—— 牧師として体験したアメリカでの忘れられない出来事とは。 クリスチャンに転向した元暴力団員で構成されるミッション・バラバ (キリストを身代わりに処刑を逃れた極悪人の名に由来) の第3代会長に就任した翌年の1998年に、当時のクリントン大統領から朝餐会に招待されてスピーチを行う機会を与えて頂いたことです。その2年前に私達一行がハワイに伝道した際、ビザなしで渡米した私達は 「前科者はビザが必要」 であることを知らなかったばかりに強制送還処分を受けてしまい、もうアメリカには行けないだろうと言われていたのです。それが、神様のお導きというか、日本の温泉で出会った人物が大統領の正餐会を準備するコーディネーターで、彼が「君の証しは、恥の部分をあからさまに話しながら、絶望の淵にある人々に希望を与えるものだ。それはキリストの証しだから、ぜひ世界中の人に聞かせたい」 と言うのです。「祈りなさい。祈れば神様は何かをしてくれる」 という言葉を残して彼は帰米しましたが、日本人12人枠の中に私を入れて大統領の朝餐会に招待してくれたのです。その正餐会は上院と下院の主催でワシントン D.C. のヒルトン・ホテルで開催され、朝餐会と昼餐会で6人ずつ約3,000人の出席者を前にスピーチを行いました。私もその6人の中の1人として、ヤクザという底辺の人生を送っていた人間がどのようにイエス様と出会い、如何にして救われたかを通訳を交えて約10分間話しました。世界的伝道者のビリー・グラハム先生やチベット仏教の最高指導者ダライ・ラマの妹さんを始め、国家元首の面々や各国の外務大臣など、会場は世界160カ国から集まった多士済々のメンバーで埋め尽くされていました。 ——キリスト教に帰依した後、最初の伝道活動とは。 長さ30メートル/重さ40キロの十字架を担いで路傍伝道を行いながら、歩いて日本縦断をしようという途方もないプロジェクトが1992年に始まりました。契機となったのは日本人とアメリカ人のハーフであるアーサー・ホーランド牧師との出会いでした。新宿の歌舞伎町で路傍伝道をしていた彼をいつしか手伝うようになり、この 「十字架行進」 の計画を知りました。そして、自らを鍛え直す意味も込めて行進への参加をお願いしたのです。沖縄を出発して3日目。熊本市内を歩いていた私は、「熊本県警の皆さん、以前お世話になりました鈴木でございます。私は悔い改めて、イエス・キリストを信ずるようになりました。人間は法律によっては救われず、愛によってこそ救われることを知りました。どうぞ皆さんも神様を信じて下さい!」 と、思い掛けない言葉が自分の口から出てきました。これは神様がそっと背中を押して下さったからだと感じ、自分が変わっていくのを自覚し始めていました。日本縦断の途上、それまでの生活を捨てて生まれ変わりたいと願う元ヤクザが次々と参加し、5カ月以上に渡る行進が終了した時点でメンバーは総勢9名に達していました。 —— 極道時代を振り返る時、何歳頃まで遡るのでしょう。 高校進学が人生に一つの転機をもたらしました。中学時代は大阪市内でも3本の指に入る水泳選手として活躍していましたが、記録が伸びずに限界を感じて高校時代はラグビー部へ入部しました。ところが、先輩の影響でシンナー遊びを覚えて学校もサボるようになりました。そして、約100件もの恐喝事件を起こして退学 ̶̶。ヤクザの親分を叔父に持つ友人の喫茶店を手伝い始めたのですが、賭場やヤクザの組へ出前をするうちに自分も一端 (いっぱし) の不良を気取るようになっていました。ある日、ディスコで他の不良と喧嘩になったのですが、私が殴った相手が偶然にもヤクザだったんです。ヤクザに追われて恐怖に怯えつつも 「自分もヤクザになって対抗すれば、コイツなんて怖くない」 という単純な考えが芽生え、そのまま極道の世界へ足を踏み入れていったのです。 —— 若くして歩み始めた裏街道人生に疑問や後悔を感じたことは。 親に対して申し訳ないという気持はありました。しかし、集団心理が働いて、一人では絶対にしないことでも仲間がいると平気で行うことができたのです。実は、私が26歳の時に母が脳溢血、その2年後に父が心筋梗塞で亡くなりました。何と、その2年後には2歳下の弟までもが世を去ってしまったのです。弟の脳には幼い頃にチャンバラごっこで作った小さな傷がありました。その傷が親指大ほどに進行し、それが原因で癲癇(てんかん)を起こして窒息死してしまったのです。真面目な両親と弟の命が奪われて、どうしようもない自分だけが生き残ってしまった現実を恨みました。そして、「死んだら終わりだ。やりたい放題に生きた者が勝ち」 と自分に言い聞かせて、自分自身と金だけを信じるようになりました。 ——頂点を極めていたヤクザ時代の生活ぶりは。 巨大組織の中でトップから2番目の地位に昇り詰めた私は自分の賭場を2軒経営していました。刑務所にも入りましたが、極道以外に自分の生きる道は無いと思っていたのです。二度目の刑務所暮らしを終えた32歳の時にナイトクラブで働く現在の妻と出会いました。夢を描いて韓国から日本へ出稼ぎに来たものの、厳しい現実とのギャップに悩んでいた妻…。