Friday, 26 July 2024

ゆうゆうインタビュー アレキサンダー・チュアン

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サンディエゴ中国歴史博物館が創設された経緯は。

1985年に地域の歴史遺産の保存を目的として、中国系アメリカ人グループのサンディエゴ&バハカリフォルニア華人歴史学会がトム・ホム氏やバディー・ウォン氏らによって創設されました。私がこの団体に参加した1987年から、一般人がこれらの歴史遺産に触れることができるようにと博物館の建設に向けて動き出したのです。


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Santa Fe Wharf from Market and Kettner Blvd. in 1890, now home to the San Diego Convention Center and Sheraton hotels.
——オールド・チャイナタウンという絶好のロケーションの獲得はどのように。

トム・ホム氏は元サンディエゴ市議という経歴もあり、市の事業がどのように行われるかを熟知していました。彼は市の助力を得て博物館用の敷地獲得に乗り出したのです。数年が経過した1991年、市は私たちに昔チャイナタウンだった 3rd Ave. 404番地の土地を提供してくれました。当時はスラム街でしたが、私たちは喜んで受け入れました。一方、建物はチャールズ・タイソン氏によって寄贈された元中国伝道協会の建物で、現在のラルフス・スーパーマーケットがある 1st Ave. に位置していました。この建物は60年代以降、野放し状態となっていました。私たちは最初にこの建物を手に入れたのですが、実際に移動する場所など無いという有様でした。当時、この辺りにはコンベンションセンターもホテルも存在せず、本当に何もありませんでした。最終的に私たちは土地を獲得できたものの、そこには別の建物が建っていたため、中国伝道協会の建物を移転するためにそれを移動させなければならない̶̶̶ そんなもう一つの問題が発生していました。私たちはトム・ホム氏、ドロシー&ジョセフ・ウォン夫妻、リリー・チェン博士、そして親友のドラムライト大使らと協力して、私が長となって博物館建設委員会を組織しました。それから約2年後の1993年、正式な起工式を迎えましたが、それでも移転、復元、再建のための十分な資金を持っていませんでした。ようやく地元の寄付や台湾からの援助を得て、46万ドルの資金を工面して、1995年に再建工事がスタートし、翌1996年に博物館が完成しました。ところが、私たちには展示するものが何も無かったのです。館内は文字通り“空っぽ”でした。


—— ようやく博物館が完成したのに、展示品が無かったとは…。

そうです。「イン・サーチ・オブ・ゴールド・マウンテン」という変哲もないパネル以外は何もありませんでした。これは現在も残っていますが、グランドオープニングの際、私たちはそのパネルを博物館の中心に置きました。その当時は私と一緒に女性1人だけが働いていて、館内には椅子さえ無かったのです。それから少しずつ、工芸品や記録などを集め始めました。購入することもありましたが、ほとんどは寄贈によるもの。バーチ水族館を始めとして、代々引き継がれた家族のコレクションなどの寄付を受けながら、その貴重な品々を保管して人々と共有してきました。


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Chinese fisherman prospered for a time. Some of the 18 “junks” that called San Diego Harbor home in 1887.
—— 現在、博物館には何が保存されているのでしょう。

様々な記録文書や当時の人々の生活が偲ばれる遺産の数々です。私たちは、かつて中国人によるフィッシング・ビレッジが存在した地区から多くの物を発掘して保存していました。再開発によって消失する前に、歴史的遺物を発見することができたことに感謝しています。そこは中国人コミュニティが栄えた場所でした。当時は何の価値もありませんでしたが、今ではサンディエゴで最も不動産価値の高い場所の一つです。廃屋と化した掘っ立て小屋の所在地に、現在は500万ドルとも言われるペントハウスが建っています。博物館の展示品はシンプルですが、探し出すのが大変困難な品々も含まれています。その価値を認めてくれない人もいますが、私たちにとっては歴史的に大変重要なもので、値段が付けられないくらいの価値があります。中国のロッテリーマシンを見たことがありますか? このスタイルのマシンは70年から80年前にここで誕生し、今でもラスベガスの「キノ」用に使われています。当時はロッテリーのチケットを売ることは合法で、賞金は2,000ドルの価値があったとか。


——博物館は素晴らしい建物ですね。以前の中国伝道協会では何が行われていたのですか。

1885年に創設された中国伝道協会では、宗教活動以外に中国系移民のための職探しなど、新天地アメリカでの生活に順応するための手助けを行う場所でもありました。住む場所を提供したり、地域の人々の社交場となっていたのです。中国系コミュニティと共に幾星霜、私たちの歴史がこの扉を通り抜けていきました。今でも同じ建物からコミュニティのために尽力できるのは感謝すべきことだと思います。


