—— 若い頃からアンティークに興味を持たれていたのですか。 いいえ、実は大学では化学を専攻していました。大学3年の時に日大闘争がありましてね。キャンパスにバリケードが張り巡らされ、約1年間通学不可能になりました。そんなことから大学での勉強に興味を失い、以前から好きだった美術に興味が向いたんです。ただ、大学には既に3年通っていたので「もったいない」「親の期待に応えなきゃ」 という思いもありまして、卒業はするけれども美術関係の仕事に就きたいと考えていました。大学卒業後に方向転換をして、インテリア・デザインを2年間学んで就職。レストラン、バー、ブティック等の内装を手掛けるコマーシャル・デザインの仕事を3年程続けていました。 その後、会社を辞めてデザイン学校で講師助手を務める傍ら、デザインの仕事を自分で探しながらアルバイトで生計を立てていました。講師助手は2年間続けたものの、「自分は講師に向いていない」 「本格的に自分の事務所を持ちたい」 という思いから講師を辞して完全に独立しました。当時、最も気に入っていた仕事が居酒屋の内装デザインでした。私が担当した居酒屋は現在でも何軒かは東京にあると思います。それらの居酒屋というのは、飛騨高山の家屋を取り壊し、柱や梁 (はり) などの材料を上手く生かして民家風の内装にするものでした。仕上げに必要なミノやノコギリを探しに古道具屋さんへ出向いた時、そこで初めてアンティークというものを目にしました。その時、アンティークに惚れ込んだとまでは言えないものの、今思えば、あの瞬間が “巡り合い”だったのかもしれませんね。その後も内装の仕事は続いたので、下調べに同じような店へ何度か足を運び、アンティークの知識を積み重ねていきました。 ——アメリカへ渡ろうと決意した理由は。 独立して数年が経過して 「もう日本で十分仕事をしたな」 と思ったんです。以前からアメリカに対する憧れもありました。1974年頃にサンフランシスコからロサンゼルスにかけて一人旅に出た時、「アメリカはいいな」 という思いに取り憑かれて̶̶。映画を観てもアメリカの生活って楽しそうじゃないですか。「アメリカに住むなら英語だけは上達させなきゃ」 と考えていたところ、偶然にも旅行代理店が企画していた語学留学の広告を目にし、一大決心の末に仕事を中断してハワイへ留学。いずれは帰国して仕事を再開するつもりではいたのですが、僅か3か月後に一度日本へ戻ることに̶̶。ほとんどの学生が日本人で 「この学校に1年間在籍してもダメだな」 と思い、日本で態勢を立て直して再びハワイへ渡りました。今度は自分で探したプライベート・スクールに通い、そこで約1年間英語を勉強しました。ハワイから帰国してアメリカへの憧憬がさらに強くなり、アメリカ生活の手段を考えました。アメリカで自分の能力を買ってくれる人はいない…。多くの人に相談し、結局、自分でビジネスを始める以外に方法は無いという結論に達しました。しかし、アメリカでインテリア・デザイナーは大勢います。今までの経験を生かし、自分にしか出来ない特殊な仕事がしたい。アメリカで何がウけるのだろう…様々な視点から可能性を思い巡らして、導いた答えがこのアンティーク・ショップでした。開業準備として、日本の仕入先の確保や業者との信頼関係を築くのに約1年を費やしました。 —— その後、すぐに SDでアンティーク・ショップを開業したのですか。 それが、当初はハワイで仕事を始めようと思っていたのです。気候は良好、しかも自分の好きなハワイで店を開くのは理想でした。でも、家賃がとても高くてね。ハワイでの開店は銀座の一等地で仕事を始めるようなものでした。また、自分より1年早くハワイでアンティーク・ショップをオープンし、成功を手にしている日本人がいたのです。彼とは昔から知り合いでしたが、自分が開業したら日本のアンティーク仕入業者とかち合ってしまう。ハワイには更に幾つかのアンティーク・ショップがありましたし、これでは狭い世界の中でかなり厳しい競争を強いられてしまいます。元来、競争があまり好きではないという性格と、好きな事をのんびり続けたいという私の目的から外れてしまうという思いから、簡単な決断ではなかったのですが、ハワイを諦める結果となりました。 サンディエゴへは学生時代に一度だけ遊びに来ています。3~4日の滞在でしたが「綺麗な町だな」 という印象を抱きました。ハワイを断念して次の場所を探している時、たまたま 「アメリカで一番過ごしやすい気候に恵まれたサンディエゴ」 という新聞記事を目にしたのです。そこで、この街でのロケーション選びが始まりました。最初はラホヤも考えましたよ。家賃は確かにハワイよりは安価でしたが、それでも高いという思いがあってね…。そんな時、丁度ダウンタウンの今の建物を見つけたんです。