Monday, 27 May 2024

ゆうゆうインタビュー 宮原広幸

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剣道を始めた契機は。

1921年5月、私が生まれたその日から父親による剣道指導が始まりました。1918年に渡米した私の父、 宮原広次は夢を抱いてやって来た日本人移民の一人でした。海を渡った多くの日本人は、アメリカで子供が生まれると「もう日本には戻らない」と決意していました。周りの日系人と同じくアメリカ永住を決心した父は、当時としては大変レベルの高い剣道初段を持っていたことから、南カリフォルニアで剣道の指導を行うようになりました。アメリカでは1900年代初期に剣道が始まったと言われています。明治後期に生まれた日系一世の多くは小学校や中学校で剣道を教わったものです。剣道に熱中していた彼らは練習を重ねてトーナメントを開催していました。


——子供の頃から剣道は好きでしたか。

34_1.jpg いや、実は大嫌いでした! 父は、ポモナ、ボールドウィンパーク、エルモンテ、サンバーナーディノ、リバーサイド、そしてコチェラと南カリフォルニアの6つの道場で剣道を教えていました。例え私が嫌でも、剣道の師範である父の言う通りに週5~6日は練習をしなくてはいけなかったのです。まだ幼いのに、毎日のように剣道の練習をさせられていたら誰でも嫌になるでしょう。でも、父の言葉には逆らえませんでしたから、私は仕方なく剣道を続けていました。当時、日系人の子供達は剣道か柔道を習っていたものです。父は柔道が好きではありませんでした。互いを投げ合う柔道は、5歳のような子供であれば骨が柔らかいので身体を痛めることはありません。若い頃は問題が無くても、40歳になった頃に後遺症が現れてくるのです。そんな理由から父は私に柔道をさせたくなかったのです。私は竹刀を落としても戦える技を身に付けようと、16歳から数年間ほど柔道を習っていたのですが、柔道の練習をする度に頭や背中を痛めていたので早いうちに辞めてしまいました。


—— 父親以外から剣道の指導を受けたことは。

日本から来られた森寅雄先生に大変お世話になりました。森先生が初めてアメリカを訪れたのは1938年で、その時は2~3年ほどの滞在されていました。その後、1950年に再渡米された先生から私は沢山のことを学びました。森先生が初めてアメリカを訪れた時、父は6つの全道場を案内しています。一つの道場から別の道場まで車で2~3時間を要することもありました。車内では「この動きをしなさい。これが大切なのです」と、先生はとにかく剣道の会話しかされず、私はただ聞き続けるしかありませんでした。私は先生の話を聞きながら剣道を学びました。 

森先生から「足を床から上げずに摺り足をしなさい」と教わりました。日本では床一面に大豆を撒いて練習をしていたそうです。摺り足ができていれば大豆を追い回し、不完全なら大豆を踏んでしまい痛い思いをするというのです。私がこの方法を試したことはありませんでしたが、この練習法は効果があるだろうと思いました。 

かつて「何故、森先生の袴はそんなに長いのですか?」と尋ねたことがありました。誰もが森先生のフットワークを絶賛し、父からも先生のフットワークを見て学ぶように言われました。ところが、袴が長すぎて足元など見えないのです。森先生は微笑みながら「それは秘密です!」と言うだけでした。数年後、ある先生から同じように「森先生の足元を見なさい」と言われたので、私は「足元が見えないのだからどうしようもない!」と伝えたところ、漸くその先生が秘密を教えてくれました。体の向きと足元の動きには相関関係があり、どの状態であってもつま先は常に対戦相手を向いていると言うのです。これこそ剣道にとって大切な原理であり、私は「やっと分かったぞ!」と快哉 (かいさい) を叫びました。


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Pomona Dojo winners of the Miyahara Kendo Tournament in 1936 (Mr. Miyahara is pictured 2nd row, center)
—— 剣道から離れた時期は一度も無かったのですか。

