ゆうゆうインタビュー ブライアン・リーマス

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「バイク・フォー・ブレインズ」はどういうグループですか。

「バイク・フォー・ブレインズ」は非営利財団でサイクリングのイベントを通して基金を集めます。私たちの目標は、サンディエゴ小児病院 (Children's Hospital) の神経科へ即時対応のMRI装置 (磁気共鳴映像法) を導入する資金を援助することです。この装置があれば、神経外科医は手術前に適切な診断が迅速にできます。現在でも、患者の様態を把握した上でMRIを実行した後に別の手術が必要かどうか判断するまで数日を要します。即時性の高いMRIを小児病院に設置することで、多くの時間と手術回数が節約でき、緊急な外科手術が必要な別の患者のために手術室を開放することができるのです。私の場合は幸運でしたが、一部の子供たちにとって手術のチャンスは1度だけで、2回目、3回目を受ける時間がありません。私が入院していた小児病院にこの装置があったなら、私は数回の手術を回避する事ができたでしょう。 現在、「バイク・フォー・ブレインズ」はイベントに向けて20人を越えるメンバーが携わっています。彼らが自転車で走るマイルごとに基金が増えていくのです。メンバーの何人かは私の友達や学校の知り合いで、他はこのグループの存在を知って参加するようになった人たちです。例えば、メンバーの1人である脳腫瘍を克服した女性はこのような形で自転車に乗ることにとても興奮していました。グループには自転車経験のある人から初心者まで、バラエティに富んだ人々で構成されています。私たちの最初のイベントは 5、10、25、55、100マイル別に行われる大規模な自転車レース「ツアー・デ・パームスプリングス」の一端を担っています。


——即時対応のMRI装置は高価なのでしょうね。

とても高価です。120万ドルに上るでしょうか。私たちが「バイク・フォー・ブレインズ」を発足した理由もそこにあります。病院がより優れた装置を持つことで、救済を必要としている子供たちに多くのチャンスを与える事が可能になります。とても長い道のりですが、今年中に目標を達成できなければ、来年、そして再来年へと望みを繋ぎながら、何年掛かろうとも所期の目的を達成するつもりです。先は長いですが、私たちは既に1万ドルを集めています。


—— あなた自身の脳手術の体験を聞かせて下さい。

私の脳幹には 「軸内嚢胞」 と呼ばれるゴルフボール程度の嚢胞 (のうほう=液体の溜った部分) が多数できていたのです。2002年2月以降、私はこの病気の治療のために小児病院で8回もの異なる脳外科手術を受けました。つまり、私はMRIに関して自分自身で体験しているのです。自律神経系、身体機能、行動をコントロールする脳幹に嚢胞ができた私のケースはとりわけ危険でした。この病気によって、私は神経損傷から右半身と目に影響を受けました。嚢胞は固体の脳腫瘍ではなく液体の嚢です。癌 (がん) ではありませんが、患部の場所が脳であるだけに重篤な状態になることもあるのです。


—— 体調に異変を感じ始めたのは。

私は気分が全く優れず、物事全てに困難の度を増していきました。先ず、物忘れが始まり、集中したり思考を巡らす事が難しくなり、学校の成績は一気に下がりました。それまで私はこのような苦労をした経験が無く、優等生でもあったので、何かがおかしいと思いました。でも、それが何であるのか分からなかったのです。やがて、暗記する事も難しくなり、事態は次第に悪化していきました。以前は数分間で終わらせていた事を1時間以上も要するようになったのです。


——日常生活にはどう影響しましたか。

37_1.jpg学校、友達との交流、全てにおいて努力が必要でした。私は日を追って内向的になり、家族関係や友達関係を維持するのも困難になり、周囲から孤立し始めていました。自分の部屋を友として、ほとんどの時間を部屋で過ごしました。そこに身を置けば、如何なる事にも関わる必要がなく、自分を外界から隔絶して逃避できる唯一の場所だったのです。当時の私は不満と怒りの塊 (かたまり) と化していて、他人にとって近づきたくない人物だったと思います。どういう訳か、私は自分自身を傷ついた動物のように感じていました。私のサバイバル本能は削ぎ落とされましたが、弱みだけは曝け出したくなかったのです。私は社会生活との関わりを避けていたのです。例えば、金曜日の夜はいつも8時にベッドへ潜り込み、土曜日は 「ペイント・ボーリング」 へ出掛けていました。これは私が唯一楽しみにしていた行動でした。自分だけで遊べるし、私の憤りを抑える絶好の方法だったのです。