—— 現在の状況から当時を想像するのは難しいですね。サンディエゴのチャイナタウンについて話して頂けますか。

チャイナタウンは現在の「ガスランプ」地区にありました。Market St. の南から 2nd Ave. と 5th Ave. の間、そしてフィッシング・ビレッジにまで及ぶエリアです。フィッシング・ビレッジは現在のコンベンションセンターが建っている場所に当たり、昔はそこに中国人漁師が木造小屋に住んでいました。前述したように私たちが発掘を行った場所です。サンディエゴのチャイナタウンはロサンゼルスやサンフランシスコと比較すれば小規模でした。1880年の統計では、サンディエゴ市域の総人口8,618人に対して中国人は僅か229人。当時のサンディエゴは人種隔離が際立っていました。チャイナタウンや日本人街がある地域に多く住んでいたのは黒人で、そこは売春なども行われる歓楽街でした。それぞれのコミュニティは近接していましたが、言語や文化の相違などの問題が横たわり、決して混合することはなかったようです。中国人は英語をほとんど話さなかったため、自分たちで結束する小さなチャイナタウンを形成したのです。この地域では、新参者の中国人は英語を話す必要がなく、ビジネスは仲間同士で上手く流通していました。


—— 中国人がアメリカ移住を目指した最大の理由とは。

貧困からの脱出と幸せな人生を獲得したいとの欲望が多くの中国系移民を招き寄せたのです。清時代の中国と言えば世界で最強のパワーを持つ国の一つでした。清は韓国から中央アジア、シベリアからベトナムまでの広い領土を抱えていましたが、やがて急速に衰退していきます。上海はイギリス、フランス、日本に占領されて中国人は排斥されました。「中国人と犬は立入り禁止」というサインがあった程です。多くの中国人はその状況から抜け出して、より良い生活を求めていたのです。アメリカまでの航海は困難を極め、渡航費も高価でした。人々は長時間かけて渡米を試みましたが、劣悪な環境の中で多くの人が命を落としました。彼らの中には、自らを労働者として身売りをしてアメリカへ来る者も少なくありませんでした。…厳しく、汚い仕事に汗まみれになりながら、渡航の費用を支払わねばならなかった。そして10年後、苦労の果てに人々は自由を手にしたのです。そう、奴隷のような働き詰めの日々を乗り越えて…。


—— 中国から開拓移民がサンディエゴに来た時期は。

最初に中国人がサンディエゴに来たのは1860年頃で、その多くが漁師でした。ポイントロマと現在のコンベンションセンター付近に漁村がありました。1890年代に最盛期を迎えた中国人漁師たちは、カリフォルニア産の杉を用いて造られた「ジャンク」と呼ばれる中国の伝統的な帆船を18隻所有していました。漁師たちは成功を手中に収めましたが、次第に地元漁師や地元民から妬みを受けるようになり、彼らは中国人漁師の生活を妨害しようとします。やがて、外国人への厳格な漁獲規制を強いる「3マイル」法という差別的な法律が制定されました。これは、沖合3マイル以上を航行する場合、アメリカ領土を離れることになるため、外国人は再入国するになるのでこれを違法とする̶̶̶というものでした。ご想像の通り、この法律の施行によって事実上中国人の漁業は全滅したのです。


——その後の彼らの行動は。

漁業が廃れても、中国移民には労働者としての需要がありました。彼らは働き者で、低賃金で雇うことができたからです。19世紀後半、中国人労働者は鉄道やサンディエゴ用水路などのプロジェクト用に雇われました。彼らはクヤマカ貯水池からサンディエゴまで36マイルの水運びにも従事しています。同時に、彼らはホテル・デル・コロナドの建設や、ジュリアン付近で金や宝石の採掘にも携わりました。とりわけ、ピンクのトルマリン鉱石は中国では高価な原石でした。当時、鉄道建設中にサンディエゴに来ていたアー・クゥインという人物が英語を流暢に話したことから、彼が中国人とアメリカ人との間を取り持っていたのです。彼はナショナルシティとサンバーナディノを結ぶ南カリフォルニア鉄道の建設のため、サンフランシスコの中国人労働者を呼び寄せています。クゥインは中国人コミュニティ内で誰からも好感を持たれて尊敬されていたため、チャイナタウンの長として知られるようになりました。興味深いことに、彼は英語で1,500ページにも及ぶ詳細な日記を残していました。これは、当時の地元中国人の実生活や出来事が直接体験として綴られた著名な記録と言えるでしょう。


