ゆうゆうインタビュー ゲーリー・T・オノ

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ご自身が製作されたドキュメンタリービデオ『コーリング・トウキョウ』が伝えているものは。

『コーリング・トウキョウ』は、戦時中に米英両軍のブロードキャスターとして働いていた私の父、サム・マサミ・オノと他の日系米国人についてのドキュメンタリービデオです。第二次世界大戦が勃発した時、米政府は通訳やラジオ放送に必要な日英バイリンガルを求めていて、必然的に日系米国人が選ばれました。サンフランシスコで任を受けた人もいましたが、コロラド州のアマチ強制収容所から引き抜かれた人がほとんどでした。ブロードキャスターに共通して言えることの一つは、彼らの大半がアメリカに帰国した「帰米」やアメリカで生まれた「二世」であり、ある程度日本で教育を受けているので、日本語を話し、読み書きもできたのです。例えば、私の父は9歳で日本へ渡り、16歳の時に帰国していたので流暢な日本語を話していました。彼らが身に付けていた語学力と日本文化は米政府にとって大変貴重であった反面、彼らが日本軍の味方ではないかとの疑念を抱く理由にもなりました。


——お父様の稀有な体験談を本人から直接聞いたことは。

ありませんね。他のブロードキャスターと同様、父が私達兄弟の前で第二次世界大戦時の話を口にしたことは一度も無かった。この仕事に関わった人は皆そうでしたし、夫がどんな仕事をしているのかを知らない妻もいたほどでした。1981年に父が亡くなるまで、私は本当に何も知りませんでした…。母は父が BBC (英国放送協会) に勤務していた事実は知っていましたが、実際の仕事内容については理解していませんでした。叔父の1人も母と同じことを言っていましたね。日系一世の祖父母や二世である親たちは、現在に至っても戦争体験を話したがりません。そればかりか、ラジオ局に勤務していたブロードキャスターの多くはデンバーで携わっていた仕事に関して語らないように通達されていたのです。アマチ強制収容所やデンバーでの経験について私も母に尋ねたことがありましたが、後になって自ら発見した事実についても何も教えてはくれませんでした。


—— お父様を含む日系人の第二次世界大戦下の任務が明らかになった経緯は。

25_2.jpg 1988年に当時のロナルド・レーガン大統領が日系人の強制収容に対する補償を規定した「市民的自由法」(通称=日系アメリカ人補償法) に署名し、政府による謝罪文が寄せられ、約60,000人の日系人生存者に対する賠償金 (各人2万ドル) が支払われた時点で過去の真実追求への旅が始まったのです。そして、強制収容所の外で生まれて十分な記録が残っていない弟ビクターにも賠償金を受ける権利があるのだろうかという疑問が生じました。1992年11月、ビクターの調査を通じて、同じようにデンバーの強制収容所の外で生まれたエドワード・ワダ氏の存在を知りました。エドワード・ワダ氏は彼の母親であるチヨ・ワダ氏と会うことをビクターに勧め、やがて真実が明らかになっていくのです。チヨ・ワダ氏は当時のブロードキャスターの1人であり、父を始めとする12人ほどの日系人と共に働いていました。彼らは日本向けのプロパガンダ放送を目的とするジョイント・アングロ・アメリカン・プランの一部として、合衆国戦時情報局 (OWI) や英国の戦時情報局 (BPWM) での通訳やアナウンスの仕事を行っていました。まだ年端も行かぬ少年だった私達は何も覚えておらず、チヨ・ワダ氏に会わなければ父の仕事について知る機会は無かったでしょう。他のメンバーにも会いましたが、当時3~5歳だった私達の記憶はほとんど残っていませんでした。しかし、チヨ・ワダ氏はメンバーの名前は勿論、全ての事柄を覚えていて、彼女のお陰で弟ビクターに賠償金が支払われるために必要な条件が明確になり、この時から『コーリング・トウキョウ』のプロジェクトが動き出したのです。


—— 一般的に知られていない事実を公表しようと考えた時期は。

チヨ・ワダ氏、そして彼女の紹介により、元ブロードキャスターのロバート・テツロウ・ヤマサキ氏とフランク・ショウゾウ・ババ氏とお会いした直後の1992年11月のことです。私は父と彼らの体験をドキュメンタリービデオで綴りたいと考え、更なる調査を開始しました。私の専門は今でもフォトグラフィーですが、テレビ製作に関しても学んでいましたので自分自身でビデオを製作するつもりでした。そこで、賠償金の一部を使い、カメラ、ビデオ編集機器、三脚、ライトなどを購入し、ブロードキャスター・ストーリーの製作に取り組みました。