当時、2階の250 sq.ft. の一角が空いていたので、そこを借りて開業の時を迎えました。1984年でしたね。その2年後に3,000 sq.ft. の広さを持つ1階へ移動し、現在に至っています。 —— アメリカは最近 “アジアン・ブーム” だと聞きますが、影響を受けていますか。 現在、私の店では99%がアメリカ人のお客様です。中にはアジア全般が好きだという方もいますが、日本の品に興味があるという方が大多数です。日本の物を積極的に選んで自宅をデコレーションされている方が多いですね。当店ではそういう方々に心から喜んでもらえる商品を扱っていると自負しています。また、ホーム・デコレーションのアドバイスについては、日本でのインテリア・デザインの経験が非常に役に立っています。やはり経験を積まない限り、自信を持ってアドバイスは出来ないですね。数少ないですが、開店以来の常連のお客様もいます。リンダさんという方も開業以来のお客様の1人です。彼女はサンディエゴ中のアンティーク・ショップを巡り、私の店に無い商品があれば教えてくれるし、彼女の友人で日本のアンティークに興味を示す方がいれば、当店を紹介して下さいます。彼女は私と知り合う以前から何度も日本へ行っているそうです。でも、「日本で買うのもいいけれど、和雄に任せておくといいものが買える」と言ってくれるのが有り難いですね。このような方々は本当に大事なお客様です。 ——開業してから最も印象に残っている出来事とは。 私の店には生花に使う花篭 (Bamboo Flower Basket) を置いているのですが、ニュートロジーナの前社長コットセン氏が熱心なコレクターなのです。以前、自分で収集した花篭の展示会をUCLAで開催した程の方なのですが、彼がたまたまサンディエゴを訪れた時、突然に私の店に立ち寄ったのです。でも、その時、私は彼を知りませんでした。そして、一番高価で最高質の花篭に興味を示されました。UCLAの展示会で発行された花篭のカタログが丁度あったので、私はそれを見せながら 「これと同等の素晴らしい花篭なんですよ」 と説明したところ、その方がニコニコと微笑み始めたのです。徐々に私も 「どうもおかしいな…」 と感じ、ひょっとしたら本人では?と思い、尋ねてみたらその通り! コットセン氏が作ったカタログを当の本人に見せながら一生懸命説明してしまった自分…。とても恥ずかしい思いをしましたね。 (笑) —— アンティークの仕事をする上で大切な事は何ですか。 この商売はお客様との信頼関係が一番大切です。今朝もある女性が店に来て、インターネットで購入した19世紀の根付 (ねつけ=煙草入れ等を紐で結んで着用する留め具) を私に見せながら 「どれくらい古いものなのですか?」 と私に尋ねるのです。1つ約$200を3個購入したそうです。しかし、一目で贋物だと分かる品でした。お客様は返品するとおっしゃっていましたが、あの方はもう二度とその店では購入しないでしょう。以前、鯉のレリーフのある銅器の花瓶を女性のお客様に販売したことがあります。その花瓶は明治期の物だと言われて私もそう思っていたのですが、ある日、ガーデンショップで半値以下で売られているのを目にして茫然となりました。そのお客様の連絡先を分かっていたら、買い戻す事も出来ましたが…。「誠実な商売」が大原則ですね。 —— 今後の目標を教えて下さい。 今後、店の特徴を確立していきたいという気持ちを持っています。現在の当店は“何でも屋” と言えるような状態で、あらゆる分野のアンティークを扱っていますが、本来、アメリカのアンティーク・ショップは陶器専門、家具専門というようにスペシャライズされています。私の店はその段階に達していないでしょうし、今のように手当たり次第に扱うのも面白いと思っているのも事実です。陶器だけ扱っていたら陶器にしか出会えない。この商売は色々な出会いがあるのです。例えば、明治期に作られた花瓶一つ取っても歴史が刻まれています。「どんな人が使っていたのかな?」 と考えると際限なくロマンが広がっていくでしょう。でも、周りを見ると明治期専門というように店の特徴を看板にして仕事をしている。やはり、自分の店は特性に欠けているとは思いますね。それと、お客様と接する時間をもっと増やしたいと思っています。日本へは勿論、オークションで全米を飛び回る生活が続くので、どうしても店にいる時間が少なくなりがちです。これからもお客様を大切にして、ご要望にお応え出来るよう精進したいと思っています。 ※アンティーク:アメリカでは通商関税法に基づいて、100年以上前に作られたものを一般にアンティークと呼ぶ。一方、日本におけるアンティークの明確な定義は特に無く、希少価値、あるいは美術的価値のある古道具、古美術を指すのが一般的。 (2003年4月1日号に掲載) |