—— 尺八という楽器について教えて下さい。 尺八にはさまざまな側面があります。尺八は 1,000 年以上前に禅僧によって中国から日本へ伝えられたと言われています。かつて尺八奏者たちは、それを音楽ではなく、単なる瞑想の道具として用いていました。日本の伝統楽器である尺八は、明治時代までは長さ 1 尺 8 寸に由来してその名が付けられました。現在では 1.3 尺や 2.5 尺、それ以上の サイズもあります。最近、私がよく用いる 3 種類の尺八は、第二次世界大戦後に誕生した極めてモダンなものです。 例えば、ボーカルが伴う場合は長いサイズの尺八が適しているなど、それぞれの種類に相応のスタイルがあるのです。私のライブではアンコールで 4.5 cm のミニ尺八を使用します。この尺八は甲高くて可愛い音色が特徴です。 ——昔から音楽に興味をお持ちでしたか。 私は音楽一家の中で育ちました。父はジャズトロンボーン奏者、母はバイオリン奏者、祖母はピアノ教師、兄と姉はロックバンドを組み、もう一人の姉はクラシック音楽のピアニストでした。誰もが音楽に関わっていましたが、私自身がプロのミュージシャンになるとは思いませんでした。私はスポーツ、特にサーフィンに夢中だったか らです。スクールバンドでトランペットの演奏もしましたが、高校に入ると放課後はサーフィンをしにビーチへ行きたくなり、次第に音楽から遠ざかりました。運転免許を取得してからは、私はほとんど毎日のようにビーチへ出掛けていたのです。勿論音楽も好きで、兄からもらったドラムセットを大切に扱い、時折ロックバンドで演奏していました。ハワイ大学入学後も地道に音楽活動を続けていましたが、ハワイを目指した本当の目的はサーフィンでした。 —— そこで民族音楽学と尺八に出会ったのですね。 そうなのですが、実は最初は中国哲学を学んでいました。ところが、その思想は競争的な大学の環境に身を置くことを否定していたのです。私は自分自身が真に望まない世界に関わっていると感じて、大学を中退する決意をしました。両親にその旨を伝えると、父は「山頂にたどり着く道は数多くあるだろう」と言い、私に深い理解を示してくれました。 —— 中国哲学が専攻かと存じていましたが。 私がなぜ最初に中国哲学に興味を抱いたかは理解していただけると思います。中退を決意した私でしたが、1セメスター分は学費の支払いを済ませていたため、取りあえず面白そうなクラスや教授を探し始めました。その一つが「ワールドミュージック入門」だったのです。新設されたばかりの講座で「民族音楽学」の一部でした。こうして私は1期生の新入生となりました。ここで出会った先生は素晴らしい人たちばかりで、私の心を即座に捕らえました。1年間休学した後、大学には在籍したくないと思いながらも、他の大学ではこのプログラムを学ぶことはできないことに気付きました。ハワイ大学にはユニークな講座のみならず、類を見ない多文化的なグループが存在し、韓国の人間国宝、南インドの歌手、日本の伝統的な弦楽奏者など多彩を極めていました。そこで、もう少し在学することにしたのです。 —— そこで尺八に出会われたのですね。 尺八は私の特別リサーチプロジェクトの題材でした。実際に外国を訪れてリサーチと論文に多くの時間を費やしている自分を思い浮かべながら、私は伝統と楽器に注目し、世界中の音楽を集めていました。言うまでもなく非現実的な希望でしたが、当時、その思い入れが私の人生に大きな変化を与えるとは想像もしていませんでした。私はドラムを演奏していたのでパーカッションに興味がありましたが、タブラ(北インド音楽に用いる太鼓)を教える先生はハワイでは見つかりませんでした。そこで、第2候補であった尺八を選んだのです。私は大学の通りを挟んだ場所に住む日本人の僧と知り合い、共に尺八を学びました。彼はコミュニケーションに十分な英語力を備えていて、とても親切で忍耐強い人でした。日本の伝統的な竹笛に興味を抱く風変わりなブロンドのサーファーでも一向に気にしないという趣でした。 ——尺八のどこに興味を引かれたのですか。 尺八をリサーチの候補に挙げた理由を話しましょう。大学図書館の試聴室で働いていた頃、時間があるときは常にレコードを聴いていた私は、3,000曲を超える数多くの音楽の中から、特に音色において傑出していた尺八を見つけたのです。奏者は故意に気息音の混じった音を奏でていて、私の注目を引きました。さらに、その楽器が単なる5孔の竹の笛であることを知り、そこに素晴らしい世界が隠されていると感じたのです。簡素なデザインと竹の素材は東洋文化の典型で、それ自体が独自の伝統であるという事実を含めて全てが気に入りました。