青森県津軽で誕生した独特の三味線は、普通の三味線よりもサイズが一回り大きく、迫力ある音色が特徴。しかも、楽譜に従って演奏される民謡と違って、楽譜そのものが存在しない津軽三味線は、アメリカのジャズのように自由にアドリブが楽しめる 「日本のジャズ」 と呼ばれている音楽だ。日本の伝統楽器の津軽三味線を、紋付袴を身にまとい、ジャズやロックのような小気味よいノリで演奏する吉田兄弟。ダイナミックでしかも癒し系の音色が日本の若者を中心に人気を集めている。2003年に米国でデビューを果たした二人。津軽三味線の新しい魅力を引き出す両人の素顔に迫ってみた。 —— 二人とも5歳から三味線を始めたそうですね。 良一郎さん (以下兄) 5歳の時に近所の友達がエレクトーンとかピアノを習い始めたので、僕も何か習い事をしたいと思うようになり、父に「何習いたい」と言ったんですね。そしたら、父から突然「三味線」という応えが返ってきたのです。でも、まだ5歳ですから、エレクトーンやピアノがどういう楽器か分かっていても、三味線はどんな形をしているのか、どんな音がするのか全く知らなかったんですね。でも、分からなくても「楽器なら何でもいいや、習い事ができるなら」とね…。たまたま、近所に三味線を教えている先生がいたので稽古を始めました。それが三味線との初めての出会いでした。 父は若い頃に津軽三味線のプロになりたかったんですね。その夢を僕たちに託したわけです。先生の所に通う前に、父が三味線を作ってくれました。どんな形をしている楽器なのかを僕に見せてくれたんです。洗面器を2つ合わせて、雪かき用のスコップの柄の部分に付けて、そこに糸を張って「こんな形をしているよ」と教えてくれて。僕はそれで暫く遊んでいました。 健一さん (以下弟) 僕は兄より2年遅れて、やはり5歳の時に三味線を始めました。兄が通う三味線の稽古場へ父が車で送り迎えをしていて、いつしか僕も一緒に付いていくようになり、そのうち「稽古場まで行っているのだったら、習った方がいい」ということで気軽に始めました。楽器を習うことよりも、稽古場でお菓子を食べたり、ジュースを飲んだりすることが楽しかったですね。最初は兄と別々に習っていましたが、やがて一緒に稽古をするようになって二人で一緒に通いました。家から自転車で15分くらいでした。 ——幼い頃から三味線が大好きだったんですね。 兄 いえ、その頃、三味線を愛していたのは父だけでした (笑)。さっきも言いましたが、それは週1回の単なる 「習い事」 という感じでした。でも、父はウルさかったですね。三味線に対する夢と情熱を抱いていましたから、父は僕たちにそれを伝えようとして 「いくらでも遊んでいい。でも、帰宅したら必ず練習しろ」 と言っていました。5歳から三味線の日々が続いているので、今では生活の一部になっていますが、正直言って、小学校に上がった頃に三味線が嫌になったこともあります。「着物を着て三味線を弾いているのが恥ずかしい」という気持ちがありました。 弟 毎日1時間から2時間は必ず練習していました。休んだ日はあまり無いですね。兄と同様、周りで三味線を弾いている友達がいなかったので恥ずかしい思いをしていたんです。年配の方が演奏する楽器というイメージがあったし、同級生に「何でそんな古い楽器をやってるの」って訊かれたりしましたから。小学校の低学年の時に「子供で習っているのは僕たちだけなんだ」と気付いたのです。しかも兄弟で三味線を弾いているのが珍しくて、お祭りとかイベントに駆り出されていました。でも、出演した次の日に学校に行くと同級生に冷やかされるワケですよ。それが嫌で…。稽古場に通う道が学校の通学路だったもので、背中に三味線を背負って自転車に乗っている姿を皆に見られてしまうんです。それがとても恥ずかしくて…。 —— プロとして活躍していこうと決心した時期は。 兄 高校2年の時ですね。就職か大学進学かと考えた時に、自分には三味線しかないなと思って̶̶̶。