Monday, 15 April 2024

ゆうゆうインタビュー 丸山裕子

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デビュー CD アルバム「In Tone Nation」 (イントネーション) について話して下さい。

このアルバムのレコーディングは2000年に行われ、翌年に発売される予定でした。ところが、ある理由で2001年秋に延期されることになり、さらに9月11日のテロ事件発生により結果的に2002年の発売となりました。 全て私のオリジナル曲を収録していますが、大半は大学時代に作り上げた曲なのです。曲の多くはラテン調のリズム。ドラマーはベネズエラ出身の優秀なスタジオ・ミュージシャンですし、ブラジル出身のパーカッション奏者も素晴らしい才能の持ち主です。私の音楽はコンテンポラリーと言えるのかもしれませんが、皆それぞれ考えは異なりますので正確にはどうでしょう。「ラテン・ジャズ」に分類されるのでしょうか。


——アルバムタイトルの由来は。

実は、単なる語呂合わせなんですよ。カワイピアノから誕生した「シゲルカワイピアノ」を使用し、その綺麗な音 (イントネーション) を聞いて欲しいという意味も含めてこのタイトルに決めました。タイトルの「In Tone Nation」自体に特別な意味は無いのですが、単語を合わせて発音すると“intonation” (イントネーション) となるのです。


—— 音楽を始めた動機は。

私は5歳の時にピアノを習い始めました。昔から熱心な音楽愛好家でコーラスグループに所属していた両親は、子供達に音楽のレッスンを受けさせたいと思っていたようです。ある日、私は母親の元へ行き「ピアノを習いたい」と告げたのです… 理由は、友達みんながピアノを習っているからというものでした。そして、両親に先生を探してもらい、ピアノを共にする人生が始まりました。


—— レッスン開始直後からピアノを好きになりましたか。

30_1.jpgピアノを始めた頃の記憶はあまり無いのですが、ある時期にピアノは退屈だと感じるようになりました。そして「ピアノを辞めたい」と母親に伝えたところ、凄い剣幕で怒られてしまったのです! その日以来、二度とその言葉を口にしないことにしました…。両親からプロへの道や音楽学校への入学を勧められたことはありませんでしたが、日本で生活をしていた頃はただひたすらレッスンを続けていました。


——尊敬するピアニストや理想とする音楽家の名を挙げると。

子供の頃はクラシックばかり弾いていたので、ジャズに対する思い入れはありませんでした。若い頃はピアノが自分に何をもたらすのかさえ分からず、好きな音楽家も特にいませんでした。誰もが習うモーツァルト、ベートーベン、ハイドン、ショパンなどの曲を勉強していました。ところが、高校時代のある日、父親が持っていたオスカー・ピーターソンのカセットテープを発見したことで、私の気持に変化が生まれました。オスカー・ピーターソンは長年活躍しているカナダ出身の素晴らしいジャズ・ピアニストで、テープから流れる彼の美しい音色を聞いた瞬間に衝撃を受けていました。この時、「私が求めていたものはこれだ」… 彼のようにピアノを弾きたい、彼の音楽をもっと学びたい… と思いました。本来なら、進路を決めるには遅い時機に達していたのですが…。


—— 東京の特別な学校でピアノを学んだのですか。

いいえ。ずっと個人レッスンを受けていました。毎週レッスンを受け、過去に2、3人の先生に教わりましたが、とりわけ優れた先生はいませんでした。レッスンを受けているだけという状態でしたが、先生達は私に甘かったのでしょう。そのうち自分の方向性を見失ってしまったのです。ピアノは続けていたものの、自分が目指すものが曖昧になってしまいました。私が5歳の時、私の兄にもピアノを教えていた最初の先生は、私に才能があると思い、音楽の道に進むべきだと母に話していました。


—— 子供の頃からピアノ演奏を聴く機会に恵まれていましたか。

鮮明に覚えていませんが、演奏を聴く機会はそれほど多くなかったように思います。印象に残るようなピアノ演奏を聴いた覚えはありませんが、コンサートや音楽会にはそれなりに行っていましたね。しかし、忘れられないステージではありませんでした。