私は尺八をバックパックに入れて、どこにでも持ち歩いて、好きな時に一人で演奏できるのです。これ以上、何が望めるでしょう。ついでに言うなら、これは便利な「孫の手」にもなるのです。 —— 後に、日本で尺八の修行を積むようになるのですね。 私は民族音楽研究者として、尺八を通して日本文化を学ぼうとしていました。それは焦点を絞った単独の研究であり、深く学ぶにはその源を尋ねる必要があると思ったのです。勿論、1年間だけ日本に滞在してもそこからは何も生まれず、商業的な道も閉ざされていることは分かっていました。しかし、私の研究を論文にまとめたり、修士号を取得するという道は開けるだろうと考えていたのです。こうして私は京都へ向かい、都山流尺八を学び、準師範の試験に合格しました。次の段階である師範の試験を受けるには3年間の待ち時間を必要としたため、帰米して大学を卒業した後、京都での勉強を再開したのです。それから6カ月後、師範の試験を受けて合格しました。その時点でも私には将来の計画がなく、 思うままの未来が広がっていました。当時は2年程度の滞在になるかと思っていましたが、これだけ長い年月になろうとは…。思い返せば27年前のことです。 —— 日本語の名前を授与された気分は。 私の本名はジョン・デイビッド・ネプチューンですが、私が所属する都山流では、2日間に及ぶ試験に合格して師範を取得すると、流派の一員として雅号を与えられます。試験はスクリーンの後ろに座っている審査員によって進められ、彼らは誰が演奏しているのか分からない仕組みになっています。単純に演奏だけで試されるのです。演奏後は次の部屋へ進みます。試験はとても厳正で、合格する確率は50%以下だと思います。ですから、雅号を得ることはとても名誉なことなのです。雅号は流派より「山」という名前を与えられた後、その前部は自分と師匠とで選ぶことができます。私の場合、ネプチューンの「海の王」という意味から「海」という言葉を選びました。「海山」は私にぴったりの名前です。高い山と低い海、地球と水という全てを包括しており、この名前をとても気に入っています。 —— 都山流について話して頂けますか。 都山流とは尺八の一つの演奏スタイルであり、特定の場所に存在する学校ではありません。グループの一派の名称です。都山流は有名な尺八奏者によって世紀の変わり目に誕生しました。その人物はダイナミックな演奏者でしたが、1950年代にこの世を去りました。彼は現代的な音楽家で、尺八をよりポピュラーなものにしたのです。古いスタイルの要素を多く用いて独自のソロを作曲し、琴と尺八をアレンジしてより音楽的な内容に変えたほか、多彩な尺八の曲を世に送り出して人々が共に演奏できるようにしました。それまでの尺八はほとんどソロの音楽だったのです。 —— 尺八の世界を進展させたのですね 。 その通りです。 ——ご自身の営みと同ように。 ある意味ではそうですが、彼と比較することはできません。音楽的に言えば、私も尺八の新しい境地を開こうと努力しています。 ——ご自身の尺八を作り始めた理由は。 尺八奏者なら誰でも製作することに関心を持っていると思います。私もそうでした。しかし、膨大な時間とエネルギーを必要とするこの作業に私を駆り立てた本当の理由は、私の望む尺八を手に入れることができなかったからです。私は尺八を一流メーカーから取り寄せていましたが、楽器に対しては他の人よりも多くの要求があり、満足できなかったのです。他のプロが聞こえないような音を感じ取っていた私は、苦情を並べ立てるよりも、自分がそこへ行って自ら作業をするべきではないかと思い始めました。私が本当に気に入る尺八を作ることができるのは私だけではないか ̶̶ と。それは私にとって大きな転機となりました。今では要求通りの尺八を入手することが可能になり、音楽家としてのレコーディング経験だけでなく、そこから離れた体験も得られるので幸せを感じます。私は夜遅くまで、時には翌朝まで尺八を製作しています。自宅で好きなだけ時間をかけて、自然素材の竹を使って自分の尺八を製作するひとときは素晴らしいものです。 ——尺八の製作を通して得られるものは。 真竹の選択から実際の製作過程まで、全体を通してそれは刺激的な体験です。作曲やコンサート時に要求される集中力は似ていますが、必要とするエネルギーの質は異なります。これを説明するのは困難ですが、そこには材料の入手、自然との関与、楽器の製作というそれぞれの段階があります。私は現在住んでいる場所の隣の林から木竹を伐採しています。コーヒーとサンドイッチを片手に出掛け、林の中で気に入った木の切り株を見つけて一休みするのですが、この極上の時間は世界中でそこでしか味わうことができません。