—— 現在の活動内容について教えて下さい。 自宅でのプライベートレッスンに加えて、バルボアパーク、ナショナルシティー、ランチョサンタフェ、そしてビスタなどの会場で池坊の生け花教室を開いています。日本人に限らず、花に魅せられたアメリカ人の方々が沢山参加しており、現在100余名の生徒さんが稽古に励んでおられます。また、生け花の精神とその芸術性に深い感銘を受けた故エレン・ゴードン・アレン夫人によって1956年に東京で設立された 「いけばなインターナショナル」 という文化団体の活動にも力を入れております。国籍も流派も多様な会員たちが 「花を通じての友好」 をモットーに、展示会やデモンストレーション、そして日本と日本文化を紹介する学校訪問プログラムなどを定期的に行なっております。 ——華道の本流と言われる池坊の歴史について説明して下さい。 華道家元池坊の歴史は生け花の歴史そのものと言えます。池坊は元来、聖徳太子の創建と伝えられる六角堂頂法寺の住職の名前で、代々池のほとりに住んでいたために人々から池坊と呼び習わされていました。生け花が記録に留められたのは500余年前のこと —。室町時代の中期に立花の名手である池坊専慶を輩出し、室町後期には池坊専応が現在に伝わる花伝書 『専応口伝』 (生け花の教科書) を著して生け花の理念を確立しました。それは単に表面的な美しさを鑑賞するのではなく、野山水辺に咲く自然の花の姿を住まいの中に映し出し、草木の命に深い意味を見出す悟りにも至る生け花の成立となったのです。桃山、江戸前期には二代に渡る専好が活躍し、立花の気品と風格を高めます。江戸、明治、そして昭和と、その時代を彩る名手によって香り高い生け花文化が育まれ、家元四十五世・池坊専永宗匠は古来の生け花に現代の生活空間、生活様式に即した生花新風体と立花新風体を発表しています。1995年には四十六世次期家元に池坊由紀が女性として初めて指名されました。現在では全国に約400支部、世界30か国に100支部を有する文字通りの“世界の池坊”となりました。 —— 生け花との出会いについて話して頂けますか。 私は男4人、女4人の長女として神奈川県横須賀市の旧家に生まれました。昭和初期の頃は華道、茶道、お琴などは女性の嗜たしなみとされていましたので、少女時代からいろいろな稽古事に通っていました。しかし1931年、6歳の時に満州事変が勃発し、当時の日本人の誰もがそうだったように、15年に渡る戦争の全期間を通じて私の青春時代は生け花どころではなくなってしまいました。父の死、兄の病死、勤労奉仕、空襲、闇市など、戦争と戦後の混乱の中で、家族も自分も日本も明日はどうなるか分からないような時代…。そんなある日、防空壕の中で素朴な篭に生けられた淡紫の一輪のスミレの花に感動したことがあります。控えめで、しかも空に一つ光っている星のように美しい一瓶一輪の可憐さに魅了されました。そこに焦土を生き抜いた力を感じたのです。命ある人間も草木も、この宇宙の中では全く同じ場に立っているのです。やがて朽ちていく花と同様に、我々人間も必ず亡んでいく存在だという事実を受け入れる時、今を生きなければいけないとの粛然たる気持ちになります。この事実を受容して初めて成立する世界 … それが芸術です。 —— 渡米の契機について教えて下さい。 あの 「玉音放送」 を体験してから一夜にして全てが変わりました。家計がひっ迫し、私は家族を支えるために海軍病院の物理療法課に勤務することになりました。そこで日本に駐在していたアメリカ人の主人と出会い、1953年に結婚。そして、主人の勧めもあって東京にある財団法人・池坊華道専門学院 (現・池坊中央研修学院)へ通い、1958年に卒業しました。華道、茶道、香道、礼法などの伝統文化、舞踊、はやし子などの伝統芸能、書道、陶芸、日本画などの造形芸術、料理一般、和菓子、着付け、学外授業といった衣食住文化、時事問題や現代マナーを含む社会教養の他にも様々な授業を取りました。伝統文化と出逢うことはそれを支えてきた多くの心と出逢い、響き合うことです。