—— 建築の道を志した理由を聞かせて下さい。 私の母方の本家は京都・東山七条にある清水焼の窯元で、焼き上がった茶碗に青いデザインを描き込む作業を幼少の頃から見てきました。やがて、手先を使って形に仕上げる作業に興味を持つようになり、少年時代から指先が器用だった私は小遣いを手にすると必ずプラモデルを買って楽しんでいました。大学進学の際も、細かい作業を必要とする建築学を当然のように選んでいたのです。 ——渡米の契機となったのは。 日本の大学では建築デザインの中に快適な生活環境を作り出す設備工学を学んでいました。建物全体の設計後に空調や配管を施すプロジェクトなどに携わっているうちに、デザインそのものが面白くなってしまい、自分でデザインコンペに出展したり、独学でプレゼンテーションの仕方を習得していました。大学卒業後、デザインの道に進みたいと考えていた私は「海外へ出て感性を磨いてきなさい」と父から後押しされたのです。スウェーデンでの留学経験を持つ父は、外国で見聞を広めることの大切さを私達兄弟3人に説き続けてきました。パスポートすら手にしたことのない私でしたが、一念発起して、建築デザインの分野で日本と肩を並べる高水準と言われるアメリカを覗いてみようと大学院留学を決意。都市と自然の共生を実現する建築方法を専門とする全米でも数少ない環境デザイン学のコースが SDSU に設置されていると知り、英語も話せず、サンディエゴの位置さえ知らないままに1977年に渡米しました。当初は大学院卒業後に日本で就職するつもりでいたのですが…。 —— 大学院卒業後も帰国せず、サンディエゴで生活を続けた理由は。 卒業を間近に控えた頃、恩師である教授より非常勤教師職の誘いを受けたのです。怖いもの知らずだった私は二つ返事で快諾して帰国する意志を翻し、1980年からSDSUでの教員生活を始めました。同時に建築事務所への就職も決まり、サンディエゴで社会人としての新たなスタートを切りました。1980年は私の人生にとってターニングポイントの年となりました。実は、この年に結婚もしているんです。学生時代に友人宅でのパーティーで吉田拓郎の曲をギターで演奏していた時、アジアン・スタディを専攻していたアメリカ人の女の子が私の歌を熱心に聴いていた…それが妻との出会いでしたね。やがて、彼女と付き合うようになり、結婚も決まり、アメリカで生活する決意が固まったのです。英語も話せなかった私が、アメリカで結婚して暮らしていくなど想像もしていませんでしたから、本当に人生とは不思議なものです…。 建築事務所で2年間勤めた後、1年間はフリーランスデザイナーとして、住宅や家具などのあらゆるデザインを引き受けながら他の建築事務所の手伝いをしていました。この頃、同じ建築デザイナーであるラルフ・ローズリング (Ralph Roesling) 氏と出会い、彼と意気投合したことから共同事務所設立の話しが持ち上がり、若くて勢いの良かった私達は1983年にローズリング中村建築事務所を設立しました。 —— 大学助教授と建築家との両立は容易ではないと思うのですが…。 助教授でも学生と同様に長期の夏季休暇がありますし、組合の規則で担当は3クラスに制限されているので、それほど負担に感じたことはありません。ただ、渡米4年目にして教える立場になってしまったものですから、英語には相当苦労しました。初めの頃は、授業で教える全内容を細かく書き込んだ用紙を学生に配り、それに基づいて授業を進めていました。私の英語が分かりにくくても、学生はこのノートを頼りに授業内容を理解してくれていたようでした…。図面を描いていればよかった学生時代とは異なり、講義をせざるを得ない状況に置かれてから英語は急速に上達しました。覚えるというよりも、英語を叩き込まれた感じでしたね。子供の頃、故郷の島根県で、泳げない私は兄に伯太 (はくた) 川へ突き落とされて、必死になって泳ぎを覚えた記憶があります。今、私が使用しているコンピューターも何度も躓きながら独学で身に付けたものです。人間は頭で物事を考えるより、身体で覚える方が上達も早いようですね。 また、私の性格なのでしょうか、働き続けていないと罪悪感のようなものを感じてしまうのです。金属関係の研究で韓国の現ソウル大学で博士号を取得した父は、60歳で退職を迎えるまで日立金属の重役として働いていました。国鉄がストになるとホテルに宿泊してでも必ず翌日は出社し、週末も自宅の書斎に籠ってマネージメントに関する執筆に励んでいた父でした。退職後も個人事務所を設立して休むことなく働き続ける父の姿を見てきた影響もあり、忙殺の日々を送る生活は当然だと思っています。 ——学生への指導で常に心掛けていることは。 「このように図面を描きなさい」という技術的な指導よりも、ディシプリン (規律) を与えることで学生が自ら学ぶ能力を開花させていくと信じています。例えば「プロジェクトを締切り直前に持って来ない」、あるいは「いい加減な線を描かない」という当然の心得が何よりも重要でありながら、実際にそれを実行している人は少ないのです。 また、建築デザインに取り組む際に私が求めるものは「問題の解答」ではなく「意味の結晶」であり、私の授業では必ずデザインの意味を討論しています。線1本にしても「直線=強さ」「曲線=優しさ」などの様々な意味が含まれているのです。私は日本の大学に入学してから約半年ほど、授業に出席しないで家の中で哲学書ばかり読んでいた時期がありました。そして、「モノに対する結果」よりも「モノが持つ意味」に興味を抱くようになりました。その頃の思考法が現在の私の信念を形成する素地になったのかもしれませんね。 私は、古来中国に伝わる一つの逸話を必ず学生に話すようにしています。その昔、負け知らずの若い弓術の達人がいて、老練な禅の達人と山頂の崖に架かかる橋の上で勝負をすることになったそうです。ところが、その橋というのが今にも崩れそうなボロボロの状態で、橋の上に立った途端に若者は足がすくんで震えてしまい、弓を打ち放つどころではなかったという。結局、怖れることなく立ち向かった禅の達人が勝利を手にしたという話なのですが、建築にも同じことが言えるのです。橋、つまり恐怖心を克服しないと前進は不可能なのです。「この設計は一笑に付されるだろうか?」「この計画はコスト超過だろうか?」「これは基準に違反するだろうか?」と頭の中で様々な不安が過り、設計者なら誰もが責任とプレッシャーに押し潰されそうになるでしょう。しかし、いつまでも矢を射ることが出来ないなら成長は望めないという事実を、私は学生だけでなく若い建築家たちにも伝えています。 —— 建築家として現在進めているプロジェクトは。 2005年の春頃にサンシドロに完成予定の DMV (カリフォルニア州車両管理局) の設計を行っています。今回はインディアンの洞窟をイメージをしたデザインが特徴です。「土からの誕生」を表現する建築を構想していた時、インディアンの居住地であるプエブロがふっと頭に浮かんだのです。このようにデザインとは、いつ何が生まれるのか予想がつかないものです。通常、構想から設計図の作成までに1年を費やします。 —— 建築家に対する日米の認識の違いを感じることはありますか。 日本に戻れば単なる建築家の1人であり、そこにはユニークさの欠片も無いのでしょうが、アメリカでは日本人建築家というだけで特殊な存在になることから興味を示して下さる方が多いようです。事実、これが功を奏して沢山の方と出会う機会を得てきました。そして、アメリカを活動の拠点にしたからこそ様々なチャンスに恵まれたのだと思います。もし私が渡米せずに、日本のどこかの大学で教職に就きたいと考えていたとしても、私の学歴を見て受け入れてくれる大学は無かったでしょうし、今頃どこかの建築事務所に勤務しながら毎日を過ごしているはずです。競争が激しく、依然として肩書きを重視する日本は、実力だけが評価される社会へ未だ成熟していないのではないでしょうか。そのような日本の姿を外から眺めていると、歯痒さを感じてしまいます。 —— 将来の夢を教えて下さい。 50歳を目前にした今、これからの人生は「意味」を残していきたいと考えています。私にとっての「意味」とは「関係」であり、例えて言えば「大邸宅を購入する」ことよりも「非営利団体で働く」ことに価値があると̶̶。つまり、人との関係が生じることで自分の存在の意味が確かになっていく生き方をしたいですね。自分の作品を誇示して「見てみろ。私はこんなにスゴイ仕事を成し遂げた!」と胸を張る建築家もおられますが、私から見ると単なるエゴの主張のような気がします。主張を必要とするまでもなく、自分の手掛けた建築物の前を何も知らずに通過した人が「良い建物だな」と思って下さったら、その瞬間にその方と作り手との確かな関係が生じているのです。今後も自分の存在を定義する作品といいますか、心の通う建築物を作り続けていきたいと思っています。 また、自著を出版していた父の影響でもないでしょうが、自伝ではなく、私の体験から「こうすれば、自分が探し求めている人生の価値を実感できるのか」と納得してもらえる手記を、いつの日か発表したいとも思っています。 (2003年9月16日号に掲載) |