—— どのようにして嚢胞を発見したのですか。

これは長い間発見できませんでした。何人もの医師の診察を受けても何も見つからなかった。やがて、肉体的な徴候が現われ始めたのです。右手が震えて、上手く文字を書く事ができない。自分の身体に何かが起きていることは分かっていましたが、誰もその原因を指摘できませんでした。ある医師は私の頭が原因と考え、別の医師は 「物を強くつかみすぎる」 とだけ言い、他の医師は私がドラッグに手を染めているのではないかと疑いました。勿論、私はドラッグとは無縁です。こうして、どの医者も的確な答えを見つけられず、私の内部に隠された怒りと欲求不満は更に溜っていきました。両親はあらゆる手立てを試みて、病院に対して何度もCATスキャンをするように頼みました。そして、1年以上の懇願を繰り返した結果、最終的に病院側は了解したのです。ところが、予約日の丁度1週間前、私の様態に変化が起きました。私の部屋で父が宿題を手伝ってくれている時、私は不思議な映像を見始めていました。視覚障害が始まったのです。どこを見ても、視界がボケてはっきりしないままに映像が揺れ動き、意味もなく回転していました。恐るべき偏頭痛に伴って、この状態が20~30分間続いたのです。私たちは直ちに緊急治療室へ向かいました。病院側は単なる偏頭痛だと考えましたが、念のためにCATスキャンを行った際に嚢胞が発見されたのです。当初、医師は腫瘍だと考えていました。通常、嚢胞は脳幹のエリアには発生しないからです。それから、私はすぐに小児病院へ運ばれました。そして、脳から脳脊髄液を排出するために頭に分流器が装着されました。全ての脳室の通路が閉ざされていたにも拘らず、次々と脳脊髄液が作られ、それが私の脳を圧迫して問題を引き起こしていたのです。このために脳室は機能しなくなり、今でも私は分流器を使って脳脊髄液の排出を行っています。そして、私は頭骨切開を受けて、左目の視覚を一部喪失して不自由になりました。


—— 恐怖を感じましたか。

37_4.jpg奇妙なことに私は気持が楽になりました。とにかく1年半もの間、自分の身体には理解できないことが起こっていましたから…。私はドラッグにも手を付けていないし、それ以外の原因となる如何なる行為もしていない ̶̶̶ それを知っていたのは自分自身でした。でも、誰もが私の話を不思議に思っていた。12フィート離れた場所からX線で自分の嚢胞を確認するのは間違いなく良いニュースではありませんが、それまで抑圧されていた気持ちが解放された気分に変わったのです。最終的に原因が解明されて、誰もが私の言い分を信じてくれたのですから…。次にすべき事は、今までに医師たちが診察したという前例の無いこの難病を治療する事でした。 

分流器を装着した後、随分と気分が良くなりました。頭骨切開後は別ですが…。入院初日は病院内で次から次と多くの事が行われている忙しさから、私は怖さを感じませんでした。小児病院は素晴らしい人たちばかりでした。ICUのメンバーはいつも元気一杯で、私が病人であることを忘れさせてくれましたし、医師たちは治療の説明に時間を費やし、私と家族に対してもプロセスを決定する一員として接してくれました。問題は唯一つ、ベッドのサイズでした。小児病院は幼児を扱っているため、私のような背の高い患者がいなかったのです。私の脚はいつもベッドからはみ出し、病院側は私のために長いベッドと手術台を用意しなければなりませんでした。私は手の掛かる患者だったと思います。


—— 人助けをしようと思い立った時期は。

病院で6回目か7回目の手術を受けた後、何かをしようという考えが漠然と浮かびました。私の病気は脳幹に嚢胞が発生した初めてのケースで、神経外科医らは私のMRI撮影のコピーをモントリオールやボストンの世界最高の神経外科医へ送っていました。私のような普通でないケースを今まで彼らは診察した事がなかったのですから。数カ月後、8回目の手術を終えた後の定期診断中、私の治療から学んだ方法を同様の症状を持つ4歳の少女に役立てているという話を医師から聞きました。私は自分が誰かを救ったような嬉しい気分になりました。そして、もっと大勢の人々を助けることができたらと思いました。どうすれば実現できるるのだろうかと̶̶̶。


