2024年 02月 27日

ゆうゆうインタビュー エドウィン・マクダニエル

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「日本人の交渉手段」 を研究されていますが、日本人のコミュニケーションスタイルの特徴とは。

アリゾナ州立大学大学院でスピーチコミュニケーションを研究しましたが、私の学位論文の焦点は「文化の影響が日本企業のコミュニケーションスタイルにどのような影響を与えるか」でした。私がこの分野に興味を持った理由は、日本人とアメリカ人の間で展開されるビジネスにおいて、文化の違いに由来する問題が生じている現実を見てきたからです。特に、アメリカ人が日本人のビジネス事情を理解できないと嘆くのをよく耳にします。そこで、私は実際に日本企業の経営幹部にインタビューを申し出て、2 年の歳月をかけて典型的な日本人の特徴を解明しました。その一例として 「日本人は企画・計画の段階で、アメリカ人が求める以上の情報を収集したり、同じ内容の質問を何度も繰り返す」、また 「日本人はアメリカ人にはもう結論が出ていると思う議題を何度も討論したがる」 という傾向があることが分かりました。つまり、日本人は微に入り細を穿つような情報を欲するのです。その背景にあるものは 「自分の仕事に関する事柄を正確に把握し、全ての質問に答えられるようにすることが、自分自身のみならず、同僚、ひいては会社を守ることにつながる」という日本のビジネスマンの考え方です。一方、アメリカ人は「会議の長さは要領の悪さの現われであり、時間の無駄である」 と考えることが多いようです。「詳細に正確に」 という日本人の思考と、「要点と簡潔さ」 を求めるアメリカ人の思考とが衝突し、これが互いに不信感や誤解を抱くことにもなるのです。慣れ親しんだ文化背景によって人間の行動様式や思考様式が決定されるのですから、交渉の際には相手国の特徴を理解しておくことが必要です。

もう一つの研究テーマは 「IT の進化が日本の企業にどう影響を与えるか」というものでした。日本人は間接的なコミュニケーションスタイルを持ち続けてきましたが、最近では電子メールでコミュニケーションを取ることがビジネス活動の中心となり、「根回し」 といった日本特有の言葉は余り聞かれなくなりました。電子メールでは相手の表情から心情を読み取るような非言語によるコミュニケーションは出来ません。そのため、最近の日本のビジネスマンは以前と比べて「イエス」「ノー」をより明確に述べることが多くなっています。同時に、相手の表情を窺いながら曖昧な反応を示すという日本独特の表現方法は、以前に比べて、特に若い世代の間で見られなくなりました。私は IT が日本に及ぼす影響を調査し、2003年11月にマイアミで開催された学会で研究結果を発表しました。その成果がビジネス関連書籍や学生向け教科書として出版されることを願っています。これから世界に向けてビジネスを展開しようと考えている方々にお役に立てば幸いです。



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テキサス州にある祖父の綿花畑でコットン採集の手伝いに精を出す (1949)
——少年時代はどんな夢をお持ちでしたか。

私はテキサス州の小さな町で育ちました。人口が650人程度の農業中心の町です。私の父はサウジアラビアと南アメリカの油田開発に携わっていて、現地に滞在することが多かったため、私はテキサスの祖父の下で手伝いをしながら育ちました。綿やとうもろこしの栽培、牛の世話などを通して、私も将来は牧場を経営しようか、それとも獣医になろうかなどと考えていました。何しろ小さなコミュニティーでしたし、農業以外に興味の対象となるものがほとんど無かったのです。

私はテキサスA&M大学に進学し、そこで農業学を専攻しました。ところが、当時はベトナム戦争下にあり、18歳以上の男子は徴兵名簿に登録され、私も卒業後に陸軍への配属が決まり、戦地へ派遣されたのです。私の中には牧場主か獣医になりたいという夢と、国家に奉仕したいという願いが混在していました。私は陸軍に徴兵されたのですが、実のところ、飛行機や船などに乗って国家に奉仕したいと思っていたのです。そこで、卒業の前年に自主的に海軍に志願して入隊しました。大学を卒業して間もなく、ベトナム派遣の指令が下りました。私は後顧の憂いに煩悶するよりも、眼前にある現実の機会を素直に、そして積極的に取り組もうと思ったのです。ベトナム戦争 ̶̶̶ これが私の人生の転機になったと言えるでしょう。農業一筋に生きてきた私にとって軍隊での経験は全く新しいものでした。世界各国で数多くの友人に出会い、人生が180度転回していきました。


