Friday, 26 July 2024

ゆうゆうインタビュー テッド・ジャーディン

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サンディエゴ・ビジター・インフォメーションセンターの業務について教えて下さい。

ビジター・センターは Mission Bay Dr. にあり、主にサンディエゴを訪れる観光客のお手伝いをしています。特に、シーワールド、サンディエゴ動物園、ワイルドアニマルパーク、レゴランドなどの全テーマパークのディスカウントチケットの提供や、最大5割引でのホテルとモーテルの案内をしています。皆さんの時間と経費の節約を図るため、ギフトショップや各所のパンフレットも用意していますし、この風光明媚なサンディエゴについて質問がある方にはスタッフがどんな事でもお答えしています。


——ツーリスト向けの情報センターを開業しようと思った理由は。

私は元々、アウトドア広告 (ビルボード広告や屋外での広告) の仕事に携わっており、1962年にパシフィック・アウトドア・アドバタイジング社のサンディエゴ事業部に配属となりました。当時はインターステイト5号線が未だ敷設されておらず、唯一ハイウェイ100号線がロサンゼルスから続いていました。100号線はローズキャニオンへ続き、渓谷沿いには沢山のビルボードが設けられていたのです。主要観光地別のビルボードが目に付き、中には相当額の経費を費やしているサインボードもありました。バケーション・ビレッジは左右に揺れるVの文字、エル・コーツは上下に移動する小さなガラスのエレベーター、そして、アンソニーズは巨大で豪華な紫色のバショウカカジキが付いていましたね。8レーンの5号線が建設された時、私は広告用に利用できる土地が無くなってしまったと感じました。そう、実際に全てのビルボードが消え去ってしまったのです! 私はミッションベイが見渡せるローズキャニオンの西側に長年住んでいます。以前その土地には、郡の行政職員、シティーマネージャー2名、ビルボード担当者、シティーマネージャー事務所の情報責任者らが住んでいて「ガバメント・ヒル」と呼ばれていたのです。毎週日曜の夜になると、サンディエゴからロサンゼルスへ戻る人々の果てしない大渋滞が眼下に見えていました。 

広告業界には『アドバタイジング・エイジ』 (広告業界の商人向けの雑誌) と呼ばれるいわゆる“聖書”が存在しています。1967年のある日、ストーナー・アウトドア・アドバタイジング社のストーナー氏がアイオワ州デモインを走るインターステイト80号線の2箇所にインフォメーションキオスクを建設するという記事を見つけました。その瞬間、「何故、今まで気付かなかったのだろう…。デモインで実現できるんだ。それならサンディエゴでも!」と思ったのです。これを発端に「ローズキャニオンのビルボードを取り外す代わりに、いつでも観光客が来て情報を得られる場所を作ろう」というアイデアが浮かんだのです。そして、ある週末の3日間を利用してデモインへ飛び、レンタカーを使ってインフォメーションキオスクを視察してきました。管理者と話をしてからサンディエゴへ戻ったのですが、これこそ私が望んでいる仕事だと確信しました。


—— インフォメーションセンターを開始した場所は。

32_1.jpg 私がアウトドア広告業に従事していた頃、市の職員が2年毎に広告を掲げていましたから、行政関係の方とは顔馴染みになっていました。ある土曜日、私の頭の中に浮かんでいたアイデアを一つに纏めて、「今からそちらに向かうので私の構想を聞いて欲しい」と公共のインフォメーションセンターへ電話を入れたのです。そして、担当者の前に座って自分のアイデアを伝えると、彼は気に入った様子で「それで、インフォメーションセンターをどこへ設置したいの?」と尋ねてきました。私はローズキャニオンの手前の丘の上を提案しました。すると彼が「テッド、Clairemont Dr. と新設される5号線との交差点ができるんだ。そこはどうだろう?」と言うのです。「抜群だね!」と私は叫びました。そこは私が元々理想としていた場所だったものですから (笑)。


