2024年 02月 28日

ゆうゆうインタビュー 山本順子

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私は自分自身を ̶̶̶ 私の内面的な世界を描きます。自分の真実の世界を語るために作品を創りたいと思っているので、どうしても私自身に関わった作品を創る以外にないのです。

自分が見て知っている世界の本質を明らかにしたいと思う私は、借り物の考え方や理屈から可能な限り離れて絵を描こうと心掛けています。そのために、イメージの内容よりも創作していく上での具体的な部分、例えばラインの質、色、構図などにこだわるのです。そして、なるべく潜在的な意識の中からイメージを呼び起こします。それは、通常気づいている部分より深い自分の内面の風景を、もっと正確に映し出したいという欲求なのです。ですから、描いている間は、それがどんな意味を持っているのかを意識することはありません。

私は物として価値のあるオブジェや工芸品を作りたいとは思いません。未知なる世界と対峙 (たいじ) しながら創作していきたいのです。私の理解に及ばない世界を発見する冒険がしたいのです。そして多くの場合、絵を描くという行為は私にとって戦いなのです。けれども、ある地点で私と作品との間に一種の対話が生まれ、それが私を新しい境地へと導いてくれます。私の作品を鑑賞する人たちが、そこから私と同じような体験を引き出してくれるなら、芸術家としてこんなに嬉しいことはありません。 (山本順子)


ご自身のアートの特徴とは。

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In a painting class (at age ten)
誰でも眠っている時に夢を見ますよね。夢は印象深いものだけが記憶の中に鮮明に残っています。私は、自分が見た夢を忘れないうちにメモに書き留めるようにしています。そして、完全に記憶が消えてしまわないうちに、その夢をリアリティとしてキャンバスに蘇生させています。例えば、サンディエゴに来たばかりの頃は英語に苦悩する夢をよく見ましたので、それを表現した作品を創り上げていました。本当はバラエティに富んだ作品を描いてみたいと思うのですが、自分に嘘をつきながら絵を描いても、結局は納得のいかない凡庸な作品に堕してしまうんです。頭に浮かんだ光景の中に自分自身を入れてみようとすると、次第にその試みが厄介になってしまい、作品が完成しないのです。頭の中で今リアルに見えているものを描くことしか許されないということに、最近やっと気付きました。自分が夢をコントロールしているようで、実は自分が夢にコントロールされていたんですね。  

私が夢をリアルに描こうとする時、1枚のキャンバスに限定するのではなく、映像を記録するかのように何枚ものキャンバスに展開しながら表現していきます。夢の中の1分間の内容でも、説明しようとすれば絵の数は限りなく増え続けて、あらゆる角度から見ようとすれば何百枚でも描けてしまうのです。夜に見た夢は朝目覚めた時点で半分以上忘れています。昼間になれば、よほど印象深い夢でない限り記憶に残っていないものです。事実、夢はほんの1コマしか思い出せないのですから、細密に描けば描くほど虚構性が強調されてしまうのです。創作の際は素早く1週間程度で仕上げるようにしています。  

描き込む時間が十分に与えられれば、もっと違う方向から描きたいという気持が強くなり、本当は真白く塗り潰して終わるべきなのだろうかと思ったりします。何故なら、夢から目を覚ます時、映画の最後が真白になってスクリーンが閉じていくように現実に戻ります。つまり、一つの絵に何年もかけて、それを目まぐるしく変化させていき、最後に全部真白にして終わることが最高のやり方ではないだろうか…と。結局はシンプルマインドで描くことが一番楽で、子供心にも帰って行けるし、それが一番楽しくて続けていけそうな気もするのです。


——創作計画や仕事の段取りを事前に決めているのですか。

いいえ。展覧会の有無に関わらず、スケッチをしたり色々と考えていますが、基本的にいつも仕事をしている状態に自分を置いています。自分の作品に思いを巡らして創作している時が最高なのです。生きている時間が全部自分に与えられた自由時間だとすれば、その全てをアートに触れて過ごすのは究極の喜びですから。


—— 自分なりの達成感 … 「ここまで到達した」 という感慨はありますか。

そのように考えることもできません。アートの世界は余りにも深いし、恐ろしいし、一生分からない未知のものだから。個から始めるのでなければ何から始めるのか ̶̶̶という思いで創作を続けても、個を知った時に初めて個が消えていくのでは…。

今の私は展覧会を程々にしたいとの思いが強く、絞り込んでいます。展覧会をこなしていくことに画家は専心すべきではないと思う。画家の仕事は作品を創ることです。展覧会は後で与えられる一つの発表の場ですし、展覧会から切り離して個々の作品について少し考えてみてもいいかなと…。アーティストを20年間続けてきて、今は我が心身を静けさの中に置いてみたいという気持ちです。自分自身が静謐 (せいひつ) そのものになり得るだろうか ̶̶̶。そんな思いで、貴重な空白の時間を子供たちに向けています。いつの日か、そこから新しい時代のアートが誕生するという期待を込めて。


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Lino print: “We Cannot Go Back to the Past,”1987
—— アートに目覚めた時期は。