そこは私の場所なのです! 竹を手に入れた後は6カ月から2年の歳月をかけて油抜きを行います。実際の製作段階で最も大切なのは、正しい音を得るために内径の形状を整えるということです。一番難しいポイントですが、音質、音の高さ、バランスを確定する重要な要素です。微少なりとも差が生じると、全体の音響は途方もなく複雑になります。 ——尺八製作は科学的ですか、それとも芸術的。 両方ですね。膨大な科学的知識が用いられ、その一方で芸術性が無ければ上手く機能しません。調整不可能な要素が数多くあるため、芸術的感覚が必要なのです。多くの弦楽器は弦が振動して母体の木の部分に共鳴します。そのため、木の部分に手を置くと音を弱めることになります。しかし、尺八は振動を利用した楽器ではありません。それは気柱共鳴によるものです。尺八奏者には不謹慎と言われるかもしれませんが、これは事実です。尺八の演奏中に誰かがその本体を握っても、孔を塞がない限り音には影響がありません。尺八の内径が重要という理由がそこにあります。 ——素晴らしい演奏を拝聴させて頂き、作為的でない優れた音楽は人々の魂を解放すると感じました。 それは真実です。そこには物理的に空気を通して身体に触れる振動があり、とてもパワフルで感性を研ぎ澄ませてくれます。演奏中、特に大勢の聴衆と空間を共有してエネルギーや高揚感に満たされる時、それが自分で奏でている音楽ではないように感じるのです。音楽と竹の共演の中に私が関わっているだけなのです。それは自然作用と呼べるもので、ステージ上の人だけでなく、聴衆も含めて人々と共に心地よい振動を楽しんでいる状態です。私が好きな日本語に「お陰さまで」という言い回しがあります。相手に対して、ホールに集まった素敵な人々に対して、サンディエゴ、カリフォルニア、全世界、これら全てを包み込んでいる宇宙も含めた森羅万象に対して感謝の気持ちを表した言葉です。私たちはこの宇宙の中で繋がっている事実を少しでも共感する必要があるのです。 忘れられない体験は重病患者のために開催されたショーでの出来事でした。会場は壮麗なホールで、西洋ハープ奏者がバッハとモーツアルトの名曲を演奏し、私もソロを披露しました。私が演奏を始めて数分後、予期せぬことに会場の女性が歌い始めたのです。それはただハミングするという感じではなく、私の演奏の音量と同じくらいの大声で、まるで誰かが彼女を絞め殺しているように聞こえるほどでした。「一体、何が起こっているのだろう…」と私は思いました。普通なら子供が騒いでいると両親が外へ連れ出します。しかし、この時は彼女を退場させる者もおらず、その音響は大変なものでした。彼女の歌声は会場全体にこだましていたのです(笑)。私はどうすればよいのか分からず、そのまま演奏を続けました。やがて、私の演奏が終わると同時に彼女の歌も止みました。声の主の方向に視線を向けると、そこには数人の看護婦さんの姿があり、彼女たちは涙を流していました。後になって、その女性がこれまで3年間、全てに対して無反応だったとの話を聞きました。あの時に歌を歌い出すまで、彼女は食事も受け付けず、家族に対しても口を利かなかったのです。これこそが音楽が奏でる振動の力です。人々の心に触れることができる力です。何という素晴らしい贈り物でしょう。 ——伝統的尺八奏者という枠を越えて、独自のスタイルを獲得した経緯は。 当初は伝統的な音楽以外を演奏する意志は全くありませんでしたが、音楽を追究する過程で変化していきました。音楽の道に終着点はなく、自分の演奏も進化していきます。 なぜもっと伝統音楽にこだわらないのかという人々もいますが、私はこの境界線を越えた自由な音楽スタイルが気に入っています。私の突飛なスタイルに対して「厳格な伝統を重んじている尺八奏者はどう感じるだろう」と批判の矛先を向ける人もいますが、そんな彼らでさえ実は驚くほどに開放的なのです。とにかく尺八に夢中に取り組み、音楽のスタイルに関係なく、それが素晴らしければ支持してくれるのです。私は常に「伝統基盤を継承することが世間と一体化すること。しかし、本質を瑞々しく演奏することで私は音楽家として深く認識される 」と口にしています。 ——座右の銘としている言葉は。 「やればできる!」。アメリカ人の私が尺八奏者として生計を立てているように、誰でも挑戦すればそこに可能性が存在しているのです。私には挑戦することが大切なのです。夢見ることはそれを現実として認識することです。失敗を恐れず、履歴にこだわらず、周りの視線を気にせずに挑戦することで、それを可能にするのですから…。 (2005年12月16日号に掲載) |