三味線が本当に面白くなったのは大会に出場するようになってからです。それが小学校6年生の時。全国大会に出るようになり、同年代の人や少し年上の先輩が賞を獲得するのを目の当りにして「ウワー、カッコいいな」と憧憬の眼差しで眺めていました。そして「負けてはいられない」と思い始めて、12歳からから自発的に三味線の練習をするようになりました。悔しい思い出と言えば、初の個人戦で弟が賞を取り、僕は賞に及ばなかったことです。13歳の時でした。兄としての屈辱というか。人生最大の悔しい思いをしました。 弟 小学校4年生の時に師匠が代わって、民謡から津軽三味線へ移ったんです。僕らの流派のトップの師匠である佐々木孝先生に習うことになりました。その先生に津軽三味線の面白さを教えてもらいました。大会に出場するようになったのもこの頃です。初めての個人戦で自分が賞を取るとは予想もしておらず、普段通りに弾くことだけを考えていました。僕以上に受賞を喜んだのは父でした。賞を重ねるにつれて、プロとして意識するようになりました。それは中学3年生の頃からです。結婚式やイベントで演奏して報酬を得るようになり、プロ意識が強まりました。当時、毎週土曜と日曜は北海道中を走り回っていました。 —— 津軽三味線の魅力とは。 兄 ソロの部分はジャズと同様、自由に何を弾いてもいいんです。『じょんがら節』という題名はあっても、譜面が無いんですね。津軽三味線は自分で作る音楽なのです。これが吉田良一郎の三味線だって言えるようなオリジナルを発揮できるんです。そういう意味でジャズと同じなんですよ。その場の雰囲気やその日の気分で音楽を創っていく̶̶̶これが津軽三味線の魅力です。父が「大のオトナが人生を賭けてもいい楽器は三味線だ」とよく口にしていました。その時は「何言っているんだ」と聞き流していましたが、今ではその意味が分かってきています。三味線はいくら練習を積んでも難しい、奥の深い楽器です。コンサートでは必ずと言っていいほど『じょんがら節』を演奏していますが、毎回違うのです。 弟 津軽三味線というのは演奏中でも拍手が来るし、掛け合いの声も飛んでくる。お客さんの反応と融合しながら、どんどん曲が育っていく。これが三味線音楽の基本ですし、最大の魅力と言えますね。 ——アメリカで昨年8月にデビューした経緯を話して下さい。 弟 デビュー当時から海外での演奏活動を意識していました。父からはデビューする前から「海外へ行け」と言われていたのです。日本でプロ活動を開始する前にも、デンマークやオーストラリアで親善コンサートを開いていました。でも、日本の楽器ですから、日本で十分に僕たちの音楽を浸透させてから海外に行きたいと思っていました。珍しい楽器ということで海外で認められることは当然ですから、海外で人気を得てから日本へ逆輸入することは本末転倒であり、避けたかったのです。先ず、日本で頑張って確かな土台作りをしようと̶̶̶。そんな理由から、デビューから4年待って海外進出に踏み切りました。海外で成功するにはアメリカでのデビューが先決だろうと思いました。 兄 津軽三味線は日本のジャズと言われていますから、ジャズの本場アメリカで挑戦したいという思いがありました。でも、アメリカだからといって特別に曲をアレンジすることは考えていません。自分たちのカラーをそのまま表現しようと思っています。 —— アメリカへ来て感じたことは。 兄 アメリカでは打てば響くお客さんの反応がスゴイと思った。舞台に上った瞬間に、待ってましたとばかりの「イエーイ!」。あの歓声にはグッときます。1曲が終わるごとに聞こえる大歓声や拍手の嵐に打たれるのは気持ちいいですね。自分のテンションがグッと上がります。次の曲へのステップアップにもなりますね。日本のお客さんはじっくり最後まで聴いた後で拍手をくれるけど、アメリカ人はちょっと違う。良いものは良い、悪いものは悪いという反応がはっきりしていますからね。 弟 兄の言う通り、アメリカ人のお客さんは演奏者の気持ちを盛り上げるのが上手いですね。