—— 便利屋として、どのような仕事をされているのですか。 ドブさらい、お茶の相手、旅行のお供…何でもやります。依頼があれば、世界の何処へでも行きます。以前、世界中の石を集めているという方から 「南極だけはどうしても行けないから、代わりに石を拾ってきて下さい」 との要請を受け、実際に行って来ました。最近は一緒に海外旅行をして欲しいという人達も多く、昨年は10数か国を旅行しました。3か月のうち家に居たのは2日だけでしたね。 ——この仕事を始める機縁となったのは。 26歳で世界一周の無銭旅行に出たんです。そして、全世界を巡った38歳の時に企業に就職しようと思い、面接に臨みました。面接官からの 「世界一周をしたんだって、凄いね」 という言葉を期待していたのですが、返ってきた言葉は 「何だ、フーテンだったのか」 の一言 … がっかりしましたね。その場で就職を諦めて帰宅してしまいました。後日、たまたま見ていたテレビドラマの中で“便利屋”の存在を目にしたんです。まだ何も仕事をしていなかったので 「それなら、これをやるか」 と思い、動き始めました。家内にも (その年の) 9月から何かをするという約束をしていましたからね。 —— 便利屋を始めた当時と現在では依頼内容に変化がありますか。 便利屋を始めて24年になりますが、開業当時は 「ゴミを集積所まで捨てに行って欲しい」、「ネズミや犬の死体を処理して欲しい」 などの依頼が多かったんです。その後、冠婚葬祭でのスピーチの依頼が増え、現在では「食事の相手をして下さい」、「一緒に歩いて下さい」 といった注文が多くなりました。寂しい人が増えているのでしょうね。また、以前にテレビ出演した際に 「引きこもり、閉じこもり、不登校、立てこもり、全て面倒を見ます」 と話したところ、全国各地から多くの依頼が寄せられました。今回、サンディエゴに来る直前にも、引きこもりの子供を持つ母親から「右近さん、助けて下さい」 という電話が入り、「この人のために一肌脱ぎたいな」 と思いましたね。今、日本で困っている親はとても多いんです。 —— そんな依頼者の要請を受けた後、どのように対処していくのですか。 引きこもりであれば、先ずその人の家を訪ねて本人を部屋から出すように努力します。その日に本人と会えなければ、私はその家に泊まります。そして、飲み物を取りに台所まで出てくるような機会を逃さずに、「お早う、右近だよ」 と声を掛けるんです。これを何回か繰り返すうちに相手は私を一瞥するようになり、次第に話し掛けてきます。そして、私が 「回転寿司が食べたいんだけど、連れて行ってくれないか?」 などと尋ねると、ちゃんと案内してくれるんです。 32歳で14年間引きこもりの生活を続けていた青年がいました。彼の家に行っても、1週間全く反応が無かったんです。仕方がないので、部屋から出てきた時に取っ組み合いのケンカをしました。すると、私と言葉を交わすようになり、「僕はアメリカに行くけれど、一緒に行く?」 と聞くと 「連れて行って欲しい」 と言うんです。彼はアメリカに2週間滞在し、意外にも、帰国後すぐに就職活動を始めました。両親も「信じられない」 と驚いていましたね。ある時は、引きこもりの26歳の青年から突然に「右近さん、ケンカしよう」 と言われました。私もビックリしましたが 「じゃあ、外へ出よう」と言って取っ組み合いのケンカをしました。やはり、この青年も 「アメリカに行きたい」 と言う。私はこのような人達を2か月に一度ロサンゼルスに連れて来ています。皆アメリカに来ると、元気になって帰国の途に就きます。 家族には無理でも私に対してならできる、家族には話せなくても私には話せるという何かがあるのかもしれませんね。前述の26歳の青年も、勿論家族を傷つけられないからケンカなどできなかったのでしょう。どんな人にも対等の立場で対話を行ない、先ず友達になるという事が大切だと思っています。 ——若い頃はどんな目標を持っていましたか。 実は、14歳から17歳まで新宿のヤクザの一員でした。当時の私にとって、アル・カポネを目指すというのが唯一の目標でしたね。新宿を縄張りに、ケンカと聞けば飛び出して行く毎日でした。私が歩くと誰もが道を空けていました。ある日、子分4~5人を引き連れて新宿を闊歩していたのですが、1人だけ行く手を塞いでいるアメリカ人がいたんです。子分達が 「道を空けろ!」 と言っても全く動じない。頭に来た私は 「じゃあ、俺が話をつける」 と、そのアメリカ人に近づいて行きました。すると彼は、今まで見たことのない素晴らしい笑顔でニコッと私に微笑んだのです。その人は来日したばかりで日本語が分からないアメリカ人宣教師でした。とにかく、その笑顔が忘れられず、次の日曜日、早速彼のいる教会へ行きました。