—— 初めて自分のピアノ演奏を披露したのはいつですか。

生徒が日頃の成果を披露するピアノ発表会でしたね。生徒約30人の小規模なものでしたので、小さなホールを借りての発表会でした。それほどエキサイティングではありませんでしたが、その日を目指して練習を重ねました。私はシャイな性格なのに、今でも同じことが言えるのですが、ステージに立つと上手くピアノが弾けるのです… その後もステージ上では難なくピアノを披露してきました。


—— オスカー・ピーターソンのカセットテープとの出会いが、人生の分岐点になったと言えますか。

間違いなくそうですね! その時にクラシック以外のスタイルに挑戦したいと思ったのです。しかし、どうしても優れたジャズの学校や先生を東京で見つけることができませんでした。仕方がないので、自宅でアルバムやカセットテープを繰り返し聴きながら、曲をコピーしたり自分なりに編曲したりしていました。これが私がジャズを学んだ方法ですね。同時に、日本でジャズの指導やトレーニングを受けることは大変難しいので、こうすることでしか学ぶことができなかったのです。


—— オスカー・ピーターソンの他にも影響を受けた人物はいますか。

30_5.jpg当時、私が影響を受けたのはオスカー・ピーターソンのみで、彼のアルバムを集めるようになっていました。彼は数多くのアルバムを発表していて、私は全ての作品を聴きました。今でも私は彼の大ファンですが、他のジャズ・ピアニストではミッシェル・カミロも好きです。一般にはあまり知られていませんが、ジャズの世界では大変有名な人なのです。ドミニカ共和国出身でニューヨークを拠点に活動を続けています。オスカー・ピーターソンは伝統的なスタイルですが、ミッシェル・カミノはラテン・ジャズを特徴としています。また、南カリフォルニア大学時代の恩師であるシェリー・バーグ氏も大変素晴らしい方でした。彼は、「ミュージシャンになりたいなら、理由があるはずだ… 音楽とは単に自分のためにあるのではなく、ミュージシャンと観客との間に生まれるコミュニケーションと喜びなのだから」と指導してくれました。


—— 渡米の契機となったのは。

それこそ、偶然の好機到来というものでした。高校生の頃、日本での生活とテスト地獄に嫌気が差し、どこかへ脱出したいと思い悩んでいました。中学時代は成績も良かったのですが、高校に入学した途端、日本の教育方針や詰め込み方式の勉強が一体何になるのだろうと疑問を抱くようになったのです… そして、少し怠けるようにもなっていた私! 先生も厳格で、これ以上勉強するのが嫌になってしまい、音楽だけを考えるようになりました。すると偶然にも、銀行勤めをしていた父のロサンゼルス転勤が決まったのです。既に大学に進学していた兄はそのまま日本に残ることになりましたが、勿論私はアメリカ行きを選択しました。アメリカでどうなるのか、何が私を待っているのか予想もつきませんでしたが、とにかく日本を離れたかったのです。


—— アメリカの印象はどのようなものでしたか。

渡米したのは1985年で日本経済もまだ安定している時期でした。父は銀行で重役職に就いていましたから、私達はロサンゼルスで恵まれた生活をしていました。ハンコックパークの大きな家に住み、私は保護された範囲内で生活していたように思います。両親は私が大学寮で暮らすのではなく自宅から通学することを希望していましたので、近くの南カリフォルニア大学へ進学しました。カリフォルニア大学ロサンゼルス校にも興味はありましたが、入学応募の締切りに間に合いませんでした。その頃の私の英語力はゼロに等しいようなものでしたが、USC の学力基準は UCLA に比べてそれほど高くはありませんでした。留学生でも TOEFL を受ける必要がなく、大学独自の基準が設けられていました。