唯一私が剣道をしていなかったのは第二次世界大戦中です。1941年12月に剣道4段を取得する予定でしたが、12月7日に戦争が勃発し、その日から剣道は中止となりました。私は航空エンジニア志望でしたが、1947年に大学を卒業すると召集命令を受けました。軍隊の中では敵性外国人として4Fというランクを与えられました。召集命令を受けた者は3年間の徴兵が待っていたのですが、私は3年間の代わりに1年半の陸軍/空軍ボランティアを申し出ました。ある日、早朝3時に呼び出されると、士官から「宮原、お前は空軍へ行かなくて結構」と言われたのです。私が理由を尋ねても「ここに居ろ」としか答えてはくれませんでした。翌日に再び呼び出され、そこで多くの日系二世の姿を目にしたのです。士官の手元には私達の全記録が用意されており、私がポモナ日本語学校へ通学していたことも調べられていました。すると、突然日本語の本を取り出して、私が読めるかどうか尋ねてきたのです。私にはその本が読めませんでしたし、そのようなことをされる理由さえ分かりませんでした。そして、私はプレシディオモントレー日本語学校行きを告げられたのです。私が「日本語学校のボランティアをしたいのではない!」と言っても、「お前は今陸軍にいるんだ。だから陸軍の指示に従え!」という答えしか返ってきませんでした。 

米軍は日本での通訳を早急に求めていました。私は日本語学校で2週間に渡り基礎を学びました。学校では4グループに分けられましたが、全員が日系二世でした。日本語テストを受けた後に3、6、9カ月の3コースに配され、私は6カ月コースに入りました。約3カ月か過ぎた頃、「海外へ駐屯するには6カ月の延長が必要」と学生事務所から告げられました。延長は不本意でしたが海外駐屯への思いがあり、やむなく同意しました。その6ヵ月後、再び学生事務所に呼ばれて「もう1年延長してみる気はないか? その後、士官候補生学校に行くチャンスが与えられるぞ」と言われたのです。私には士官になる気など無く、早く任期を終了させたい一心でしたのでその話を断りました。そして、ボランティアを志願した数百人が私と同じ状況にあることを知りました。ある理由から、米軍は私達日系人を海外に送りたくなかったようです。海外に派遣される者には1年間の駐屯が命じられていました。結局、私も日本行きが決まり、1948年12月7日、真珠湾攻撃7周年の日に横須賀に到着しました。


——日本駐屯時の話を聞かせて下さい。

1948年から6年間日本に滞在しました。日本に到着すると朝日新聞の翻訳テストを受けました。テストの結果によって、東京、韓国、その他の国へと3つの駐屯グループに分けられ、私は東京駐屯となり、神奈川県の座間キャンプ勤務が決まったのです。 

在日約3カ月が過ぎたある日、築地警察署の前を通ると「カチャ、カチャ、カチャ」と竹刀の音が聞こえてきたのです。私は警察署の中へ入り「奥から何か聞こえてきますが、ここで剣道をしていますよね?」と受付の男性に尋ねました。ところが、彼は「そんなわけはない!」と答えたのです。その頃、剣道はブラックドラゴン (右翼) との関わりがあるという理由から日本国内では禁止されていたのです。それでも私は「この奥で剣道をしていることは分かっています」と後には引かず、無理矢理に練習風景を見せてもらいました。アメリカで剣道の経験があることを話すと、ここの道場に来て稽古をしてもよいと言ってくれたのです。アメリカに比べて大分短い竹刀でしたが、剣道一式を貸してもらいました。私の稽古を見た先生からランクを尋ねられ、自分が3段だと告げると先生は大変驚いていました。その道場には4~5回ほど通いました。真面目な警察署ですので、私が初めて稽古に訪れた時には飲み物は用意されていませんでした。そこで、私がビール1ケースを持参し、稽古の後で皆でビールを飲むようになりました。

座間で後に妻となる日本人女性と出会うのですが、結婚後すぐに妻をアメリカ国内へ連れて行くことは許可されませんでした。私は日本へ残る決意をし、1949年に軍隊から解雇されました。幸運にも石川県で米軍関係の仕事が見つかり福祉官として働いた後、1954年に妻を連れてアメリカへ帰国することができたのです。