そこで朝9時から夜7時半まで過ごしましたね。彼の笑顔が見たくて毎週日曜日は教会へ通いました。月曜日から土曜日まではヤクザ、日曜日は教会 ̶̶̶。周りから“聖なるヤクザ”なんて呼ばれていましたよ (笑)。そして、1958年2月に17歳で洗礼を受けました。その後、親分の元へ行き、「親分、イエス様を信じたから、もう新宿には参上しません」 と告げると、親分から 「もう二度と来るなよ」 とだけ言われて、私はヤクザから足を洗いました。 —— ご自身の生きる姿勢として、心に決めている事は。 総理大臣、有名人、資産家 … 誰であろうと、私の前では平等。そして、誰と会う時でもこの作業服を着用するようにしています。昔は、スーツを着て人に会う事もありました。初めて土井たか子さん(現・社民党党首)に会った時も私はスーツ姿でした。佐賀県知事主催の食事会に招待された時は250人ほどの招待客が全員正装でしたが、私だけが作業服。その時に私は、スーツを着ている人同士では皆が互いに挨拶を交していないという事実に気付きました。自分より目上の相手には声が掛けられないんですよ。例えば、小泉首相が目の前にいても普通の人はなかなか話し掛けられないでしょ。その食事会では出席者全員が私に挨拶してくれました。作業服姿の私を見て、誰も 「自分より上の人間」 だと思わなかったのでしょう。でもその時、「あ、これでいいんだな」 とつくづく思いました。この作業服のお陰で、誰もが安心して話してくれるんだなぁ ̶̶̶ と。 —— 至福を感じる時はいつですか。 やはり、お客様から 「ありがとう」 と言ってもらえた時ですね。以前に 「ブラジルに行った女性の家出人を探して欲しい」 との依頼を受けた事があります。家族が 「アマゾン川流域にいるらしい」 と言うので現地へ赴きましたが、全く消息が分かりませんでした。領事館を訪れても 「それらしい人の届けは出ていない」 と言われ、ブラジリアの大使館でも手掛かりは無し。たまたま、私の高校時代の友人がブラジルに住んでいたので、そこに滞在しながら彼女の行方を探し続けました。そしてある時、「皆が現像を依頼したり、写真撮影をする有名な写真屋さんがブラジリアにあるらしい。そこで情報が得られるのでは?」 と耳にした私は早速その写真屋へ向かい、その人が花屋で働いていると知り、本人を確認する事ができました。日本の家族は私に300万円も手渡してくれましたが、「ありがとう」 の一言を聞くと私は何も言えなくなります。依頼人の喜ぶ顔と感謝の言葉を前に 「お金なんて…」 と思ってしまいますね。 —— 将来の夢を教えて下さい。 先ず、大きな家を持ちたい。そこで、引きこもりや閉じこもりの習癖を持つ人達と一緒に暮らして、元気になったら親の元へ返してあげたい。出来れば私の出身地、九州の自然の豊かな田舎で暮らしたいですね。 もう一つは、在日留学生達が帰国後に 「また来たい」 と言ってくれるような日本を作ること。先日、シンガポールからの留学生が 「もう二度と日本へは来ない」 と不満を述べているインタビューを聞きました。我が社には便利屋の仕事の一つに“外人ハウス”というのがあります。元々、外国人の手足になりたいとの思いから始めて、海外からの旅行者を宿泊させている宿舎です。無銭の世界一周旅行で世界中に迷惑をかけたので、今度は自分が外国人の役に立ちたいと思ってね…。各大使館に案内書を置いているので、世界各国のお客様が訪ねてきます。特に何をする訳でもないのですが、夜8時には一緒にティータイムを過ごし、金曜日には皆で一緒に食事を楽しんでいます。それに、町で外国人に出会ったら “May I help you?” と声を掛けるようにしています。教会に来る外国人には今日の予定を尋ねて、何も無ければ 「ハウスに来て一緒にお茶をしませんか?」 と誘っているんです。 —— 最後に、アメリカで暮らす日本人へメッセージをお願いします。 海外生活の大変さは私もよく知っています。自分に自信を持って頑張って欲しいですね。先日、アリゾナ州ツーソンで日本人の女子留学生に会いました。仲間と一緒にピクニックへ行っても、彼女だけ皆の輪から離れて独りでいるのが気になってね…。英語が上手く話せないので溶け込めず、皆の輪の中に入って行くのが怖かったそうです。私が彼女に近づいて一緒に話をした後、最後は皆と打ち解けていた様子でした。嬉しかったですね。英語の文法が間違っていても構わないし、単語だけを並べてもいいと思うんです。サンディエゴで国際結婚をされている方も多いと聞いていますし、皆さんが前向きに、そして何でも受け入れる広い心を持って人と接して欲しいと思います。 (2003年3月1日号に掲載) |