2024年 02月 29日

ゆうゆうインタビュー 八重澤勇一

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若い頃は農業に希望を託されたとお聞きしましたが。

私は新潟の貧農の家で姉と妹の間に長男として生まれました。米と自給自足分の野菜や果物を作っていましたが、我が家だけでなく、その地域の全農家が貧しかった。そんな状況を見て育ち、幼いながらに感じるものがあったのでしょうね。物心がつく頃には、農業の知識を身に付けて故郷を貧困から救い出したいという志を持つようになり、玉川大学農学部へ入学するために上京したのです。


——農業が故郷を救うという思いは、どう進展していきましたか。

大学では農学部農学科園芸学を専攻。農業指導を実体験できる海外青年協力隊の存在も知りました。高校時代、アルゼンチンで新聞社を経営していた高校の先輩の講演を聞く機会があり、彼に海外への興味を触発されてもいました。しかし、協力隊の仕事は一方的な援助ではなく、その国の自立を促す手助けをするという目的を知り、農業技術だけで故郷を貧困から救えると考えていた自分の驕りを恥じる結果に…。外国へ渡る前に、そう簡単なものではないと認識を改めました。


—— 農学部を卒業後、教育畑に進まれた理由は。

自力で貧困からの脱却を可能にするのは教育。これが世界に共通する原理だと思ったからです。就職活動の時期に人材銀行の教育関係に登録していたところ、横浜市内の幼稚園から採用通知が届きました。当時は資格も不要で、子ども好だった私は、まだ珍しかった男性の保育士として就学前の児童教育に2年間携わりました。大学時代に中学と高校の教員資格は取得していましたが、幼稚園に続く小学校の資格が無かったので玉川大学の通信教育で受講を開始。幼稚園勤務2年目に胃と十二指腸潰瘍の手術を受けたこともあり、仕事を辞めて1年間勉強に専念しました。資格取得後は神奈川県内の小学校で教員生活に入りました。


—— その後、ニューヨークの日本人学校へ派遣されていますね。

11.jpg小学校教員生活9年目を迎えた頃、海外での教育経験が自分の教育者としての器を一回り大きくさせるとの期待から、文部省の在外教育施設派遣制度へ応募しました。幸運なことに NYの日本人学校では3年間の勤務期間が与えられました。この学校は小学5年生から中学3年生までが対象で、現地校あるいは直接日本から来た子供たち、それに米国以外の海外滞在経験者など、様々なバックグラウンドを持つ生徒が集まっていました。生徒の構成が異なるこの学校での体験は、自分の教育に対する視野が広がり、大いに勉強になりました。


——NYで3年間の勤務を終えて帰国後、特殊学級を担任されていますが。

以前に勤務していた小学校に戻って1年後、チャレンジという意味からも特殊学級の担任を自ら希望しました。自閉症、肢体不自由、知恵遅れ、学習障害など、特別な教育的ニーズを持つ児童たちへの指導は画一的にはできません。親との連携プレイの中で一人一人の事情と向き合い、各児童に適合した方法を見出して自信を与える…。私自身も暗中模索でした。関係書を読み漁り、研修会に積極的に参加し、諸先輩にアドバイスを求めるなど大変苦労をしましたね。でも、その子が必ず持っている優れた面を伸ばし、自分は社会に役立つ人間だという自覚と自信を持たせるように導くのが本来の教育の姿、これが教育の原点だと、特殊学級を受け持って確信したのです。


—— みなと学園に派遣された経緯は。

特殊学級を担任していた1992年2月、校長室に呼ばれて行ってみたら「来年度から大和市の教育委員会勤務」 との辞令。NYでの経験が買われたのでしょうか。増加を続ける帰国子女や出国子女、あるいは来日外国人子女の担当を任命されました。その後、神奈川県立教育センターの教育相談室勤務が6年続き、計8年間、様々なパターンのカルチャーショックを受けている子供たちのケアに携わりました。これらの経験を積んで、「今なら、海外での子女教育でより良い指導ができる」との自信が芽生え始め、再び派遣教育への道を志した訳です。みなと学園校長就任は2001年春。前回の赴任地がNYですので、図らずもアメリカの東西で教育体験を得ることができました。


—— 補習授業校での指導にあたり、子供たちにどのような期待と激励を。

基本的に全生徒が現地校に通学し、日本の「ゆとり教育」 (公立学校の学習内容削減、完全週休2日制) の提唱とは逆に、学習密度をどんどん濃くしているアメリカの教育を受けています。みなと学園に通う子供たちはその厳しい授業をこなし、土曜日に国語と数学を中心に主要教科の補習授業も受けている。日本で使用される1学年の教科書を40~50日の授業で終えなくてはならず、それぞれが相当なストレスを感じながら生きているのです。私はいつも「今、大変な思いで続けている努力が、将来、日本あるいは世界で羽ばたく原動力になる」と彼らを激励し、そうなることを信じています。地球の未来を担っていく子供たちにエールを送り、やがて彼らが成長した姿を目にする時、私の指導は間違っていなかったと ̶̶̶。その日が来るのを心待ちにしています。


—— 教育の原点となる格言や座右の銘がありましたら…。

11_2.jpg母校、玉川学園の創設者である小原國芳総長の 「人生の最も苦しい、いやな、辛い、損な場面を真っ先に微笑みをもって担当せよ」 という言葉 ̶̶̶。学園入口の石壁に 小原先生の遺筆で刻まれていて、そこを通る度に脳裏に焼き付けられた気がします。総長は全人教育に基づく「労作教育」 (労働作業教育) という新教育論の提唱者の1人でした。労働は 「朗働」 であり、労作は 「朗作」 … 喜びを感じて物事に取り組む生き方を教え込まれました。先生の授業で忘れられない一場面が私の心に残っています。小、中、高と皆勤を続けた私でしたが、大学では気が緩んだのか、総長の授業に遅刻したことがありました。総長は遅刻の理由を尋ねる際、私を責めるでもなく、「家族が病気がちなのですか」 と真っ先に家族を心配して聞いてこられた。私は理由もなく遅刻をしただけなのに…。自分自身に恥じ入り、学生を思う総長の対応ぶりに私は深く感動していました。自分の生徒を信じているからこそ出る言葉です。教育者たる人物の理想像を学んだ瞬間でした。

みなと学園勤務も残すところ1年余となりましたが、人生の節々で私を応援して下さった方々がおられたからこそ、今日こうしてサンディエゴで教育に身を投じることができるのだと、いつも感謝の気持で一杯です。
 


八重澤 勇一 ・

サンディエゴ補習授業校みなと学園校長。1950年8月19日新潟県新井市生まれ。玉川大学農学部農学科卒。神奈川県横浜市内の幼稚園に2年間勤務後、同 県寒川町立一宮小学校、大和市立福田小学校教員。1985年~88年ニューヨーク日本人学校を経て福田小学校に戻る。 1992年大和市教育委員会、1994年神奈川県教育センター教育相談室勤務。2000年に大和市立引地台小学校に赴任後、2001年春から現職。現在は サンディエゴ市内スクリップスランチに夫人、2人の娘さんと3人暮らし。趣味は園芸。

※みなと学園:1979年設立。現在はチュラビスタ市内のイーストレイク高校の校舎を借用し、小・中・高合わせて560名、32クラス (小学部23、中学部6、高等部3) の規模を誇る。教職員は49名 (文部科学省派遣教員2、現地採用43、事務職員3、看護士1)。


(2003年2月1日号に掲載)