——「バイク・フォー・ブレイン」のアイデアが生まれた経緯は。

37_3.jpg私は8回目の手術を終えて3週間入院し、更に自宅での治療が3週間続きました。手術後に私は右半身の感覚が麻痺し、手、足、口、顔を動かすことが不可能になっていました。医師たちは再び私を手術室に連れ戻し、大きな嚢胞を取り除いて麻痺していた右半身の一部を復活させたのです。私は再び動くことが可能になりましたが、幾つかの後遺症が残っていて、特に右半身はかなり衰弱していました。医師からは「過度でなければ日常生活で何でもできる」と言われていましたが、私は明らかに非活動的な人間になっていました。 

何週間も私は何もしませんでした。かつては水球チームに所属してサーフィンも大好きだった自分でしたが、私はそれらを全て諦めていました。ある日、父はそんな私を見るのはもう沢山だというように、自分自身では何もできないほど弱っていた私を外へ連れ出し、タンデム式自転車の後席に座らせたのです。そして、二人でサイクリングに出掛けました。それは、この数年間で最も楽しいひと時になりました。父は私が歓声を上げているのを聞いて「ふざけているんだな」と思ったそうです。でも、私にはそれほど素晴らしい体験だったのです。私は再び「生きている」と感じました。過去数年間、私がした事といえば病院通いだけで、手術あるいは術後の治療を受けて入退院を何回も繰り返すという生活だけでした。そのため、自転車に乗る感覚が信じられないほどに私を元気にしてくれたのです。 

その後、暫くして体調がより回復した時、私は独りで自転車に乗り始めました。それは実に爽快な気分でしたが、その時に勇気づけられる着想が生まれたのです。最初は私も両親も不安を感じたものの、それこそが「バイク・フォー・ブレイン」のアイデアが浮かんだ瞬間でした。私は遠距離を走ったり歩くことはできませんが、サイクリングは弱った足が疲れても惰走できるので私にぴったりのアクティビティでした。私の右足は未だに望むほどは強くないし、少しブラついた状態になりますが、次第に上手く対応できるようになりました。


——あなたが使用している自転車には特徴があるのですか。

37_2.jpg白と黒の 「スペシャライズド」 というブランド名の自転車です。父とゼノ・バイクのダノという人物が修正を加えてくれました。以前、私に合う自転車の組立を手助けしてくれる人を探していた頃、父がインターネットで依頼を募ったのです。数日後、父はダノからのメッセージを受け取ります。「私は自転車取付工です。ブライアンの話を聞きました。ブライアンとご一緒に当店まで自転車を持って来れるようでしたら、彼にフィットするように無料で取り付けます」 ̶̶̶ それは福音とも言えるメッセージでした。私たちは店へ向かいました。ダノは私のために軸を交換し、足が泳がないように右のペダルを固定し、シートを替えて、多少のモデルチェンジを施してくれました。走行中、神経損傷による右ヒザがブラついて、自転車に打ち付けられるアクシデントに見舞われることもあり、いつの間にか私の足はアザだらけになってしまいます。そこで、父は前方から後方までの特別なクッション付きガードを設計し、母がそのカバーを作ってくれました。これはとても活躍しています。このように、多くの人々からサポートを受けて難題を克服することができた事はとても幸運でした。


—— 自転車に乗っている時の気分は。

素晴らしい気分!(笑)。とても気に入っています。イベントでは全コースの100マイルを走りたかったのですが、右半身の問題から今年は無理だと断念し、今のところ25マイルか50マイルに焦点を当てています。友人も参加するので、私もできるだけ遠くを目指したい…。でも、私にとってマイレージは二の次。今は収益金を集めるのが重要で、自転車に乗るのはそのボーナスというところでしょうか…。この活動では真剣な目標を掲げていますが、私たちはそれを楽しみたいと思っています。他人を救済するという善行は重荷を背負うことではありませんから。


ブライアン・リーマス

「バイク・フォー・ブレインズ」共同創設者。両親とともに開始したこの非営利団体で小児病院のための基金を集めている。17歳で8回もの異なる脳外科手術 を受けるという困難を克服し、人道救済活動に目覚める。現在サンディエゴ・ジューイッシュ・アカデミーの高校3年生に在学中。卒業後は引き続き大学で理学 療法を学び「バイク・フォー・ブレインズ」を通じて人道救済を継続する予定。「バイク・フォー・ブレインズ」設立後、その活動はテレビや誌面などで数多く 取り上げられる。両親 (マーク&ヴィッキー夫妻)、飼い犬ゾーイと同居してカールスバッドに在住。「バイク・フォー・ブレインズ」への税金控除寄付金や詳しい情報は www.bikeforbrains.com まで。
 
(2004年3月16日号に掲載)