Tuesday, 18 June 2024

ゆうゆうインタビュー ラケル・ジスカフレイ

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アキュラ・クラシックは世界が注目するテニストーナメントですが、ここまで成長した経緯を話して下さい。

私が現役の頃、トーナメントの舞台裏について常に興味を持っていました。ʼ60年~ʼ70年代は現在と異なり、主催者に認められた者のみが光栄にも出場権を与えられるという、社交的なイベントとしての性格を備えていました。プロ=アマで活躍していた私などはパーティーへ招待されることもありました。こうして、漠然としながらも大会の運営活動について興味を持つようになったのです。1977年に引退後、南米でテニストーナメントの運営を始めました。基本的に私一人で担当していたので相当な苦労がありましたが、生活のため、そして30年間過ごしたテニス界を離れたくないという思いで頑張りました。WTA (女子テニス協会) ツアーのダブルスに出場している時にジェーン・ストラットン選手と出会い、友人になりました。引退後、どのようにテニスに携わっていこうかと以前から語り合っていましたので、彼女が南米トーナメントに参加する際には、選手の視点から私の運営方法を見てもらい、色々と助けてくれました。後に私達は、アキュラ・クラシックを主催するプロモーション・スポーツ社の母体となる機関で働くようになったのです。


——活動の場を南米からサンディエゴに移した理由は。

主要開催地にしていたアルゼンチンやウルグアイが1981年に経済崩壊に見舞われ、金銭的に南米大会の開催が不可能となり、荷物をまとめてサンディエゴへやって来たのです。現役の頃、ランチョバーナードでのトーナメントに参加してからサンディエゴに惚れ込み、私はラホヤにあるコンドミニアムを購入していました。サンディエゴへ渡り、小規模なバージニアスリム杯の運営活動への誘いが掛かるまでの数年間はコーチをしていました。迷うことなくその申し出に同意し、ユタ州ソルトレークシティに住んでいたジェーンに連絡しました。こうして1983年にプロモーション・スポーツ社の原型が誕生し、ジェーンの協力の下、私達にとって初の北米大会であるバージニアスリム杯・ユタ大会が開催されました。そして、翌1984年にアキュラ・クラシックの第1回大会とも言える、バージニアスリム杯サンディエゴ大会開催のチャンスに恵まれました。


—— トーナメント開催初期のエピソードは。

ゼロから始めたので毎日が冒険のようでした! 資金もありませんでしたので、スポンサーを獲得するために無我夢中で働きました。数年間は全て自分達でこなしながら、何とかトーナメントを開催するまでに至りました。サンディエゴで幕を切ったバージニアスリム杯の初トーナメント会場はバルボアパークのモーレイ・フィールドでした。1989年に会場をラコスタへ移動するまでミッションベイ・ヒルトンやサンディエゴ・テニス&ラケット・クラブを利用していました。知名度も賞金額も低かった私達の大会は、当初メジャー選手を惹き付けることは無理でしたが、徐々にトップランクの選手が参加するようになり、今では有力選手が目指すツアーの一つへと成長しました。その後、バージニアスリム、グレートアメリカンバンク、マツダ、東芝、そしてホンダアメリカといったタイトルスポンサーを獲得することができました。自分達だけで運営していた20年前の賞金額は5万ドルで、僅か1,500人の観客を動員していました。今年の賞金額は100万ドルに達し、8万5,000人のファンがラコスタを訪れると予想しています。これ程までによく成長できたと思います。


—— 小規模なトーナメントからメジャー大会へと成長した契機とは。

22_1.jpgシュテフィ・グラフ選手が初めてラコスタ会場でプレーをした1989年のことです。大勢の方々に支えられていた私達は、あるビデオをWTAに渡して、大規模なツアーがサンディエゴで開催されるように働き掛けました。その年、WTAはトッププレイヤーの参加、賞金額の増加、コンピューターランキングポイントの対象を考慮した主要大会の一つに認可したのです。小さな努力の積み重ねが実を結んだのでしょう。1989年大会でグラフ選手が優勝したのは幸運でした。同時に彼女は世界ランキング1位に上り詰め、グランドスラム (全米、全豪、全仏オープン、ウインブルドンの4大大会) の優勝を達成し、私達にとって大きな宣伝となりました。彼女の活躍こそが私達をメジャー大会へと導いてくれたのです。


——毎年トッププレイヤーを魅了させている理由は。

ラコスタのような美しいリゾート地でプレーできるという点でしょう。「ベッドから起きたら、目の前にテニスコート」という環境は選手に限らず私達にも利点になっています。施設までに1時間のドライブを要する全米オープンや他会場のように時間を無駄にする必要がありません。選手はここで気軽に過ごすことができます。気候は最高ですし、私達も選手の皆さんを心からもてなし、アキュラの最新型車を手に入れるチャンスがあるというのも魅力です。誰もがサンディエゴを気に入っていますし、ウインブルドン大会 (6月中旬~7月上旬開催) のプレッシャーから解放されるには絶好の場所なのでしょう。オーナーであるジェーンも私も元選手ですから、選手の求めているものを理解し、彼女達と直に接するよう心掛けていることも良いのでしょう。一流選手に限らず、誰に対してもVIPのように対応しています。全選手に適応する努力を惜しまず、報道関係者もファンも楽しい時間が過ごせるよう全力を尽しています。試合開始から終了までファンで埋め尽くされた会場が選手の原動力となり、そして選手の活躍が地元ファンを喜ばせているのです。


