2024年 02月 27日

ゆうゆうインタビュー 稲盛和夫

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少年時代はどんな夢をお持ちでしたか。 

幼い頃は勝気でガキ大将だったかもしれません。私が育った時代は、日本が第二次世界大戦に突入して軍国主義の真只中にあり、将来自分は軍人になるだろうと思っていました。そして、13歳で終戦を迎えましたが、故郷の鹿児島は99%が空襲で 焼けてしまいました。父が経営していた印刷工場も灰塵に帰して、私は食にも困るという苛酷な境遇に置かれたのです。それから10年間は何をしても上手くい かず、手詰まりの状況でした。大学進学も志望校には入れず、郷里の鹿児島大学へ入学。また、希望する企業にも就職できず、京都にある中堅会社へ入社しまし た。しかし、そんな私にも転機が訪れたのです。私はファインセラミックスに深い興味を抱き、技術開発に没頭するようになりました。それから50年、脇目も 振らずにファインセラミックスの研究に力を注ぎながら、今日までの人生を歩んできました。


—— 京セラ設立の契機は。
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On a high school day, 1950 (left).


最初に勤めた会社ではセラミックの技術開発について上司と意見が合わず、退職してしま いました。でも、「あなたの研究は素晴らしい技術開発を導くに違いない」と言って下さる方々に支援されて京都セラミック株式会社 (現京セラ) が誕生しました。 当時の私は27歳。資本金300万円、従業員28名からの旅立ちでした。でも、私が京セラを設立したとは思っていない。皆様に設立して頂いた会社で、私は 必死になって努力を続けてきただけなのです。実は、京セラをスタートした時点の私には、昨今のベンチャー企業のような大いなる野望というものは無かった。 セラミックの分野で世界一の会社にしたいとの思いは抱いていたものの、実際にはトップになる自信も見通しもありませんでした。希望だけを胸一杯に秘めて夢 中になって前進しているうちに、気が付いたらここまでの会社になっていたのです。


—— 京セラ設立当時の心境は。

やはり、毎日が不安だらけでした。「いつか会社が潰されるかもしれない」という 恐怖心が消えることはなく、そんな強迫観念から逃れようと毎日必死になって働きました。その甲斐あって初年度の売上は2,600万円。300万円の利益を 生むことができました。翌年も事業は順調でしたが、それでも「会社が倒産の憂き目に遭い、従業員や株主に迷惑を掛けるのではないか」という不安が念頭から 離れませんでした。結局、 その恐怖心と闘ってきたからこそ、ここまで努力を続けてこられたのでしょう。現在、 京セラは年間1兆2,000億円の売上を達成していますが、今でも決して「これでいい」と慢心することはなく「会社を持続しなければ」という気持で毎日を 過ごしています。


—— 新製品を続々と開発したファインセラミックスの技術とは。
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Kyoto Ceramic Co., Ltd. is founded, 1959 (sixth from the left in the back row).


セラミックスとは陶磁器、セメント、ガラスなどの総称ですが、ファインセラミックスは精製された原料を基にして最先端の技術で作られた高度なセラミックスを 指し ます。希少宝石のフォルステライトもその一つで、鉱物から採取した金属酸化物を高純度にしたものです。私がファインセラミックスの研究を始めた頃は世界的 にエレクトロニクス産業が勃興した時代でした。日本でもTV受像機が生産され、ブラウン管に使用する絶縁材料を国産のもので (当時はオランダから輸入) という依頼が松下電子工業 (現松下電器産業) からあり、新しいファインセラミック材料を使用して高周波によって電気を絶縁する新製品を開発したのです。その後、シリコン・トランジスター用セラミック スやセラミックIC (集積回路) パッケージの製造など次々に展開していきました。シリコンバレーの成長期以前から現在に至るまで、アメリカの半導体とセミコンダクター産業を側面から支援 する形で京セラも発展してきました。


—— 京セラの社是 「敬天愛人」 についてご教示ください。

これは、私の郷里の大先輩である西郷隆盛が好んでいた言葉なのです。私は子供の頃から南洲翁の人間性、生き方、考え方を尊敬していました。京セラ設立当時、 創業に協力して下さった方から「敬天愛人」の書を頂きました。大変嬉しかったので、早速オフィスの応接間に掲げていたのですが、せっかく頂いたのだから社 是にしようと思い付いたのです。以来、「敬天愛人=常に公明正大、謙虚な心で仕事にあたり、天を敬い、人を愛し、仕事を愛し、会社を愛し、国を愛する心」 の社是の下で「全従業員の物心両面の幸福を追求すると同時に、人類、社会の進歩発展に貢献すること」を経営理念とし、環境重視の経営を心掛けてきました。 この書は現在でも私の本社オフィスに掲げてあります。


—— 京都賞創設の意義と受賞者決定のプロセスは。

京都賞は科学、文明の発展、そして人間の精神的な深化、高揚の面で著しく貢献した人々の功績を讃えて贈られる国際賞で、毎年、先端技術、基礎科学、思想・芸術の各部門に1賞ずつ計3賞が贈られます。

京セラ誕生から25年が経過した1984年、努力の成果と同時に神の導きにより、当社は年間売上額2,300億円という大企業にまで発展してきました。世 間からは一般的に「金持ち」と言われるようになりましたが、私はそう呼ばれるために努力してきたのではありません。先程述べたように、そのような成果は神 様、そして自然から頂いたものだと思っていたものですから、社会還元という形で資産を使いたいと考えるようになりました。そんな折、技術開発や研究の分野 において人知れず努力を続けている人々を顕彰する賞がノーベル賞以外に存在しないという事実に気付きました。そこで、 京都賞の母体となる稲盛財団を設立し、人類の進化や発展にいささかでも貢献したいとの思いから京都賞を創設したのです。

審査方法は、全世界の研究期間や大学等から各部門数千通の推薦状が発送された後、 専門委員会で3部門の候補者を絞り込みます。続いての各部門審査委員会でより広い見地から審査が行われ、更に3部門をまとめた京都賞委員会で総合的に京都 賞の理念に照らした審査を経て受賞者が決定されます。国家、人種、宗教、心情を一切問わない非常に厳正で公平な審査となっています。過去に京都賞を受賞し た2人の方がノーベル賞を受賞していることは大変嬉しく思います。


—— ご自身に多大な影響を与えた人物とは。
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On an overseas business trip, 1970 (top).


