—— 今回のサンディエゴ訪問の目的とは。 この度、サンディエゴ・ティファナ日本協会よりビジネスリーダーシップ賞を頂き、その授賞式に出席するためにサンディエゴに来ました。初めてサンディエゴを訪れたのは1972年、33歳の時でした。日本のソニーで人事・労務を担当していましたが、ソニー初のアメリカ進出となったサンディエゴ工場立ち上げの任務を与えられて副工場長として赴任し、15年間滞在しました。今でも娘夫婦や多数の友人がこちらにいますので、年に4、5回は遊びに来ているんです。日本で太陽を浴びることがほとんど無いので、サンディエゴに来るとこの日差しが嬉しいんですよ。 ——ソニー入社の契機について教えて下さい。 周りでは就職活動が盛んに行われていた1961年大学4年の夏、私には日本の企業に就職する気は無くどうすべきか悩んでいました。大学ではアメリカ会社法やアメリカ憲法を学んでいたので、とにかく日本を飛び出て海外に携わる仕事がしたいと思っていたのです。そんな時、ソニーが日系企業として始めて ADR (アメリカ預託証券) を発行し、外国資本調達の試みが開始されたという新聞記事を目にしました。この話に興味を持った私は直接聞いてみたいと思い、フラっとソニー本社へ向かったのです。すると、入社希望者が資料請求に来たと勘違いされ、当時副社長であった創業者の盛田昭夫さんの部屋へ通されてしまいました。思いがけず盛田さんから面接を受けるような形になってしまい、30分程話をしたところで「面白い奴だ。うちに来いよ!」と誘いの言葉を頂いたのです。そして、「じゃ、入ります」と返事をし、就職試験もせずにポンと入社してしまったというわけなんです。 —— その後、サンディエゴ駐在となった経緯を話して下さい。 国際的な仕事がしたくて入社したはずが配属先は人事・労働関係の部門。仕事は面白くなく、入社1年後にソニーを退職するつもりでした。すると、幸運にも社内公募の米国コロンビア大学ビジネススクール留学に選ばれ、1年間の渡米のチャンスが与えられました。退職の件は一旦白紙に戻していたものの、日本へ帰国して元の生活に戻ってみると、やはり海外に出たいという気持ちが強くなっていったのです。しかし、会社から多額の留学資金援助をしてもらう代わりに帰国後はそれなりのお礼奉公をしなくてはならず、直ぐに退職というわけにはいきませんでした。そして、世界的なコンサルティング会社であるマッキンゼーに入社できるかもしれないという状況にもなり、お礼奉公期間が終了したら退職する決心はできていました。すると「いよいよサンディエゴに工場を作るから行かないか?」と、突然に盛田さんから電話が入ったのです。アメリカでしょ、もう嬉しくてね。世界のトップが集まる国で自分がどれだけやれるか試してみたいという意気込みで1972年にサンディエゴへ渡りました。 —— サンディエゴへ渡ってから苦労したことは何でしょう。 仕事に関して言えば人員採用でしたね。日本からやって来たのは工場長、経理、エンジニアと私を含めた合計8名。他は現地採用でしたので「どうやって社員を探そう」からのスタートでした。責任者はある程度マネージメントの能力がある人を採用しなくてはいけませんでしたから、「この人は本当に出来るのだろうか?」という判断は難しいものでした。今でこそソニーは有名ですが、当時、企業のブランドは3流、4流でしたので、大卒者の応募などありませんでしたね。それでも社員を無事に確保し、初の本格的な海外生産工場の試みということで毎日試行錯誤しながら努力してきました。 ——15年に渡るサンディエゴ駐在を終えて日本へ帰国されたのですか。 その後、1987年にソニーのブラジル法人社長に就任し、48歳から58歳までの10年間をブラジル・サンパウロで過ごしました。私の妻はアルゼンチン人なのですが、母国が隣国ということで彼女は大変喜んでいました。 仕事の面では大分苦労しました。製造だけを担当していたサンディエゴ時代とは異なり、部品の設計、製造、販売まで全てを任されるようになりました。カントリー・マネージャーとして全責任を背負っていましたので、「ブラジルの景気が悪いから売れなかった…」という理由は決して許されなかったのです。インフレ率が高い時期は大変でしたが、1994年から3年連続で社長賞を頂くまでになりました。この頃、ブラジルのボトムライン (決算) はソニーアメリカ全体よりも上回っていましたね。 —— アルゼンチン出身の奥様との出会いを話して頂けますか。 コロンビア大学へ留学する前に、カリフォルニア大学バークレー校のエクステンションコースで6週間ほど英語を勉強しました。妻はその時のクラスメートだったのです。彼女は高校を卒業してすぐにアルゼンチンから渡米してきたというのに、日本の大学を卒業している私と英語のレベルが一緒だったということです。いかに日本の英語教育のレベルが低いかが分かりましたね…。