—— 今年活躍が期待される選手は誰ですか。

22_5.jpg先日のウインブルドンでの力強いプレーが記憶に新しいビーナス・ウィリアムズが4年連続優勝を狙っています。今年も例年通り、キム・クライシュテルス (ベルギー)、リンゼイ・ダベンポート (米)、ジェニファー・カプリアティ (米)、モニカ・セレス (米)、ジャスティン・エナン (ベルギー)、そして人気のアンナ・クルニコワ (ロシア) と日本の杉山愛選手といった一流選手が揃っています。今年で記念すべき20周年を迎えて賞金額も100万ドルに達しました。この20年間に大会の規模も人気も着実に増大していく姿を見てきました。観客動員記録がこの4年間で毎年塗り替えられ、2004年からは10大世界女子テニス公式戦の一つに正式認定されることになりました。全米と世界中のファンの皆さんに是非ラコスタまで足を運んで頂きたいのですが、それが不可能な方はテレビ観戦ができます。今年はアメリカ、オーストラリア、ヨーロッパ、中国、日本、中近東、ロシア、南米、そして南アフリカで放映されることを大変誇りに思っています。(*準決勝=8/2: 1~3pm、7:30~9:30pm / Fox Sports Net。*決勝=8/3: 1~3pm / ABC)


—— 近年における日本人選手の活躍ぶりと競技スタイルの特徴は。

日本人選手の素晴しい活躍もここで目にしてきました。彼女達は立派なファイターだと思います。日本人プレイヤーの特徴はベースラインプレーの強さであり、最後まで諦めずによく動き回ります。サーブアンドボレーは余り見ないものの、ベースラインプレーを積極的に取り入れています。強さの一つは、どの選手に対しても恐れることなく立ち向かうスタイルでしょう。これが自分より上位ランクの選手に勝つポイントです。常にタフであった伊達公子選手も素晴らしいプレーを披露してくれました。アランチャ・サンチェス・ビカリオ (スペイン) 選手と戦った1996年のトーナメントでは、リードを許してブレイクされながらも、諦めずに戦い続けて見事に優勝を手にしました。最近では、杉山愛選手も頑張っています。過去にカプリアティ選手やグラフ選手 (ドイツ) と戦い、ダニエラ・ハンチュコワ (スロバキア) 選手とペアを組んだ昨年のダブルスでは決勝まで駒を進めました。彼女はウインブルドン (今年はクライシュテルスとダブルスで初優勝) 終了後、日本で数週間を過ごしてサンディエゴへ来ます。シーズン中はフィジカルトレーナーと共に頻繁にサンディエゴで合宿を行っています。


—— 元プロテニス選手の目から見て、ゲームはどのように変化してきたと思いますか。

私の現役時代と比べてテニスは劇的な変化を遂げました。当時は収入も少なく、開催地へ向かうにも辛うじて自分の旅費が捻出できる程度で、同伴者を連れて行くことは無理でした。家族を残し、選手や関係者と一緒に長い時間を過ごしていました。定期的に家を離れることは私にとって最も辛いこと…。場合によっては3~4カ月に渡ることもあり、ある時はホテルに滞在しましたが、トーナメント中にホームステイをしながらホストファミリーと食事や洗濯を共にすることもありました。今日の選手は有名人として待遇を受け、高収入を得ていますから最高の滞在先を確保できます。ツアー中も家族だけでなく、コーチ、トレーナー、心理学者、美容師など、自分に関わる人達と一緒に行くことも可能です。

ゲームに関して言えば…、選手はボールを強く打つのに適した体型を保持するようになりました。木製だったラケットも今では鋼鉄、アルミニウム、カーボン、チタン製へと変わり、大きな違いを生み出す各素材の特徴についての理解が選手にも求められています。そして、大半の選手がテニスを真剣に考えています。彼女達は自分が強くなることで最高の人生が得られる事実を知っているので、生まれ持った能力のみに頼らず、技術を向上させるために必死なのです。これが選手達を更なる努力へと導いて、休むことなく1年中戦い続けることになるのです。


—— ご自身の現役時代を振り返って思うことは。

全ての経験が貴重なものでした。私の現役時代、テニスはビジネスよりも社交の意味合いを持ち、限られた枠を飛び出して世界を覗き込む絶好の手段だったのです。アルゼンチンで育った私はとても若い時期から世界中に友達を作る環境を与えられ、未だ見ぬ国々を訪れる機会に恵まれていました。こうした経験が私のテニス人生に刺激を与え、最高の思い出として心に残っています。


—— ウインブルドンなどの大規模な大会では、運営側と出場選手のどちらが大変なのでしょう。

実を言うと、私はロンドンとウインブルドンから戻ったばかりなのです。運営サイドも選手サイドも同じような感動と興奮に包まれています。プレイヤーの成長もプロモーターの向上も両様に大きなリスクを背負っていますから、その感覚には共有するものがあります。大会を運営する緊張感は、選手がウインブルドンのコートへ向かい、大観衆を前に伝統ある大舞台に立つ自分を改めて実感した時の緊張感に似ているように思います。その伝統を私達が毎年築き上げているのです。


ラケル・ジスカフレイ ・

華道家元池坊華道教授。ジェーン・ストラットン氏とプロモーション・スポーツ社共同オーナーを務める。カールスバッドに本部を構えてアキュラ・テニス・ク ラシックを主催。ビリー・ジーン・キングと共に女子プロテニスプレイヤーとして活躍。女子ツアーを運営する女子テニス協会 (WTA) 設立メンバーの1人。アルゼンチンで育ち、16歳で全仏オープンとウインブルドン・ジュニア選手権で準決勝と決勝進出を果たす。1973-77年アルゼン チン女子ランキング1位。南米ツアー選手権4年連続優勝、グランドスラム大会に出場してマルチナ・ナブラチロワを破る。シングルス、ダブルス共に全仏オー プン準決勝進出を果たし、1974年の全米オープンでナブラチロワとペアを組みダブルスに出場。

(2003年7月16日号に掲載)