日本人としてのアイデンティティを理解し、自分自身を発見し、創造性を高めることで心豊かな教養人として大きく成長することができました。その翌年に主人の転地療養の目的でサンディエゴへ渡ってまいりました。 ——渡米直後に生け花教室を開いたのですか。 アメリカで生け花を教えようなどとは当初は思ってもいませんでした。ある日、私の英会話の先生だったスチュワート夫人が私の趣味を尋ねてきたのです。私は生け花ができると伝えたところ、大変興味を持ったご様子でガーデンクラブで開催されるお花のショーに誘って下さいました。彼女はアイリス・ソサエティー (花菖蒲など日本の花愛好家が集まる園芸クラブ) の審査員を務めていた方で、サンディエゴガーデンクラブ主催によるフラワーコンベンションへの出展を熱心に勧めるので、この土地の枯木を黒に染めて黄色いバラと組み合わせた意匠花を出品したところ、審査員の方々の目に留まりました。その後、米国のフラワーアレンジメントの第一人者であるグリーン夫人と共に 「East Meets West」 という日米の生け花展示会 をバルボアパークで披露するという貴重な機会に恵まれたのです。 太平洋戦争が終結して10数年が過ぎた60年代のアメリカではハイソサエティーの人々の間で日本ブームが起こっていました。『ニューヨーカー』 や 『ヴォーグ』 で禅特集が組まれ、『House Beautiful』 という雑誌などでも“shibui” (渋い) という見出しで日本の特集が2刊に渡って紹介されました。今でこそ、侘び・寂び、歌舞伎や能、茶道や生け花などの日本文化や、優れた日本の工業製品、寿司を代表する和食ブームなどは世界で広く受け入れられていますが、その当時はアメリカ人の東洋に対する憧れが芽生えたばかりでした。そして1962年、日本の生け花に興味を持っている方々の後押しを受けて生け花教室を開講し、1976年には池坊サンディエゴ支部を創立させることができました。そして生徒さんに生け花を教える傍ら、私自身も15年間ロスアンゼルスまで毎月車を走らせて、日本からの派遣講師の下で華道における 「不易流行」、つまり 「普遍性と時代性」 を研究しながら創作の理念を学び続けました。 —— アメリカでの生け花に関するエピソードは。 春夏秋冬それぞれに多種多様な花が咲き、自然の移り変わりに応じて草木の風情が微妙に変化する日本とは異なり、ここサンディエゴでは花材の調達が難しいのです。とは言え、野山水辺に咲く自然の花を生けてこその華道ですから、自宅の庭に所狭しと草木を植えて、生徒さんに少しずつ花材を提供するようにしています。生徒さんにも自分で草木を植えるようにお願いして、1本の木、1本の草の素朴な風趣を味わって頂いております。 1976年に華道家元四十五世・池坊専永氏にお会いした際に、「オーラーさん、アメリカでは自分が先に行って教室の準備をして生徒さんを待つんですって? 日本と反対ですね」 と驚かれたことがありました。日本では 「師の影を踏まず」 と教育されましたが、アメリカは文化が異なりますから…。でも現在では、準備から後片付けまで生徒さんがなさいます。花の取り扱い、生け終わった後の始末、花を長持ちさせるための心配り、先生や友達に対する礼儀、お招きしたお客様に対する心遣い、花との触れ合い、心との触れ合い ̶̶̶ 全てに思いを凝らし、花にも人にも謙虚でありたいと思います。生け花によって自らが精神修業に勤しむという心構えを忘れてはなりません。それが、延ひいては私たちの暮らしの本質を豊かな美しいものに作り上げる 「生活の芸術化」 に繋がります。 —— 生け花とフラワーデザインの違いは。 最近では、生け花よりもフラワーデザインに興味を持つ若い方が多いようですね。確かに、フラワーデザインは 「デザイン」 ですから科学的で入り易い、華やかで飾り易いといった利点があります。一方、生け花は6世紀に僧侶が仏に花をお供えしたのがその起源であると言われています。