——過去の事実を拾い集めて興味深いストーリーを完成させた過程を話して下さい。

1993年の初めから様々な図書館へ通い、ラジオ放送や心理戦についての調査を開始しました。50年以上も昔の朧おぼろげな記憶をお持ちの元ブロードキャスターの方と電話で話したり、ワシントン D.C. の国立公文書館、英国の国立公文書館や帝国戦争博物館とも連絡を取り合いました。フランク・ショウゾウ・ババ氏からも第二次世界大戦中に日本のラジオ放送に関与した日本在住の方々の名前を教えて頂きました。ババ氏はデンバーで過ごした後、放送産業の再建という任務で占領軍と共に日本へ渡り、その活躍ぶりは『日本の放送産業再建に尽力した人物』という著書の題材になったほどでした。

ワシントン D.C.、デンバー、英国、そして日本を訪問した後の1997年までにストーリーの概要は整いました。全米日系人博物館で話をしたところ、教育フォーラムで元ブロードキャスターによるパネルディスカッションを開催する同意が得られ、1997年10月11日に実現したのです。これは、戦後初めて元ブロードキャスター全員が集合し、公然と事実が語られた“アザーサイド・オブ・東京ローズ”として知られるようになりました。私がボランティアを務める全米日系人博物館のメディアアート責任者ジョン・エサキ氏は、親切にもこのプログラムをビデオ撮影して下さり、その一部を『コーリング・トウキョウ』の中で使用しています。  1999年にフルタイムの仕事を辞した私は『コーリング・トウキョウ』の製作に更なる時間を費やす決意をしました。自分自身で9年間の活動を続けた後、私に財政援助の申請を促して、日系人が遭遇した立ち退き命令、収容所生活、抑留経験を語り継ぐ目的から補助金を受けられるカリフォルニア市民人権公教育プログラム (CCLPEP) について教えてくれた人がいたのです。2001年5月に CCLPEP から申請認可を受けたのですが、1年後の2002年6月までにプロジェクトを完成させるという条件が付されました! 補助金を手にした私は、プロダクション経験があり必要機材を取り揃えているビデオプロデューサーと働き始めたのですが、プロジェクトが発進したばかりの半年後に頓挫してしまいました。幸運にも、ジャニス・D・タナカ氏 (同じく CCLPEP による補助金を受けて、二世捕虜の子供たちの収容所体験の影響を検証したビデオ『ホエン・ユー・アー・スマイリング』を製作) とスリースキャンダ・サブラモニアン氏をジョン・エサキ氏から紹介して頂き、残された期間内で傑作を作り上げることに成功したのです。


——  当時の放送番組の内容について教えて下さい。

25_1.jpgニュース、エンターテイメント、インフォメーションで構成される内容となっていました。英国国立公文書館では BBC で使用された父の手書きによる日本語のオリジナル台本が見つかりました。ニュース原稿、それにワシントン D.C.とロンドンの監督者が選んだ社説を日本語に訳していたのです。彼らの放送は電話を通じてサンフランシスコへ送られ、ビニール製のガラスディスクに録音した後、音楽やトークを交えた3時間番組に編集されて短波放送で日本向けに発信されていました。私達が子供の頃に、これらのオリジナル録音ディスクを目にしていたかもしれません。昔の写真や記念品と一緒にクローゼットの中に保管されていたのですが、幼い私達兄弟はそれを遊び道具にして壊したこともありました…それほど大切なものだとは思っていもいませんでした。