—— 建設場所のアイデアはお持ちでしたが、資金はどうしたのですか。

当然、資金援助が必要でした。先ず、私は自分の勤めるパシフィック・アウトドア・アドバタイジング社へ赴いて、自分が何をしようとしているかを伝えました。すると、彼らも力になりたいと言ってくれたのです。アウトドア広告に携わりながらインフォメーションセンターの仕事を同時に行うことに抵抗はありましたが、自分の計画を予め会社に報告する必要があると思いました。その後、連邦貯蓄貸付組合の会長を務めるクレランス・K・フレッチャー氏を訪ねました。当時、彼の広告マネージャーを務めていたのがゴードン・ルース氏です。私はフレッチャー氏に、アイオワ州デモイン以西の第1号となるインフォメーションセンター設立用に125,000ドルの貸出しを依頼しました。莫大な金額でしたが、フレッチャー氏の承諾を得たお陰で資金の大部分を確保することができました。そして建築家も雇い、計画は着実に進行していきました。当時のミッションベイ東岸の様相は現在の景観とはまるで違っていました… Mission Bay Dr. の東部から湾内へ流入する泥以外に何も無かったのです。気色悪いものが堆積したその泥沼で、毎年春になるとトマトが実っていましたね。そして、一面に広がる泥沼を目の当りにした建築家の頭の中で素晴らしいアイデアが浮上したのです。彼はシティーマネージャー事務所へ行って「泥を捨てに行く代わりに、私の言う場所まで泥を運んでもらいたいとコントラクター (ミッションベイの浚渫=しゅんせつ=担当者) に伝えて下さい」と願い出たのです。そして、コントラクターの協力を得て、ミッションベイを見渡せる75,000キュービックヤードの土地が出現しました。私一人では到底実現が無理でしたが、こうして思いがけずに無料でこの土地を作り上げることができたのです…。皆が喜ぶ結果となりました。


——当時は珍しかったインフォメーションセンターの存在を人々に知らしめた方法とは。

32_2.jpgそれには先ず「ここにインフォメーションセンターが在ります」というサインを置く必要がありました。ただ問題は…ビルボードは1つも残っておらず、改めて作る予定もありませんでした。その頃、有名俳優であったロナルド・レーガン氏がカリフォルニア州知事に就任しました。レーガン知事は、私が仕事を共にしていた連邦住宅広告責任者のゴードン・ルース氏をカリフォルニア運輸局との調整役となるビジネス運輸部門の秘書官に任命したのです。私がサクラメントを訪れてゴードンと夕食を共にした時、自分のプランを彼に知らせて、ハイウェイに設置する政府公認のサインが必要であることを話しました。すると彼は「明日の朝、私のオフィスに来てくれないか。カリフォルニア運輸局を指揮するジム・ホールに一緒に会いにいこう」と言ってくれたのです。翌日、私のプレゼンテーションが終わると、ゴードンがジムに「テッドにサインを与える政治的影響力が私達にあるのかい?」と尋ねました。ジムは「そうお尋ねになるのだから、大丈夫ですよ」と答え、結果的に北と南に一つずつサインをもらう事ができました… それらは5号線を走行中に見えてくる「ビジター・インフォメーション 2.5マイル」と「ビジター・インフォメーションは次を右へ」と書かれたサインです。


—— インフォメーションセンターが開業したのはいつですか。

正式にオープンしたのは1969年7月15日でしたが、鉄筋の階段は建設途中でした。その階段が唯一の計算ミスだったのです。子供達は階段を駆け上がり、カウンターの陰で働くスタッフに向かってソフトドリンクを溢 (こぼ) して駆け下りるという悪戯 (いたずら) に興じていました。もう一つの問題点は、展望台が西向きではなく5号線に面してしまい、ミッションベイパークを見渡せないということでした。 

私達は面白い形でスタートを切りました。私のことを「1本ネジが抜けている」とか「突拍子もない奴だ」と言う友人がいたり… でも、そんな彼らも私のクライアントになっていきました (笑)。クライアントの中にはシーワールド、ワイルドアニマルパーク、そして当センターに爬虫類 (生きている!) を展示したサンディエゴ動物園も含まれています。この時は爬虫類の世話のために、動物園から2~3日毎に飼育員が通わなくてはならない弊害もありましたね。1969年11月には『サンセット』誌が私達を取り上げたことから、手に負えないほどの観光客が訪れるようになりました。当時の『サンセット』誌はカリフォルニアの代名詞と言われるほどの有名な雑誌であり、その中に素晴らしい記事となって紹介されたのです。初年度は約12万人が当センターを訪れました。現在では毎年100万人以上が訪れて、サンディエゴの観光名所トップ15にもランキングされています。様々な人達がやって来ますが、有名人ではビーチボーイズも顔を見せています。


—— 以前と比べて、ご自身や訪問客への対応の変化はありますか。

私達は成長しているのでしょうけれども、変化という実感はそれほどありません。昔と変わらず、誰かが入って来れば声を掛けていますし、電話でお客様の予約確認も受けています。そして嬉しいことに、スタッフの何人かは長年ここで働いてくれています。今は娘のクレールに全てを任せています。重要なことは私に相談してきますが、些事については私に聞かず、自分で処理できるようになることを願っています。1960年代は楽しかったですよ。クライアントとはアイコンタクトと握手だけで十分でしたからね。目と目で信頼関係が生まれていました。今は常に条件書を持ってきますし、弁護士まで連れて来るようになりましたね。