私は以前からスペイン語に興味を持っていて、アルゼンチン・タンゴも好きでトリオ・ロス・パンチョスはよく聴いていました。そういった部分で彼女との共通点があり、お互い付き合うようになりました。自分はまだまだですが、少しでも国際的な人間になれたのは彼女との出会いがあったからだと思っています。 —— アメリカとブラジルの25年に渡る海外生活の中で得たものとは。 そうですね…33歳から58歳までを海外で過ごしましたので、私は日本のビジネスマンの常識というものを案外知らないんですよ。例えば、カラオケに行ったことはありませんし、銀座のバーやクラブで遊ぶなんていうことも一度も経験したことが無いんです。日本だったら「ゴマ擦り」なんていうことも時には必要だったりするんでしょ (笑)。 私の場合、そういったことは一切無縁の環境の中で過ごしてきました。盛田さんにしてもサンディエゴ時代の工場長にしても、私の上司は割合に好きなことをさせて下さり、その上、自分の話をきちんと聞き入れてくれる方でした。組織の中に埋もれるということはありませんでしたね。私は現在64歳ですが、年齢よりも若そうだと言われることがあるのは、若い頃にそういった苦労をしていないからでしょうか… (笑)。 —— ご自身に多大な影響を与えた人物はいますか。 私の父親ですね。高等小学校を卒業し、丁稚奉公に出て大阪で繊維卸の商売を始めた父は、コンプレックスを感じていたのか「勉強の重要性」と「読書の大切さ」を子供達に教え、必ず自分の意見を持つよう言い聞かされてきました。例えば、「友達がスキーに行くから自分も行きたい」と言っても絶対に許してくれませんでした。「友達」や「学校のみんな」ではなく「誰と誰と一緒にスキーに行きたい」と明確に伝えなくてはいけないのです。そして、必ず予算を立てるよう言われ、帰った後もそのままにしておくと「おい、お前どうだった。精算しろ」と言われましたよ。 こうして成長してきた私は、高校生の時に生徒会長を経験したことがあったんです。私の通っていた高校は共学でありながら男子だけ修学旅行が無いんですよ。それと、定時制はストーブを使用しているのに私達全日制には真冬でもストーブ禁止なんです。これは自分が変えなきゃと思って生徒会長になったのですが、結局は「修学旅行に行けば勉強が怠るし、女子の部屋に入って大変だ」「社会人である定時制の生徒は責任を持ってストーブを消すが、君達は消し忘れるだろう」という学校側の理不尽な理由により、どちらも却下されてしまいました。修学旅行に行けなかったのは残念でしたね。女子から男子生徒に絵葉書が届くのですが、「お前何枚もらった?」と言い合いながら羨ましがっていましたよ (笑)。 —— これまでの人生で印象に残った出来事を教えて下さい。 1999年のある日、出張でフランスへ向かうためにエールフランス航空に乗り込んだ時、日産自動車社長であるカルロス・ゴーン氏が目の前に座っていたのです。まだ来日したばかりのゴーン氏でしたが、新聞やニュースで取り上げられていましたので直ぐに彼だと気付きました。面識は全くありませんでしたが、ブラジル出身のゴーン氏に私がポルトガル語で話し掛けたところ喜んでくれたんです。その後、搭乗するはずの航空機にトラブルが見つかり、その日のフライトはキャンセルになってしまいました。仕方なく一晩成田で宿泊し、翌日に私はフランクフルト行きのルフトハンザ航空に乗り込みました。すると、再びゴーン氏が同じフライトに乗り合わせていたのです。これを機にお互い親しくなり、今では大切な友人の一人です。面白いことに、彼も今年ソニーの社外取締役に選任されたんです。これは不思議な縁ですよね。 —— 今後の夢を教えて下さい。 今年6月より、教育事業が売上の約8割を占めるベネッセコーポレーションの社長兼 COO に就任することになりました。嬉しいことに、自分の夢と仕事としての目標が最近一致してきたのです。私は今の日本の若者に対し、このまま将来を任せていいのだろうかという危機感を持っています。こうなったのは日本の教育に問題があり、教育制度を根本的に変える必要があると思っています。例えば、世界では「もっと勉強しましょう」と言っている時に、昨年日本で導入された「ゆとり教育」による学習内容削減などは文部省の無責任さが現れているように思います。今後は、間違った環境下にいる子供達の教育を立て直す手助けをしていきたいと考えています。 私は仕事一筋の人物に見られがちですが、そんなことないんですよ。仕事を通じて知り合った人達と仕事を離れて楽しくしている時間が好きなので、今、夕食はほとんど自宅で食べていません。また、週1、2回は若い社員と食事をして、コミュニケーションを通じて彼らの考えを吸収するようにしています。今でも現役として仕事を続けていられる自分は本当に幸せです。現在でもラホヤに自宅を所有しているので、いつかリタイアできたら再びサンディエゴで暮らす日が訪れるかもしれません。 (2003年11月1日号に掲載) |