津軽三味線はお客さんの反応で演奏者がその場の世界を創っていくものですから、それを知らないアメリカ人が見事に反応してくれるのが素晴らしい。そういう意味では、アメリカは津軽に近い感覚がありますね。少し悩んだ点は、アメリカ人と一緒にニューヨークで演奏した時に日本の“わび”“さび”がよく伝わらなかったことです。丁度、去年の大停電の時だったのでリハーサルも満足に出来なかったこともあり、演奏には苦労しました。 —— 現在の1日の練習量はどのくらいですか。 兄 平均で1日2、3時間ですね。 弟 僕は少ないですね。練習しない日もあるし。1日1時間半くらいです。 —— 人生で影響を受けた人物は。 兄 こんな素晴らしい楽器に出会わせてくれた父に感謝です。子供の頃は「古くさい楽器で嫌だなぁ」と思ったこともありましたけど、今や三味線1つで世界中を回れるのですからね。津軽三味線の演奏者の立場で言うと、昔お世話になった師匠の佐々木孝先生です。僕たちのデビューの数年前に亡くなりましたが、素晴らしい音色を創り出す先生でした。僕たちは佐々木先生から津軽三味線の全てを習いました。「お前たちは英語を勉強しなきゃだめだ。やがて海外に行くんだから」というのが先生の口グセでしたね。実際に、三味線の稽古が2時間で、残りの30分は英会話の訓練でした。先生は英語が話せたわけではありませんが、先生が知っている限りの英単語などを教えてくれて「次の稽古までに覚えてこい」と宿題を出されました。それに「五線譜を読めるようになれ」とも言われました。 弟 佐々木先生に習ったのは中学3年までの4年間でしたが、この先生の下で津軽三味線を一からやり直したという感じです。実りある4年間でしたね。今の僕たちがあるのは、この時期に教えを賜った先生のお陰です。両親にも感謝しています。母は舞台用の着物の準備をしてくれています。父からは「遊びと三味線はしっかりやっておけ」とよく言われていました。山、川、海の自然に恵まれた故郷で遊び回った子供時代の記憶は、僕たちの音楽に色濃く影響を残しているはずです。 ——信条としていることは。 兄 単純かもしれませんが「努力」です。淋しい話ですが、僕には三味線以外に好きなものが見当たらないし、趣味と呼べるものもありません (笑)。地道に三味線の真髄を極めていく̶̶̶これしかありませんね。 弟 「楽しむ」ことが大切だと思います。僕は車が好きなのでドライブも楽しんでいます。アメリカでは運転しませんが、関東地区では自分が車を運転して仕事場へ向かいます。 ——アイデアを物語に発展させる時、決まった手順や方法がありますか? はい。最初は、すべてのアイデアを集めます。そしてアイデアのひとつ得たとき、それを書き起こし、1~2ページからなる始まりと中間、ラストまでのラフ・ストーリーのアウトラインを作ります。アクションの描写とともにダイアローグの修正を行う場合もあります。その後、サムネイルを製作します。サムネイルは何インチかの小さな長方形の中にラフなスケッチを描き、その横に会話を書き入れます。ここから私はペンを使います。このやり方が私には一番適しているようです。すべてのアーティストたちがそうであるように、私は常に新しいものを開発しています。20年間で私のキャラクターたちも成長し変化しました。ほとんどの部分は無意識ですが、私のアーティストや物語作家、人間としての成長が影響していると思います。そして「兔」自身も彼の人生を背負っている感じがします。 —— 調子が悪い時の舞台の処し方は。 弟 常にある程度のレベルはキープしていますが、人間ですから不調の時もあります。調子が悪い時にテンションを上げるのは難しいですね。舞台裏から音がしたとか、お客さんが喋っているとか、そんなことを気にし始めたら質の良い演奏は望めません。どれだけ舞台上で自分の世界に没入できるか ̶̶̶ そこが勝負です。ですから、演奏とは無関係なことは全て排除していきます。体が演奏を覚えていますから、頭では余計なことを考えないようにしています。 