父がメンズファッションのデザイナーをしていたので幼い頃からアートを身近に感じていました。ブティックを何件も経営していましたので、ファッションショーや展示会は私の遊び場でもありました。先日、アルバムを整理していたら、キャンバスに向かって花々を描いている10歳頃の写真 (前ページ) が出てきたんです。この写真を見つけるまで、自分が近所の絵画教室に通っていたことなどすっかり忘れていました。幼い頃の私は自分が着る服をデザインしていたそうです。特に、着物のデザイン(絵付け) は20歳まで続けていました。やはり、私は昔から絵が好きだったんでしょうね。でも、画家の道を志したことはなく、大学では栄養士を目指して勉強していました。そんなある日、全国の選抜大学生による海外文化研修のチャンスが与えられ、2カ月に渡りヨーロッパ9カ国を巡ってきました。イタリアではパドバのスクロベーニ礼拝堂を訪ねました。ジオットのフレスコ画※を見た瞬間、画集で見た時とはまるで違う、言葉にできない程の感動を全身に受けました。どの絵からも人々の声が聞こえてきそうで…。※フレスコ画…壁に塗った漆喰 (しっくい) が乾かないうちに水で溶いた顔料で描くので、毎日その日の分だけ漆喰を塗って描く絵画。描き直しが難しいので制作には熟練を要する。


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At the presentation ceremony of the Miramar College Graduation Alumni Award, 1996
——渡米の契機は。

結婚を機にサンディエゴが生活の拠点となりました。1971年のことです。昔からアメリカに憧れていた主人は若い頃に永住権を取得し、私と出会う前からアリゾナ州で働いていました。実を言いますと、私たちの結婚には面白いエピソードがあるのです。  

1970年に私と父と友人の3人で大阪万博へ行ったのです。そして、大阪で暮らす父の古くからの親友宅を訪れたのですが、その親友というのが今の夫の父親でした。私と夫の両親とはその日が初対面でしたが、いつの間にか 「息子と結婚してもらえたら…」 という話になってしまったのです。息子が一時帰国をした際にお見合いをして欲しいと頼まれたまま、私は横浜の自宅へ戻って来ました。この話を聞いた母親は大反対。アリゾナ州がどういう所なのかも知りませんでしたからね。その当時、私には婚約者がいましたので、主人が帰国した際に直接断るつもりでした。  

そして、主人の帰国当日。私たちは羽田空港で初めて顔を合わせました。私が話を切り出そうとすると、「今は時間が無いので、大事な話があるなら大阪まで来て下さい」 と、用意されていた航空券を彼の父から手渡されたのです。とても驚きましたが、仕方がないので大阪の彼の実家へ向かいました。なかなか話を切り出せないまま翌日を迎えてしまい、主人の父に 「出掛けましょう」 と連れて行かれた場所が結婚式場だったんです! しかも、1週間後に挙式をすると言うんです。プロポーズも無いのにですよ (笑)。何が何だか分からないまま、横浜へ戻って両親に結婚の話を伝えると、母は驚いて腰を抜かしてしまいました。でも、夫のことを昔から知っている父はとても嬉しそうでした。私自身、なぜ結婚を決意したのか分からないのですが、主人と話すうちに 「アメリカで独りで頑張っているこの人の支えになれるなら…」 という気持ちが芽生えていたのかもしれません。そして、予定通り1週間後に挙式しました。さらにその1週間後、横浜でも二度の 「華燭の典」 を挙げました。この時、私は大学在学中でしたので、翌年の卒業を待って渡米することになりました。その間に主人はアリアゾナ州からサンディエゴへ生活の場を移していたので、私もこちらへ来ることになったのです。



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At Junko Yamamoto Thesis Exhibition, 1990
—— アーティストを志したのは渡米後ですか。

ええ。渡米して数年後のことです。すぐに長男が誕生して、続いて次男。子育てに追われる毎日で、学校に通う時間が無く、英語に不自由しながら過ぎて行く日々が嫌になってしまい、一度日本へ帰国したことがありました。その時、当然ながら母親から 「あなた、子供がいるのに何をやっているの。早く戻りなさい」 と叱責されてしまいました。サンディエゴへ戻って主人と話し合い、家事や子育てで夫に負担を掛けるという負い目を感じながらも、カレッジに入学して勉強を始める決意をしたのです。私が英語を話せるようになることは子供の教育にとって大変重要であり、勉強できるチャンスは今しか無いことに気付いたのです。子供と接する時間は減ってしまっても 「子供は親の背中を見て育つ」 という言葉を励みにしながら、子供たちは分かってくれると信じていました。初めはビジネスを専攻しましたが、後に心のどこかで思い続けていたアートに転向し、アーティストとしての活動が始まりました。