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ベトナム南部クアンガイ (Quang Ngai) で海軍の諜報連絡係を務めていた頃 (1969)
—— 従軍していた頃の話を聞かせて下さい。

ベトナムでは諜報活動の連絡係として任務を与えられ、陸軍と海兵隊に仕えていました。当時の状況は、現在テレビで報道されているイラク戦争と全く同じです。私は自分の任務を全うする使命感に燃えていましたが、我が身を取り巻いている危険な状況を察知して常に緊張していました。友人が死んでいく光景を目の当たりにし、平和な故郷で暮らしていた頃には全く顧みることのなかった「人生の価値」について否応なく考えさせられたのです。

ベトナム巡回の任務を終えた後、私は海軍の諜報員として働き、アジアとヨーロッパ諸国を駆け巡りました。中国とソ連の動向をアメリカ政府に報告するのが主な仕事でした。この仕事を通して私の目は世界の動きに向けられ、文化、世界観、行動様式などの多岐に渡る意味での国際関係について興味を持ち始めました。軍務に就いたことによって、私の視野は遥かに広がったのです。また、軍隊では人前でプレゼンテーションする機会も頻繁に与えられました。この経験は、後に教授という職に就いた時にも生かされたと思っています。

人生は出会いと経験で構築されていきます。1つの経験が何十年も後になってから、予想だにしていなかった形で役立つこともあります。今はまだ将来の展望が見通せないかもしれない。しかし、その努力と経験が無駄になることは決してありません。大学卒業後に軍隊に入らなければ、私はテキサスで農業の道を歩んでいたことでしょう。勿論、それも悪くない人生だったはずです。しかし、農業以外の分野に関心を持つこともなく、人生における出会いも少なかったでしょうね。


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沖縄近くの太平洋を渡航中、海軍の下で諜報活動の任務に就いていた頃 (1972 )
—— なぜ日本に興味を持ったのですか。

私が沖縄に駐在していた時、日本人の親切さに感銘を受けました。日本人の友人も沢山でき、同時に日本文化への興味が湧いてきたのです。そうなると、私の研究意欲は止まるところを知りません。日本人の通勤時間の観察から始まり、コミュニケーションスタイル、情報技術システム、服装、食物、温泉、建物、エチケットなど、ありとあらゆる分野を注意深く研究しました。この研究は私の人生が続く限り、今後も果てしなく続くでしょう。

一国の文化を知るということは、その国の人々との繋がりを深める上で大切なことです。特に、異なる国の企業間でビジネス上の問題解決を図る時、互いに相手のコミュニケーションスタイルなどの特徴を把握しておくことが不可欠です。因みに、妻の法子とはサンディエゴで出会ったのですが、日本文化を理解するための良き助力者となっています。年に一度は二人で日本へ行き、技術の発展や流行の変遷などをチェックしています。日本文化は奥深く、知れども知れども尽きることのない興味をそそられる国です。


——教授という仕事を選んだ理由は。

海軍を退役した後、日本についてもう少し学びたくて、アリゾナ州立大学大学院に進みました。そこで国際コミュニケーションを専攻して博士号を取得しました。その後、私は日米情報調査研究機構国際コミュニケーションセンターの総合責任者を1年間務めたのですが、突然、サンディエゴ州立大学から教授として招聘 (へい) 依頼を受けました。自分が教授になるというのは予想もしていないことでしたから、最初は大変驚きました。しかし、人生はプラス思考で進むことが大切です。私はこの“青天の霹靂 (へきれき)”とも思えたチャンスを喜んで受け入れました。新しい一歩を踏み出す時、新しい出会いがそこにあるのです。

私は現在、サンディエゴ州立大学でコミュニケーション理論や国際コミュニケーションに関する講座を担当しているほか、日本社会学に関連する人類学講座も受け持っています。長年にわたる日本での研究が、このような形で役立つことは大変光栄なことです。しかし、教授という仕事はチャレンジ精神が無くては務まりません。何しろ、優秀な学生たちの興味を引くために、常に講義の方法を工夫しなければなりませんから ̶̶̶。例えば、日本社会学の講義では日本映画をを学生たちに観賞させて、日本文化に関するレポートを書かせます。春季セメスターでは周防正行監督の "Shall we ダンス?" をテキストにして、熱気溢れるディスカッションを行いました。日本に対する学生たちの関心の高さにはいつも感心しています。と同時に、学生からの質問に答えるためには、私自身もよく準備しておかねばなりません。学生が積極的に授業に参加し、意欲的に学ぼうとする姿を見るたびに、教授は責任ある仕事を任されているとつくづく感じます。私は学生たちから教授としてのあるべき姿を学びました。