—— どのような学生生活を送られたのでしょうか。

最初の1、2年は英語が上手く話せない外国人向けの英語の授業を受けていたのですが、クラスで知り合った学生達とよく行動を共にしていたので英語はあまり上達しませんでした。やがて、一般クラスも受けられない私は挫折感のようなものを感じるようになりました。授業が終わり、自宅へ戻れば両親と日本語で話してしまう上に、大学へ通っているといっても色々な学生と会うわけでもありません。USC は外国人学生が多いのですが、同じ国の学生同士が集まってしまう傾向があるのです。日本人は日本人同士… それでは英語が上達しません。ようやく一般クラスが受けられる頃になると、苦労を伴いながらも楽しい大学生活になっていきました。USC の音楽学部は大規模なのですが、私が専攻したジャズ学科は学生数100人と少なく、全員が顔馴染みになってしまうほどでした。学生の中では唯一、私が日本人女性でした。ジャズ学科の学生はミュージシャンとして活動している人が多く、その大半が白人で黒人は少数でした。私は珍しい存在に思われたようで、先生もよく面倒を見てくれました。自分が全日本人女性を代表しているように感じられ、必死に努力しました。ミュージシャンに言えることは「肌の色で判断されるのではなく、音楽の中身によって判断される」ということです。そして、音楽が悪ければ観客は相手にしてくれません。ですから、とにかく腕を磨く以外にないのです。私の腕前は初歩程度のものでした… 専門的な技術は身に付けていましたが、ジャズは多種多様な技量を必要とするものです。幼い頃から学んできたクラシックは音符を見ながら弾くだけでしたが、ジャズはクラシック以上に複雑なのです。


—— ピアノ演奏をする上で、お気に入りの場所はありますか。

ジャズ・クラブの中でということですか? そうですね、普段は「カタリーナ」で演奏していますが「ルナリア」も気に入っていますし、「ベイクト・ポテト」も悪くないですね。アコースティックの良くない「ジャズ・ベーカリー」以外は、どこのクラブも同じようです。


—— 日本でもツアー演奏を行っていましたね。

ええ。でも、暫く日本には戻っていません。アメリカでのパフォーマンスの機会が多いですね。日本で演奏するのは勝手が違います。観客はとてもフォーマルで、ある一定の所で拍手が起こります。それに、クラブでリラックスしながら演奏を聴くよりも、コンサートホールにきちんと腰掛けて聴くスタイルを好みます。喝采が上がり興奮するステージは別ですが、日本での演奏にそれほどこだわっていません。素晴らしいミュージシャンの面々に囲まれてさえいれば、どこで演奏しようとあまり影響は受けません。


—— ピアノを弾いている時の感情は。

ピアノは… 音楽は私が得意とする分野であることは分かっています。演奏することは楽しいですし、いつもステージを心待ちにしています。クラシックは感情を必要としません… 演奏中に微笑んだり笑ったりしませんので、他の演奏者との実際の相互関係は生じないのです。しかし、ジャズは自由で楽しいもの。特に、自分が望んでいたミュージシャンと演奏できる時は心が踊ります。ピアノはギターのようにリズム・セクションと呼ばれる一角を担い、感情と音楽との“溝”を創り上げます。重要な役割の一つはリズムを保つことなのですが、他にも音楽のバラエティーを生み出す作用を加えていきます。こうして至上の音楽が生まれた時に、自分の気持も最高潮に達します。


—— 様々なスタイルの音楽を演奏されていますが、一番好きなのはジャズですか。

それは勿論!でも、自分がジャズ・ミュージシャンであると自信を持って言えるようになるまで、5、6年の歳月を要しました。


丸山 裕子 ・

36歳。東京都出身。南カリフォルニア大学にてクラシック音楽学士号とジャズ科修士号を取得し、音楽学部より「アウトスタンディング・グラデュエート」 (年間最優秀生) の称号を与えられる。クラシック・ピアニストとしては、サンディエゴのピアノ・ティーチャーズ・オブ・アメリカ・デュオ・ピアノ・コンペティションで優勝 を飾る。プロのピアニストとして、クラシック、ジャズ、フュージョン、サルサ、ポップ、R&B、ラテンジャズと広範なジャンルで活躍。オリジナル バンドを結成し「ジャズ・ベーカリー」「ベイクト・ポテト」「ルナリア」等のジャズ・クラブで演奏を行う傍ら、オレンジカウンティー・メトロ・ジャズ・ フェスティバル、全米最大の日系フェスティバルであるロサンゼルス二世週祭にも参加する。河野雅治・前在ロサンゼルス総領事夫妻歓迎パーティーや故小渕恵 三・元首相を招待したパーティーでの演奏のほか、アーティストグループ「ヒロシマ」や「キラウェア」と共に「コンサート・オブ・ザ・センチュリー II」への出演経験を持つ。

(2003年11月16日号に掲載)