——ご自身が渡米された理由は。

39_2.jpg私は1934年に中国で生まれています。当時は日本の軍事侵略の真只中にあった時代で、日本は韓国や台湾を占領し、やがて中国全土に侵攻してきました。私たちは南京に住んでいましたが、私が3歳の頃に日本軍に占領されました。私の母はあの忌まわしい「南京大虐殺」の直前に私と妹を連れて避難しました。私たちが生き残ったのは幸運でした。当時の記憶は今でも鮮明に残っています。鉄道駅で私たちは荷物を抱えて座っていました。周辺では日本軍の爆撃機による空襲が定期的に続き、駅には誰もいませんでした。私と姉はマラリアを患っていましたが、私たちには行く場所も無かったのです。私の父は政府の仕事で不在が続き、弟は幼少だったので母が誰かに頼んで田舎へ隠してもらいました。結局、私たち家族は3つに引き裂かれたのです。私と母は町から町へと父を探して歩きました。しかし、その度に父は何処かへ移動して消息不明になっていました。広州で市全体に避難命令が出された時、居合わせた私たちも汽車に乗り込もうとしていました。しかし、車内はすでに満員。人々は気も狂わんばかりの状態。母は空いた窓から私を車内の誰かに手渡し、自分も乗車しようと奮闘していました。1945年に連合軍が勝利して第二次世界大戦が終結するまでこのような状況が続いたのです。そして南京へ戻ってから9年後、ようやく私たちは故郷に帰ることができました。実家は焼失し、何も残っていませんでした。しかし、奇跡的に弟と再会できたのです! どうにか彼は生き延びていた! 日本の敗戦から間もない1949年に中国では革命が起こり、私たちは再び避難しなければならず、今度は台湾に向かいました。私は台湾で正式な学校教育を受けるようになり、国内でトップの台湾国立大学へ進学しました。卒業後2年間軍隊に入り、その後大学で助手を務め、海外へ出る手続きを始めました。私は海外留学の試験に合格し、大使館との交渉を行っていました。その当時、私は数多くの試験を受け、1962年にアメリカの地を踏んで、マサチューセッツ大学への入学を果たしました。私は中国系アメリカ人としてアメリカで経験した全ての事に感謝しています。アメリカは最高の国…というのが私の偽らざる気持です。その反面、中国人としての自分のルーツを発見し、いつまでも心に留めておきたいと思っています。


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Chinese laborers were critical to San Diego construction. Here shown working on the Central Pacific Railroad in the foothills of the Sierra Nevada.
—— 博物館では素晴らしい展示が見られますが、最近の試みとは。

博物館をオープンして以来、中国の伝統文化に焦点を当てた39種類の催事を開催してきました。常に私たちは新規展示会、コレクションの追加、教育プログラムを通じて地域と密着することを心掛けているのです。最近の目標は博物館の拡張実現。為すべき仕事は山積していますが、一歩一歩実現に近づいています。フロントには3つの窓が設置される予定で、それぞれの窓では「中国の伝統的な薬剤術」「中国の伝統学問」「中国系アメリカ人の生活」を回転式で紹介する予定です。これらの展示物は入手するのが困難でした。初期の中国系移民は貧困生活を強いられましたが、僅かでも収入を得るようになると古い物を捨ててしまったからです。今では歴史的遺産は数少なくなりました。現在進められているダウンタウン再開発によって貴重な遺産が永遠に失われることになるでしょう。市はこのエリアを「アジア太平洋テーマ地区」と銘打ちながら、事業経営者を招き戻そうとしてビジネスの活性化を促進しています。しかし、多くの人が「アレックス、このエリアの地価の高騰ぶりを知っているかい? ここでビジネスを行う余裕など無いよ」と私にこぼすのです。私たちは今の地所を購入していて幸運でした。今日の値段で買い入れる現実性など、あろうはずもなかったし…。


—— 困難を乗り越えて成し遂げた功績を顧みる時、胸に去来するものは。

「大いなる誇り」に尽きるでしょう。私たちはサンディエゴと中国人の歴史遺産の一部をここに保存し、世界中の人々と共有することを可能にしたのですから。最後に、私たちが掲げているスローガンを披露させて下さい。「5,000マイルに延びる山河の全景を人は睥睨 (へいげい) すること能わず。5,000年の悠久の歳月を重ねし文化を知悉 (ちしつ) する術も無し」̶̶̶。


アレキサンダー・チュアン博士 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1934年中国生まれ。1987年華人歴史学会代表を務め、1996年サンディエゴ中国歴史博物館館長に就任。1958年台湾国立大学機械工学部卒業、 1965年マサチューセッツ大学機械工学部卒業後、同大学構造動力学部で博士号取得。ゼネラル・ダイナミックス社やユナイテッド・テクノロジーズ社での業 績を通じて NASAの宇宙計画や設備面で貢献する。同時期にサンディエゴ大学の助教授も務める。趣味は写真と造園。サンディエゴ歴史資源委員会メンバー。アジアン・ パシフィック歴史協会、サンディエゴ中国芸術協会その他の創設メンバー。氏の指導の下、サンディエゴ中国歴史博物館はマルチカルチュアル・ヘリテージ・ア ワード (1999)、アメリカ歴史学会によるヒストリック・プリザベーション・アワード (1997)、オーキッド・アワード・フォー・ヒストリック・プリザベーション (1996)、ピープル・イン・プリザベーション・アワード (1996) など数多くの賞を受賞。現在、妻アグネスさんとサンディエゴ市内カーメルバリー在住。サンディエゴ中国歴史博物館についての詳細は http://www.sdchm.org まで。

 
(2004年4月16日号に掲載)