その頃、私も寂しさや様々な思いを抱えていたので、お互いに心の隙間を埋め合うようになりました。共に生活を始めたものの、私は機嫌が悪くなると妻に殴る蹴るの横暴を加え、身も心もボロボロになっていた妻は、その苦しみから逃れようとしてキリスト教会へ通うようになりました。その後、借金を抱えていた私は妻に連れられて教会を訪ねるようになっていました。神様など全く信じていない私でしたが、祈ったら何か良いことがあるかもしれない — と思ううちに不思議と顔つきが明るくなっていきました。やがて、私が金儲けをしているという噂が流れ始めました。私に博才があることを皆が知っていましたので、噂が噂を呼び、バブルで大金を手に入れた人々が私の賭場に集まるようになりました。2億円ほどの借金は半年で完済し、帳簿上ですが全盛期には一夜で約1億円の売上に達していました。 —— その後に人生の変化が訪れたのですね。 金儲けに弾みがついて、妻以外の女性を点々としながら夜の街へ繰り出す生活が始まりました。そして、ありきたりの生活に倦んで、薬物に手を出してしまったのです。その影響で人間関係を崩していることに全く気付いていなかった私は、やがて取り返しのつかない問題を引き起こし、ヤクザの世界を追われて命を狙われる窮地に追い込まれたのです。「自分は強い」 と自負していた17年間でしたが、この時に組織の大きな力の中で親分に庇護されていた事実に初めて気付き、守ってくれるはずの人間から追い詰められて行き場を失った私が自分自身に見たものは、怯え、震え、泣き、隠れることしかできない弱い人間の姿でした。当時、私と妻の間には生まれたばかりの娘がいましたが、私は事もあろうに妻子を捨てて東京へ逃亡したのです。 東京での生活も思うようにいかず、酒、麻薬、快楽へと逃避して自己欺瞞の生活を続けていました。次第に、周りの全ての人間が自分の命を狙っているような妄想に取り憑(つ)かれ、小鳥の囀(さえず)りすら野獣の叫びのように聞こえ始めて、震えながら家の中に閉じ籠るようになりました。原因不明の病状で救急車に運ばれるなど、精神的、肉体的に手ひどく痛めつけられた私が考えた自己救済の手段は自殺でした。何度もこめかみに拳銃を突き付けるのに、手が震えて、脂汗が流れ、引き金を引くことができない…。生きる術もなく、死ぬことも能わず…。独りでもがき苦しむ中、大阪に残してきた妻子の顔がふと浮かび、私を呪い殺そうと妻が祈っているに違いないと思ったのです。神に呪われて四六時中見張られていると思った途端、私は叫びたいような気持で夜のしじまの中へ飛び出して行きました。明け方まで新宿を彷徨(さまよ)い、ふと立ち止まって見上げた私の目に飛び込んできたのは教会の十字架でした。そして、何かに吸い込まれるように教会の中へと向かいました。 —— 教会の扉を叩いた理由は。 「ヤクザに対抗するにはヤクザ」 と考えた私ですから 「神の呪いに対抗するには神の助け」 が必要だと直感したのかもしれません。「神は人の心の中しか見ない。周りから見てやり直せないような人間でも、神はあなたを愛している…」 と牧師さんから説教をもらい、「そんな言葉は信じない」 と心の中で呟きながらも気付いた時には 「助けてくれ」 と泣き叫んでいました。ところが 「愛されていますよ」 と言われた途端、「あんたみたいな人間に俺の何が分かる!」 と牧師さんに食って掛かり、私は聞かれてもいない事を延々と話し続けました。すると、何かが自分の中で変化していくのを感じたのです。そして、イエス様が目に見えない私の“親分”となり、私は共に生きていくことを誓っていました。そんな私に 「お前にはしなければいけない事がある。待っている人がいるのではないか?」という声が聞こえてきたのです。「待っている人などいるはずがない」 と思いながらも、私は居ても立ってもいられず、新幹線に飛び乗って大阪へ向かいました。そして、愛することも許せるはずもない私を、妻は何事も無かったかのように優しく迎えてくれたのです。 —— メンバーの自伝として2001年に映画化された 『親分はイエス様』 のメッセージは。 映画化の話を頂いた時に 「人様に見せるような人生ではない」 とお断りしたのですが、伝道のためにという説得を受けてメンバー全員で協力に踏み切りました。多くの人々から夢を奪ったバルブ崩壊、リストラが引き金となり急増する40~50代の自殺、希望も行き場も無くしたホームレス…このような現状に置かれて 「人生のやり直しを図ることなど出来るはずがない」 と感じている人々に対して、この映画が再出発の希望のチケットとなってもらえれば…という願いが込められています。「人生はやり直せる、何処からだってやり直せる」 ̶̶。 これは私にとって揺るぐことのない確信です。人間は強い者ばかりではありません。アメリカという異国の地で暮らす皆さんの中にも、言葉や国際結婚の壁など様々な問題に直面している方がおられるかもしれません。そんな時は自分のロードマップを心に映し出して下さい。「生きる」 という目的に向かって進んで行こうとする意欲があるなら、あなたは決して道に迷うことがないはずです。 (2003年8月1日号に掲載) |