—— 政府は何処に“情報局”を設けたのですか。

真珠湾攻撃直後に後の OWI より日英バイリンガルの募集があったのです。志願者は日本語でラジオ番組を聞き、英語でタイプを打つテストを受けました。OWI に採用されて早速ブロードキャスターに就任した人の中にはチヨ・ワダ氏 (唯一の女性キャスター)、ロバート・ヤマサキ氏、フランク・ショウゾウ・ババ氏の面々がいました。当初は KGEI (サンフランシスコの日本語放送局) ではなく、サンフランシスコ市内のパレスホテル内で活動を開始しましたが長くは続きませんでした。皮肉にも、KGEI がこの“情報”運営の本部として活動を続けている間に、日系人を対象に西海岸からの撤退命令が出されたのです。その結果、3人の日系人ブロードキャスターはデンバーへ向かわざるを得ませんでした。その後はアルバニー・ホテル内にある KFEL 局で活動を続けました。ブロードキャスターの追加採用のためにアマチ収容所新聞の巻頭ページに日英バイリンガル募集広告を掲載したところ、私の父を含めた応募者があったそうです。後に、ジョージ・ヤスオ・ドテ氏や父の採用に関する戦時の英国の記録を発見し、なぜ私達が収容所から解放されてデンバーにある映画館の上階に越して来たのか、また、なぜビクターはアマチ収容所の外で誕生したのかが明らかになりました。採用者はデンバー行きの手紙を受け取り、米国転住局により不定期の外出許可が与えられました。KFEL 局のオフィスを分け合う英国 BPWM と米国 OWI は例外はあったものの基本的に同じ仕事を行っていました。情報番組は戦時中も続きましたが、終戦を迎える6か月前にデンバー運営局が閉鎖され、1946年初めに解体を迎えるサンフランシスコの OWI の機関へと戻って来たのです。


—— 皆さんにとって、強制収容所外での生活はどのようなものでしたか。

長く隔離されていた勤務時間を過ごしましたが、生活自体はとても気に入っていました。私達は、1930年代初頭に劇場がひしめく賑やかな街として有名だった、デンバーのカーティス通りにある映画館の上で暮らしていました。私は幼かったので余り覚えていませんが、他のブロードキャスター仲間が私達を訪れて無料で映画を観ていたという話を聞いたことがありました。映画を楽しめるなら、皆で映画館のバルコニーで生活していたに違いありません。特殊な仕事内容という理由もありましたが、人種偏見の波が押し寄せてくる状況下にも置かれ、周囲との接触よりも自分達のグループ内での生活を守ろうとしていました。「ノー・ジャップ・アラウド!」(日本人立入り禁止) のサインは珍しくありませんでしたが、生活は楽しく、メンバーの中には快適だと言う人もいました。全員が20代であり、魚釣りへ行ったり、熱心なレジデント・ゴルファーであるフランク・ハットリ氏からゴルフを教わったりと様々な機会にも恵まれていたのです。唯一自動車を所有していたロバート・ヤマサキ氏は「自分は有名になった」と話していました。しかし、政府や収容所の外にいる市民に限らず、多くの抑留者からも、ブロードキャスターはスパイではないかとの疑いの目が常に向けられていました。


—— 公式、非公式を問わず、ブロードキャスターの貢献が政府より認められたことはありましたか。

ある時、ボイス・オブ・アメリカ (VOA=米国の海外向け国営放送) 広報室の方と連絡を取る機会があり、その方が OWI の支流である VOA のディレクターに話を持ち掛け、今年5月3日に行われた同放送局の特別企画の中で、ロサンゼルス西海岸事務局チーフであるマイケル・オスリバン氏から元ブロードキャスター各人宛に手紙が送られています。このプログラムは全米日系人博物館で開催され、元ブロードキャスター参加による質疑応答の機会が設けられるなど意義深い内容でした。


ゲーリー・T・オノ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

サンフランシスコで生まれ、コロラド州のアマチ収容所へ強制移動された後、3歳の時にデンバーへ移る。10人兄弟の中で育つ。サンフランシスコ・シティー カレッジ写真学科卒業後、カリフォルニア州立大学ノースリッジ校でラジオ・テレビ・フィルム学を専攻。引退した現在も退役軍人省メディア・プロダクション 主任として活躍し、家族や日系米国人の歴史に関する様々なプロジェクトに従事している。現在、全米日系人博物館でボランティア活動を行うと同時に、オノ氏 製作によるドキュメンタリービデオ『コーリング・トウキョウ』で記録された日系人ブロードキャスターの連合国側への貢献について理解・認識を促す活動を精 力的に続ける。過去にサンディエゴとイリノイ州ウォーキガンで暮らし、現在はロサンゼルス郊外のシミ・バレーに定住。
※日系人ブロードキャスターに関する 詳細やビデオ『コーリング・トウキョウ』の購入に関しては Gary Ono / 805-522-6350 または This email address is being protected from spambots. You need JavaScript enabled to view it. までお問い合わせ下さ
い。

(2003年9月1日号に掲載)