—— アメリカでもブームとなっている漢方について教えて下さい。 漢方薬とは数千年の歴史と経験がその効能効果を証明している生薬 (しょうやく) を組み合せて作られた薬です。漢方の基本理論は 「病状の悪化を抑える」 よりも 「人間が本来備えている自然治癒力を増進させて、健康体にする」 ことにあります。自然の草根木皮から作られる漢方薬には副作用がほとんど無く、WHO (世界保健機構) や世界の医学界から注目を受けるようになりました。1993年、ハーバード大学医学部のアイゼンバーク教授らは、米国人の3人に1人は西洋医学以外の療法を使用していると発表し、全米から強い関心を集めました。アジア社会のみならず、米国も年々漢方ハーブの消費量が増加しているのは事実です。民間薬と混同されやすい漢方薬ですが、例えば、民間薬はその多くが単一生薬か薬草を使用しているのに対し、漢方薬は2つ以上の生薬を調合したものであったり、漢方薬は2つ以上の生薬を組み合わせて調合することにより、薬害成分の毒性を消すと同時に有効成分の薬効を高める作用があるなど、漢方薬と民間薬とは質的に異なるものなのです。また、民間薬は口授によって伝えられたものなので、誤伝の恐れも多いのですが、その点、漢方薬は5,000年以上の歳月と幾百億人の治療記録に基づくもので、有名な漢方古典書に 『神農本草経』 『本草綱目』 『傷寒論』 『金匱要略』 などがあり、長年の経験の積み重ねによる信憑性のあるものです。 ——漢方医学と西洋医学の大きな違いとは何でしょうか。 漢方医学と西洋医学の大きな違いを簡単に言えば、西洋医学は単一の科学薬品で病気の症状を抑えるか治していくのに対して、漢方医学では病気の症状を癒すと同時に、体の免疫力を増強して回復力を高めていく治療医学とも言えます。即ち、西洋薬は単一化合物であるのに対して、漢方薬は症状を癒す成分と病気に対する抵抗力である体の免疫力を増強する成分が一緒に含まれている天然物の複合体です。有害成分の毒性を消す成分も含まれているので、漢方薬に副作用がほとんど無いのはこのためです。1960年以降、中国では漢方医学と西洋医学の優点を併せて応用し、患者に 「より良い治療」 を与えることを目的とした 『中西医結合』 の促進が図られてきました。日本では1976年に健康保険薬として認可された漢方ですが、中国や日本では、特に難病と慢性疾患に副作用の多い西洋薬を長期服用させるよりも、副作用が極めて少ない漢方を使用して患者が被る薬害を抑制することに重点が置かれています。中国全土で一般化されてきた 『中西医結合』 医療法として、症状を早急に緩和するために西洋薬を先に使い、症状が和らいだ時点で漢方を使用することもあります。現在では、ガンの放射線治療や化学療法で起こる重篤副作用を取り除く目的で漢方を併用することが多くなりました。 —— 台湾での少年時代に抱いていた夢とは。 青少年時代の私には 「将来何になりたい」 という夢を考える余裕がありませんでした。と言うのも、私は満州事変の翌年1932年に台湾で生まれ、5歳の時に日中戦争を迎えました。その2年後にはノモンハン事件 (1939年に日ソ両軍が衝突した満州-モンゴル国境紛争事件) が起こり、1941年には太平洋戦争が勃発したのです。1945年、私が中学1年の時に終戦となり、日本から領有権を得た蒋介石率いる中華民国 (中国国民党) の台湾統治が始まりました。しかし、国民党官僚の腐敗ぶりは凄まじく、犯罪が横行する中、民衆は食糧不足で生活苦に喘ぎ、1947年に人々の不満は 「228事件」 として爆発しました。その後、共産党との内戦に敗残した国民党は台湾へ渡り、中華民国の政権を樹立しました。政治的には蒋介石の独裁色が前面に出た強圧的な政権となり、反体制派と見なされたものは事実の有無を問わず秘密警察に摘発され、不当な取調べと拷問を受けた揚句に処刑された者もいたのです。こうして、幼少期から青年期にかけて戦争の動乱の渦の中で育ち、自分も殺されるかもしれないという恐怖に怯えながら生きていた私達にとって、唯一の希望は台湾を脱出することでした。