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論文執筆のために訪日。妻の法子さんと渋谷のレストランで (2002)
—— ご自身に多大な影響を与えた人物とは。

私の祖父と父です。農場を経営していた祖父と油田開発に携わっていた父。両人からは一つの分野を専門的に研究することの大切さを教えてもらいました。現在、私が教授として日本文化の研究に没頭しているのは、祖父と父がそれぞれの分野で熱心に働いていた姿が私の脳裏に焼き付いているからだと思います。

加えて、祖父からは他人を尊重して生きる大切さも学びました。当時の祖父の農場ではアフリカ系アメリカ人が雇われていましたが、祖父は常に彼らを尊重して平等に扱うように気を配っていたので、誰からも好かれる人間として尊敬を集めていました。祖父は特に裕福というわけではなかったのですが、自分の仕事に満足している様子が少年の私にもよく分かりました。他国の文化や思想、特に日本文化に対して私が幅広く興味を抱くことができたのは、「相手を尊重する」という本当の意味が私の心の底で理解されていたからだと思います。

また、もう一人の偉大なる人生の先輩はラリー・サモアールという方で、現在は退職されましたが、サンディエゴ州立大学で国際コミュニケーションを教えておられました。初めて彼と知り合ったのは、サンディエゴ州立大学の学生時代に彼の授業を受けた時でした。授業内容はどれも私にとって大変興味深いものでした。彼から学んだ国際コミュニケーションは私がクラスで教える内容の中に現在も生きていると思います。


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日光を観光した時の記念写真 (2001)
—— 将来の夢を話して下さい。

暫くはサンディエゴ州立大学で教授職を続けるでしょうが、退職後には日本に家を買い、妻と私でサンディエゴと日本を往来する生活を送りたいと思います。それが実現したら、日本では2つの夢を叶えたい。1つは日本の大学で非常勤講師として教鞭を執ることです。今までアメリカの大学でコミュニケーションを教えてきた経験を日本でも生かしたいと思うのです。コミュニケーションと一口に言っても内容は広いのですが、その中でも、日本とアメリカの文化の違いから生じるコミュニケーションスタイルの相違点について日本人の学生に教えたいのです。これは国際社会へ羽ばたいてビジネスで活躍する若い学生たちに役立つ内容だと思います。もう1つはビジネスコンサルタントとして日本とアメリカの架け橋になることです。これまでの研究の中で、日本企業とアメリカ企業が交渉を行う時、言葉は通じているのに交渉が上手くいかない例を何度も見てきました。異なる文化を背景とする、異なるコミュニケーションスタイルにより生じる問題̶̶̶ そのような時に交渉がスムーズに行えるよう、ビジネスコンサルタントとしての立場から力になりたいのです。コミュニケーション上の問題や誤解が生じた時に、私が両方の視点から物事を平等に捉えてアドバイスをすることで、双方が納得のいく交渉成立へと繋がれば嬉しいですね。


—— 人生のモットーは。

"Be a self-starter." 「事に当たる時は自分からアクションを起こせ」 です。これはアメリカでよく言われていることですが、他人が自分に何かを言うまで待ったり、自分に何かが起こるの座して待つよりも、自分から積極的に動き出すことが人生における成功の秘訣なのです。私が今までに多くの経験を積み重ねて実り多い人生を送ることができたのは、自分から新しい1歩を踏み出して努力してきたからです。私はこのモットーの下に生きてきたことに大変満足していますし、これからも積極的に自分の夢を追いかけたいと思っています。


エドウィン・マクダニエル ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

サンディエゴ州立大学コミュニケーション学部講師。1942年テキサス州生まれ。1966年テキサス A&M 大学農学部卒業後、ベトナム戦争のために入隊。1970年にワシントン D.C. で米海軍諜報機関に勤務。沖縄を拠点に環太平洋地域で諜報活動に携わる。1977年グアム大学大学院でアジア史学を修了。1991年まで米海軍での諜報活 動を続け、その期間に40か国を訪れる。その後、コミュニケーション研究をサンディエゴ州立大学大学院で開始し、1994年にスピーチコミュニケーション 修士号取得。アリゾナ州立大学大学院で国際コミュニケーションを専攻し、2000年にコミュニケーション学博士号取得。卒業論文テーマは 「日本人の交渉手段」。


(2004年9月1日号に掲載)