—— 剣道の指導を開始したのはいつですか。

34_4.jpg元々、剣道を指導したいと思っていたのではありません。帰米した翌年の1955年より各道場の手伝いを依頼されるようになりました。これが私が剣道を教えるようになった発端です。驚くことに、沢山の道場から依頼が寄せられていました。ある日、カナダのセントスティーブンスから私のことを聞きつけた先生が来て、セミナーの開催を懇願されたのです。カナダまでは遠過ぎると思いましたが、彼の依頼を引き受けることにして、1979年から10年間セミナーを開きました。初年度は私達7名でカナダへ向かいましたが、1980年代後半にはカリフォルニアから総勢50名の大人数でカナダを訪れています。 

私の下で20年間剣道を学んでいる生徒がいて、ある時、彼一人でセントスティーブンスのセミナーに向かうことになりました。知り合いが一人もいない街での3日間に渡るセミナーでした。初日は誰一人として彼の話に耳を傾けなかったそうです。そして2日目。誰から剣道を習っているのかと聞かれて「宮原先生」と答えた途端に全員が優しくなり、彼の話を熱心に聞くようになったそうです。


—— アメリカ国内での剣道の人気とは。

現在、南カリフォルニアで剣道を習っている生徒は1,500名を数えます。1941年当時は2,000人以上の生徒がいて、剣道トーナメントは2日間に渡って開催されていました。日系一世は子供達に剣道を習わせようとしましたが、難しいスポーツなので日系二世の多くは長続きしませんでした。現在は賠償責任保険や医療保険が相当高くなっています。しかし、正しく剣道を行っていれば、骨折や脱臼をして身体を痛めることはないのです。稀 (まれ) にアキレス腱を切る生徒がいますが、これが最悪なケースと言えるでしょう。ほとんどのケースが自分の不注意からアキレス腱を切ってしまいます。相手が自分を攻撃してきた瞬間、身体を支えようと力を入れて足を踏み込みます。そして、相手に向かおうとするのですが、これでは悪い結果を生じます。この方法は誤りです。本来の剣道は、正しいテクニックを利用することでケガを防止することができるのです。


—— 将来の目標を教えて下さい。

34_3.jpg長年かけて剣道の本を書き続けています。剣道の著書は沢山存在していますが、私から見ればどれも同じことしか書かれていません。竹刀の握り方や手拭いの巻き方など、延々と基礎が書かれていて、竹刀をそのように握る理由などは述べられていないのです。基礎は勿論大切ですが、私は「何故そうする必要があるのか」という説明と「防御法」についても述べたいと思っています。サンディエゴには年に1~2回ほど講習に向かいます。前回訪れた時は防御の動きについて教えました。論理的には自分も相手も50%ずつ攻撃しているので、攻撃と防御の方法を共に知らなければ自分は負けてしまいます。講習に来る大抵の先生は防御について教えてくれないことから、それならばと私が防御の指導に当たるようになりました。どのスポーツも自分が何をしているのか理解することが重要です。そして、精神面を磨き、ひたすら練習を続けなくてはいけません。一つ何かを書き上げたと思うと、新たなアイデアが浮かんでしまい、編集を繰り返しているのが私の執筆ペース。いつ書き上がるのか、出版の予定は分かりませんが、私の本が書店に並ぶ日が来ることを楽しみにしています。


宮原 広幸 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

パサデナ文化剣道道場師範、バレー剣道道場師範、米国剣道連盟理事、南加剣道連盟理事。1921年5月8日カリフォルニア州モンテベロで生まれる。南カリフォルニア内6つの剣道道場師範であった父より剣道を学ぶ。1948年に日系米人兵士として日本へ渡り6年間を過ごす。1955年に帰米し、翌年より剣道 の指導を開始して現在に至る。1971年ブラックベルト・ホール・オブ・フェイム (黒帯の殿堂) 入り。1994年米人初の剣道最高段位となる範士8段を取得。現在、則子夫人と共にカリフォルニア州ハシエンダハイツに暮らす。


(2004年2月1日号に掲載)