名で、サンディエゴの コミックコンに始まり、スペイン、ノルウェー、フィラデルフィアなど世界各国で開催されるコミック・フェスティバルにゲストとして参加している。1998 年には手塚治虫スタジオの名誉ゲストとして日本へ。東京で開催された第3回日本・北米マンガ・コミックシンポジウムで西洋マンガ家3名のうちの1人として 招待される。現在、妻シャロンとハンナ、マシューの2人の子供とともに、カリフォルニア州パサディナ在住。

スタン・サカイと「兔用心棒」についての詳細はhttp://www.usagiyojimbo.com まで。



(2004年10月1日号に掲載)