兄 精神統一をして自分を無の状態に置きます。弟の言う通り、自分の世界に入り込むことが良いステージを作るコツですね。ですから、舞台の上で没我状態で演奏していると、ここがロスなのか日本なのか分からなくなる時もあります。 —— 幸せを感じる時は。 兄 何と言っても、舞台上で客席から拍手を頂く時に至福を感じます。あの快感を知っているから三味線を続けていると言えますね。 弟 ステージでも遊びでも瞬間を楽しむことに幸せを感じます。 —— 現在の音楽活動と予定は。 兄 8月半ばにロサンゼルスのダウンタウンで開催された二世週日本祭で野外コンサートを行い、5曲ほど演奏しました。ロサンゼルスはリピーターのお客さんが目立ちますね。そのリピーターの方が新しいお客さんを連れて来ている感じがします。三味線は湿気に弱いので日本での野外コンサートは難物なのですが、ロサンゼルスは乾燥した気候なので心配ありません。現地の人にもっと聴いてほしいので10月に全米無料コンサートツアーを開催します。ロサンゼルス、サンフランシスコ、シカゴ、ボストン、フィラデルフィア、ワシントン D.C.、ニューヨークを巡ります。10月1日はパサディナ、3日にはサンタモニカで無料コンサートを開きます。まだ足を踏み入れていない都市にも行くので、どんなお客さんが来るのか、偶然に通り掛かった人たちの足をどのくらい止めることができるのかを楽しみにしています。 弟 通常、僕たちのコンサートでは2時間で14曲から15曲を披露しています。休憩なしというのが特徴です。コンサートの流れを考えると、絶対に“休み”を入れたくないのです。最近、現地のアメリカ人のお客さんが増えたように感じますね。現地の方に僕たちの音楽を認めてもらうのはとても嬉しいことです。先ず、アメリカ人に三味線を知ってもらうことを念頭に置いて、二人の三味線がアメリカ人の心の中にどれだけ浸透できるかを見極めながら各地を回ります。 ——米国で発売する新作 CD “Yoshida Brothers II”の聴きどころは。 兄 今回のCDは、アメリカ人を始めとする海外の方にはかなり聴きやすいアレンジになっています。津軽三味線の魅力というか、弾き出しの妙を堪能してもらえると思います。津軽三味線は激しいという固定的なイメージがあると思いますが、このCDでは「癒し」を強調して作曲しています。 弟 僕の作曲はリズムから入っていくので、自分が好きなラテン音楽からも影響を受けています。ドラムやパーカッションが入った曲が好きなのですが、基本は二人の三味線による競演なので、どこまで2丁の三味線でそのリズムを表現できるかをテーマにして作った曲もあります。特に「鼓動」を聴いてほしいですね。 —— 今後の抱負と目標を話して下さい。 弟 三味線は奥が深いので、永遠に究められないもの。瞬間、瞬間に味わえる陶酔を楽しみながら続けていきたい。近い将来、世界を回るツアーを実現したいですね。 兄 僕たちにゴールは無いけれど、そうだね、世界ツアーの夢は叶えたいな。 吉田良一郎 (兄): 1977年7月生まれ。吉田健一 (弟): 1979年12月生まれ。吉田兄弟(兄・良一郎、弟・健一)は北海道登別市の出身。ともに5歳より三味線を習い始め、1999年にアルバム「いぶき」でメ ジャーデビュー。民謡界では異例の10万枚を超すヒットを達成。2000年「NHK 紅白歌合戦」に出場。2003年にアルバム『Yoshida Brothers』で全米デビューを果たし、NY、LAにてコンサートを開催。2004年、全米ではセカンドアルバムを発売。全米7都市にてプロモーショ ン・ツアーを敢行。映画『SAYURI』の TRAILER (予告編)で『もゆる』(『Sprouting』)が使用され、2007年に全米のTV-CM『Wii』に音楽が採用されています。日本国内はもとより、 アメリカ、ヨーロッパ、アジアにも活動範囲を広げています。2009年6月加筆修正。 (2004年9月16日号に掲載) |