—— 学生生活で苦労したことは。

私は子供の頃から勝気な性格で、学校の成績は 「A」 でないと気が済まなかったのです。その思いはこちらに来てからも同じでしたが、全く英語が分からない私が最初からそう簡単に好成績を取れるはずがありませんよね。カレッジで初めて履修した教科の一つにアメリカ史がありました。2週間に一度テストが行われていたのですが、私は 「C」 という評価を受けてしまったのです。ショックを受けた私は先生に 「クラスを辞めたい」 と告げましたが、「このクラスで C の成績は A に値するのだから自信を持ちなさい」と慰められ、次に頑張るよう励まされました。ところが、次のテストでも同じ結果に終わってしまいました。私は True or False の問題に弱かったのです。苦手というより、英語が分からないために問題の意味が理解できず、毎回ʻ勘ʼだけを頼りに解答を書き込んでいたという始末… (笑)。そして、再び先生に 「授業をドロップしたい」 と申し出ました。すると、先生は私のノートを覗いた後、私にオフィスへ来るようにと言い、その日から毎回授業の後に先生の元へ足を運んで True or False の特訓を受けるようになりました。その甲斐あって、テストの成績も徐々に上向きになり、最終的に 「A」 を獲得することができたのです。後に先生は 「ノートの取り方を見て、君ならできると思った」 と言ってくれました。この経験が自分への自信に繋がったと思っています。   

カレッジ卒業後はサンディエゴ州立大学へ編入し、無事に大学院も卒業することができました。日本にいた頃の私の夢の一つは 「Ph.D.取得」でしたが、親の反対もあってこの夢は諦めていました。でも、10年間必死に勉強し、遂にここアメリカで一つの夢 (M.F.A. 取得) を叶えられた時の喜びは格別のものでした。



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In an art class at Kennedy Children’s Center (National City), held 4 - 5 times a year
—— 絵を描くことの効用とは。

主に左脳は 「言語脳」、右脳は 「イメージ脳」 とも呼ばれているのは皆さんもご存知でしょう。 映像による記憶機能を持つ「右脳」を鍛えるとイメージや想像力が膨らんだり、記憶力を高めたり、柔軟な発想が可能になるのです。充分に鍛えられた 「イメージ脳」 は情操を育み、知的活動を助け、子供たちの世界を無限に拡げてくれます。   私の絵画教室 J. K. Studios に通う子供たちを見ていると、絵を描く高度な技術をすぐに身に付けるとか、目覚ましく上達するというよりも、彼ら、彼女らしさという独自の個性が出てくるんですね。本当に子供たちの変化には驚かされます。明らかに目に輝きが出て、自信に満ちて生き生きとしてくる。その子が潜在的に持っている宝物、未だ自分では見えていない独自の世界を一緒に探して、それを掘り出していく̶̶̶。

私の絵画教室では 「教える」 よりも 「発見して伸ばす」 に主眼を置いています。とにかく、子供たちのパワーを引き出してあげたいのです。それぞれのお子さんが持つ大切な宝物を埋没させたままにしないように…。


——将来の目標は。

子供の教育に対する姿勢が重視される今、私は文学的かつ芸術的に高度なものを与え続けていきたいと考えています。そして、子供たちには早い時期から美に対する親しみと憧れを抱きながら絵に触れて欲しいと思っています。私が主宰する絵画教室 J. K. Studios は今年で7年目を迎えます。毎年夏には生徒たちの絵を主題にした展覧会を開催しながら、現代の子供たちの生活を垣間見る貴重な経験をさせて頂いています。昨年は40名の作品を展示し、子供たちの作品に懐かしさを感じるというよりも、色使いの鮮やかさや表現の分かり易さに魅せられ、私自身が思わず童心に返りながら鑑賞していました。大人になって何かを忘れてしまった自分が、子供の視点に戻って絵を鑑賞できたことは最大の喜びだと実感しました。  

私は英語ができない日本人であったからこそ、今の自分があるのだと思っています。最初から英語が話せていたら違う道に進んでいたかもしれませんし、アーティストとしても特に注目されていなかったのでは…。現在は J. K. Studios での指導が忙しく、私の 「夢日記」 は一休みしている状態なのですが、キャンバスと向かい合いながら忙しく過ごす日々が再び訪れることを楽しみにしています。


山本 順子 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

アーティスト。絵画教室 J. K. Studios を主宰。1948年4月26日宮城県生まれ。デザイナーの父を持ち幼少期よりアートの世界に触れて育つ。1971年に結婚を機に渡米。ミラマー・カレッジ にてビジネスを専攻後、ファインアートに転向。サンディエゴ州立大学で美術修士号を取得した後、全米各地の美術館、アートギャラリーで数多くの個展を開催 する。また、ミックスメディア・アーティストのみならず、陶芸家、版画家としても多くの秀作を発表し、American Printmaker 等の権威ある展示会で数々の賞を受賞。1996年 Distinguished Alumni Award 受賞。1998年に絵画教室 J. K. Studios を開設し、生徒の指導に明け暮れる日々を送る。長男のアンソニー (Anthony) 氏は Quick Silver デザイナーとして活躍中。現在、ステンドグラス・アーティストとして活躍する夫の恵一氏、次男のヘンリー (Henry) 氏と共にサンディエゴ市内ランチョペニャスキートス (Rancho Penasquitos) に暮らす。


 (2004年5月1日号に掲載)