自然の花を使い、天(宇宙)、地(地球)、人の3要素をバランス良く表現するという考えが基本となっています。華道は切花で、基本的には供花です。それは 「祈る」 という行為であり、それこそが生け花の姿です。現在では、花材の特徴を造型面から捉えて自由に表現するフリースタイルがブームとなっております。 生け花がアメリカ人の目にもエキゾチックに映るのは、形だけの面白さだけではなく、日本人が大切にしてきた精神性や心遣い、美意識が含まれているからだと思います。生け花を通して和文化の中に息づいた 「調和」 の大切さを感じ取ってもらえた瞬間 ̶̶̶ それが私の至福の時なのです。 —— 自分自身を評価できるアチーブメントとは。 1959年に東京・上野美術館で開催された 「華道100人展」 への出展は、大きな勲章を頂いたかのように嬉しかったことを今でも鮮明に覚えております。日本を代表する華道各流派100人による作品展で、私は池坊を代表してネコジャラシとエンジの菊を使って秋を表現しました。先生はʻお情けʼとして私を送って下さったのかもしれませんが、日本でのハイライトとして大変思い出深いものになりました。 2000年5月には当支部創立25周年記念祝賀会を開催致しましたが、同祝賀会には京都から家元四十五世・池坊専永宗匠をお招きするなど、充実したプログラムを履行することができました。家元は生花新風体、自由花、立花新風体の生け花をそれぞれ3作品ずつ披露して、穏やかな人柄と説得力のある巧みな話術で会場を魅了しました。この時、私は長年の活動に対する感謝状と家元華ろう職 「准華老補」 の称号を頂いております。 —— 「生け花」 の真髄についてお話し頂けますか。 ある日、50代と思われる日本人女性が私の家を訪ねて来られました。渡米して20年という彼女は、その深謀遠慮が伝わる物腰から聡明な方だと推察できました。聞けば、大会社の重職に就いている方なのですが、「この歳になって、初めて我が人生の意味を考えるようになりました。でも、その意味さえも何故か儚はかなく、虚しい色に染まっていくのです。考えてみれば、人間が追い求める幸福はいつか必ず訪れるであろう 『終焉』 の土台の上に立っているんですよね…」 とおっしゃるのです。その後も彼女は私の所へ通い続けて、今年で3年が経ちます。少なくとも 「生け花」 が彼女の心のオアシスとなり、また命の尊さを伝えてくれるメッセンジャーになっていると私は信じたい…。 どんな姿形をしていても花には命があり、その花命は一瞬にして消えてしまうもの。その一瞬の中に美を求めて有限の命を呈示することが 「生け花」 なのです。「命のきらめきを切り取って表現する」 とでも言いましょうか。雑然とした現代社会において人々は静けさを求めているように思います。空間の 「間」 或いは 「省略の美」 という静寂を生み出す生け花は、今必要とされている癒しの一つではないでしょうか。そう考えると、生け花の源流である 「献花」 「供花」(神に奉る花)は神仏に対してだけではなく、客への供応の花になり、家族を対象とする団らんの花となり、そして自分自身にたむける花へとその意味が変遷してきたように思います。 —— これからの夢を聞かせて下さい。 歴史や伝統という悠久の大河の中では、人の思いや心の動き、そして成就できることなどはほんの 「一滴の滴しずく」 に過ぎないのかもしれません。でも、その細ささやかな一滴で社会の潤滑油的な役割を果たすことができるなら幸せです。花はどこの国にも咲いています。そして時代を問わず、人間は花を美しいものとして愛し、大切に生活の中に取り入れて楽しんできました。花や草木の美しさを生かす技術を持つことで、その本来の美しさを最大限に輝かせることが可能になるのです。 ここサンディエゴの地に蒔いた一粒の種が成木に育ち、涼やかな木陰を作り、道行く人に潤いを与えることができれば嬉しいですね。そして遠い未来、可愛い花を咲かせて野山や街並を彩り、美味しい実を結んで人々に喜んでいただけたら …。 (2003年8月16日号に掲載) |