今日を迎えるまでに、数え切れないほどの素晴らしい方々と出会ってきました。産業界においては心から尊敬する大先輩の松下幸之助氏。「経営の神様」と呼ばれ た松下氏からは「経営に余裕が無いのは、余裕を求める『思い』に真剣さが無いからだ」 という「思いの経営哲学」を改めて学びました。また思想的には、ヨガの哲人と呼ばれる中村天風 (なかむらてんぷう) 氏の「人間の存在意義」を解明する実践的な教えに深く共感し、自らの人生と事業経営に活かしてきました。

天風氏と同じように結核を患った少年時代に彼の本 を耽読し、その中にあった「病気になったのは、病気を引き寄せる弱い心を持っているからだ」という言葉に強く引かれ、後に自分自身で確立した思想の礎に なったと思っています。耳順の齢 (60歳) を過ぎてからは仏教に帰依するようになりました。65歳を迎えた1998年に臨済宗妙心寺派円福寺にて得度をさせて頂きました。得度をして人生が大きく変 わったという意識はありませんが、仏陀の教えを勉強することによって、私の人間性が出来上がったような気がしています。


—— ロサンゼルス 「盛和塾」 開塾式での講演内容は。

盛和塾は1983年、人生哲学と経営哲学を学ぶ目的で集まった京都の若手経営者による自主勉強会に端を発しています。盛和塾は日本国内に52カ所あり、海外 ではブラジルや中国などに続いて5番目となるアメリカ初のロサンゼルス盛和塾が2月29日に発足 しました。私は開塾式で「経営者は夢に見るほどの強烈な願望を心に抱くべきである」 と講演しました。人が何かを「思う」ことはさして重要ではなさそうですが、実は 「強い思い」こそが人生を形成し、そして変革していく最大の要因となるのです。事業経営を続けるには株主に対応しなければいけないし、従業員も養っていく 必要がある。そういう人達の期待に添うためにも、経営者の「強い思い」が直接に影響して、 成功に向けて大きく作用する事実を伝えたのです。

また、「日系人の方々が企業人としてアメリカで成功していない。これは実に不思議でならない」と申し上げました。日本人の場合、学者、医者、弁護士、会計 士などの個人的な資格で成功している方は多数おられますが、経営者として成功している例をあまり聞きません。他民族の人々をまとめ、説得し、納得させ、牽 引していくリーダーシップの欠落が原因ではないだろうか。日本は特殊な文化を持ち、しかも仏教圏であり、キリスト教やイスラム教圏の人々の間で成功するの は難しいと思い込んでいるのではないか——と感じられるのです。否、自分は正しいという自信があれば、民族、宗教を越えてその「思い」が通じるはずです。 もう一つの重要な要素は周囲の人々を魅了することです。相手を魅了するには、言葉に出して自分の気持ちを伝達する手段が必要になってきます。確かに、日本 人には語学というハンディがある。しかし、 そのハンディを乗り越えてアメリカ人を惹き付けていくことが成功のカギになるはずです。


—— ご自身の人生訓とされている言葉はありますか。
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At the presentation ceremony of the 19th Annual Kyoto Prizes, 2003.


最近では「人生はなるようにしかならぬ」と考えるようになりました。先日、新潟へ足を運んで、良寛和尚のお寺を訪ねてきました。その寺には和尚の「困ること があったら困るがよかろう。死が訪れれば死ぬがよかろう」という言葉が残されているのですが、正にその通りだと思います。毎日が忙しく、次から次へと様々 な仕事が舞い込んできます。仕事が詰まっている時などは「このスケジュールも入れたのか!」と周囲に当り散らすこともあるのですが、私は日々の生活に苦を 感じてはいないのです。ジタバタしても仕方が無い。しんどければ、しんどくてよいのではないか。「どのような状況に直面しても、何が起ころうとも、明鏡止 水の境地で全てを迎え入れて生きていく。人生に逆らうことなく、ありのままの自分でいたい」—— そう思っています。


稲盛 和夫 (いなもり かずお) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

京 セラ取締役名誉会長。稲盛財団理事長。KDDI最高顧問。1932年鹿児島県生まれ。1955年鹿児島大学工学部卒業。1959年京都セラミック株式会社 (現京セラ) を設立。社長、会長を経て1997年に取締役名誉会長に就任。 1984年KDDIを設立し2001年より現在の役職に。1984年に私財を投じて稲盛財団を設立。 同時に国際賞である京都賞を創設し、毎年人類社会の進歩発展に功績のあった人々を顕彰している。また、日本国内52カ所、海外5カ所に渡る経営塾「盛和 塾」塾長として3,000人に及ぶ若手経営者の育成に心血をを注ぐ。京都商工会議所名誉会頭のほか、 海外でもスウェーデン王立科学アカデミー海外特別会員、ワシントン・カーネギー協会理事等を務める。1984年紫綬褒章を受章。2003年に日本人初とな るカーネギー博愛賞を受賞。主な著書に『日本への直言』『成功への情熱』『稲盛和夫の哲学』など。 現在、夫人と京都市に在住。


(2004年4月1日号に掲載)

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