—— インフォメーションセンターをフルタイムビジネスにする決心をした時期は。

1973年に私は昇進を受けてロサンゼルスのオフィスへ戻るよう命じられました。私にはサンディエゴでの快適な日々を諦めねばならない理由が思い付かず、先ずは妻と相談させて欲しいとの気持を会社側に伝えました。ロサンゼルスには行きたくないと話す妻と同じ気持ちでしたので、私は広告会社を退職して、サンディエゴ・ビジター・インフォメーションセンターの業務のみに労力を傾注するようになったのです。仕事が順調か否かによって、ハンバーガーにありつけるかビーンズで我慢するかの生活。私には4人の子供がいましたから…可能な限りの手伝いはさせていました。子供達全員で売店の手伝いをしたことが 1、2度ありました。1970年代の週末にミッションベイに繰り出してひとときを過ごしたなら、誰もがその場を離れたいとは思わなかったはずです。当時はパーキングを探すのが本当に難しかったですからね。長時間ここに居ても、空腹になれば私達の所で何かが買えるという便宜は皆さんに喜ばれていました。1度だけ、アシスタント・シティーマネージャーが「他にもこんな店があるのかは知らないけれど、ここはミッションベイで最高のハンバーガーだね! 」と言っていたことがありました。スナックは今でも置いていますが、ファーストフードの「スーパーバリューメニュー」の出現により売店は姿を消してしまいました。


—— 時代と共に変わるインフォメーションセンターで、ご自身が挑戦してきたことは。

かつて私はインシュランス・ライセンス (損害保険事業ライセンス) を持っていて、メキシコの自動車保険を販売していました。事業は順調で「ドルからペソへの換金所を作ったらどうだろう?」と一計を案じ、両替所を設置しました。思い通りに成功したかように見えたのですが、ある朝、新聞の第1面で「ペソ暴落」の記事を目にした途端、事態が急転直下したことを知りました。私は多額のペソを抱えていたのです! 夜のうちにペソの価値は1/10まで下がり、メキシコの保険会社は損傷のあるアメリカの自動車を修理できなくなっていました。幸いにも、私達には目立ったクレームが寄せられていなかったので、店を閉めて急いでティファナへ向かい、全てのペソをドルに換金してきました。もう一つの失敗談は、ここから見える2つの駐車スペース… (思い出したように頭を振って)、そこで自転車とモペット (原付バイク) をレンタルしていました。自宅で保管していたのですが、整備士の息子や子供の友人達がマウントソレダッドでそれらを存分に乗り回すという事態に見舞われて… 相当なお金を使ってしまいましたね (笑)。 

サンディエゴ市からはビルボードの代わりに広告を置くことと、レストラン業への転向は許可しないとの通告がありました。それ以外なら何をしても構わないとのこと̶̶̶。しかも、私達に義務づけられている手続きといえば、市に確認を取り、書類のサインと料金の交渉を行うことだけでした。本来なら許可し難いことでも、私達の希望に対して決して「No」と言わなかった市の姿勢が恩恵をもたらしてくれました!


テッド・ジャーディン ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

サンディエゴ・ビジターインフォメーションセンター代表取締役社長兼 CEO。サンフランシスコで生まれ、イリノイ州レイクミシガンで育つ。アリゾナ大学農学部卒業。1962年、パシフィック・アウトドア・アドバタイジング 社サンディエゴ事業部担当者としてサンディエゴへ渡る。I-5開通に伴い、サンディエゴの情報と宣伝の発信源となる基地の必要性を感じ、1969年にサン ディエゴ・ビジターインフォメーションセンターを設立。サンディエゴ・ホテル・モーテル協会、ミッションベイ・レッシース (ミッションベイ借用組合)、ミッションベイパーク役員会のメンバーも務める。1973年、パシフィック・アウトドア・アドバタイジング社を退職し、イン フォメーションセンターのフルタイム業務に専念。初年度12万人の同センター訪問者数が現在では年間100万人超に増加。25年間連れ添うアルビー夫人と 共にマウントソレダッドで暮らす。夫人との間に4人の子供 (テッド、ジェニファー、スティーブン、クレール) に恵まれ6人の孫を持つ。サンディエゴ・ビジターインフォメーションセンターについての詳細は www.infosandiego.com でご覧になれます。

(2003年12月16日号に掲載)