それには留学が最も近道であり、当時は年間1~2万人の台湾青年が留学という形で米国へ渡ったと言われています。 —— ご自身も台湾脱出の手段としてアメリカ留学をされたのですか。 当初はそのつもりでした。酒造りなどに関する発酵工学を専門にしていた父親の影響を受け、私自身も台湾の大学では農芸化学を専攻して発酵工学を学んでいました。大学卒業後に2年間徴兵されましたが、私も大学院留学を目指し、イリノイ大学、カンサス大学、カナダのマクギル大学の3校の奨学金留学試験に合格することができました。ところが、バックパックを背負っていざ出発という時に転機が訪れたのです。送別会の席で、同級生の1人が 「なぜ日本に留学しないのか」 と私に尋ねてきました。実は、東京大学の留学試験にも合格していたのですが、奨学金が支給されないことから、お金に余裕の無い私は日本行きを諦めていたのです。その話を聞いた友人は 「都合がついた時に返してくれればいいから…」 と留学費用を貸してくれたのです。日本の台湾統治時代には日本同化政策が行われていましたので、私達は中学1年まで日本語で学校教育を受けていました。中学2年より大陸の言葉である北京語教育に変わりましたが、日本の書物を読み続けていた私はある程度日本に対してロマンを抱いていました。頭の中に明治、大正、昭和初期の学生生活のイメージを思い浮かべながら、一度日本を覗いてみたいという気持ちが強かったのです。優しい友人の協力に加えて、今、チャンスを逃したら二度と日本での学生生活を味わえないだろうと思い、半年だけでも日本で勉強してから米国へ向かおうと1960年9月に日本へ渡りました。 ——念願の日本での生活は如何でしたか。 日本行きを安易に考えていた私は大変な目に遭ってしまったのです。予算的に日本滞在は約半年になるだろうと思っていましたので、渡日してすぐにアメリカ留学の手続きを開始しました。学生ビザ取得のためにアメリカ大使館へ向かうと 「このパスポートは日本行きのみになっているので、中国大使館での米国行きスタンプが必要です」 と言われたのです。当時、学生の思想管理が行われ、誰が何処に行くのか厳しく管理されていました。何も知らなかった私は、スタンプくらい直ぐに押してもらえるだろうと思い、早速中国大使館へ向かいました。ところが、留学生の思想管理を担当している文化参事処へ向かうと、スタンプを押してくれないだけではなく、「一番良い東京大学をなぜ辞める」 「お金が無いから」、「国民党へなぜ入党しない?」 「自分は化学を学ぶ者だから政治には興味が無い」 といった問答がひたすら続きました。結局、半年間も大使館に通い続けたのです。彼らが何を狙っていたのかは今でも疑問ですが、恐らく私の所持金が無くなるのを待って私自身をスパイに仕立て上げようとしていたのでは…とも思いますね。実際に 「月100ドル渡す。金を出す所がある」とまで言われたんですよ。勿論断りましたが、もう本当に所持金が底を突いて困り果てていたある日、いつものように大使館から学生寮へ戻ると、元アジア学生文化協会理事長であり、当時の寮監だった穂積五一 (ほづみ・ごいち) 先生と他の留学生がロータリークラブの奨学金について話しているのを偶然耳にしたのです。学生が去った後で先生に話を聞くと、留学生である限り、誰でもその奨学金に応募できることが分かりました。そして、自分の現状を話すと先生が自分も推薦して下さるということになり、それからとんとん拍子に話が進んで月100ドルの奨学金が支給されることになりました。当時は研究室助手の月給が50ドルでしたから、周りからは 「貧乏学生から貴族留学生になったね」 などと言われました。奨学金ももらえることだし、米国留学は焦る必要はないだろうと考え、そのまま日本滞在を延長しました。そして修士課程を終了した1963年、この頃既に文化参事処は閉鎖されていたのでスタンプは即日発行。最後まで奨学金を用意して待っていてくれたカンサス大学へと向かいました。 —— 留学していた頃、既に漢方に携わっていたのですか。 いいえ。カンサス大学では微生物学修士、そして東京大学に戻って薬学博士を取得しましたので漢方とは無縁の生活を送っていました。その後、再渡米し、ニューヨーク、コネチカット州、ボストンで教鞭と研究に没頭する日々が続きました。そして1986年、学会でカリフォルニア州を訪れたある日、ロングビーチに漢方研究所を持つ台湾の漢方会社の社長から電話が入りました。1972年にニクソン大統領の訪中で漢方医学が米国でも注目を引くようになり、日本、台湾、香港、韓国からも多くの漢方会社が漢方薬の普及を目指して米国へ渡って来ました。ところが、難解な漢方用語と英文翻訳の不統一や分かり易く説明された本が存在していないことから、米国内では多くの混乱を招いていたのです。ビジネスを始めて10年というその会社も同じ壁に直面しており、打開策を模索していました。そして 「医学と薬学に通じて、日本語、中国語、英語に堪能しているのはあなたしかいない!」 と連絡を受けたのです。彼の熱意と 「台湾人のために一肌脱いで欲しい」 の一言に打たれ、私も漢方の推進に一役買って出ることになりました。努力は実を結び、100人に満たなかった漢方研究所発行の月刊誌の購読者数は半年足らずで2,000人へと増加しました。巡り合わせとは面白いものですね。これが、私が漢方の世界に入った機縁でした。 —— 日系社会と繋がりを持つようになった契機とは。 漢方に携わるようになり、1989年に免疫システムと関連性のある漢方薬をまとめた著書 『免疫と漢方』 を出版しました。この本は米国人向けに書いた英語版でしたが、漢字で書かれていた表紙を見て日本語の内容だと思ったのか、日本語テレビ放送局のユナイテッドテレビの方からゲストコーナーへの出演依頼を受けたのです。そして、番組内で本を紹介したところ、問い合わせの電話が殺到しました。この時に英語の著書であることを説明しましたが、多くの日系人が興味を抱いている事実を知りました。それから数日後、友人宅を訪問すると TV FAN のマネージャーの方も偶然その場に居合わせていました。友人が 「この人はユナイテッドテレビに出演した漢方の先生なんだよ」 と紹介すると、「是非、TV FAN に記事を書いて欲しい」 と頼まれ、後日、社長から依頼の電話を頂いたのです。こうして、他の日系雑誌 『ゲートウェイ USA』や 『U.S. Town Journal』、そして 『サンディエゴゆぅゆぅ』 にも記事を掲載することになり、現在では日系社会に関わる仕事が全体の90%に及ぶようになりました。 —— 今後の夢を教えて下さい。 1920年代に北京大学で白話文学運動を提唱して中国に文学革命を起こした胡適 (こてき) の父親、胡鉄花 (こてっか) は清朝末期に台湾の台東で県知事と軍総司令官を務めていた人物なのですが、私の祖父は彼の秘書長をしていました。そして、私の祖母は台湾原住民である高砂族の8つの言葉を操り、住民から大変慕われていました。それは祖母が県知事の秘書長夫人であるからだけではなく、漢方を熟知していたからなのです。病気になると天を仰ぐ以外に術 (すべ) の無い原住民に対して、祖母は薬草を摘んできては病人の治療に当たっていましたので、いつしか神様のように慕われ、行く先々に人々が集まるようになりました。歩いて山へ行き、1日掛かりで薬草を採取してくるのに1銭も受け取ろうとしない祖母を見ていて、幼い私は「手間賃くらいはもらえばいいのに…」 と思っていたものでしたが、「お金を取ったら善ではなくなる」 と言っていた祖母の気持ちが漸く私にも理解できるようになりました。そして、朱子が小学 (孔子や孟子の先儒の教えや先覚者達の足跡を訪ねて、その中から模範となるテキストとして編纂した書物) の中で言った言葉 「善は小なるを以って為さざることなかれ」 は、現在の自分の生き方に深く繋がっていると思います。どんなに小さなことでも善は善。今後は、人々に役立つ本を1冊でも多く出版すると同時に無料漢方相談を続けていくなど、どのような形であれ善行を続けていけたらと思っています。 (2003年10月16日号に掲載) |