Thursday, 28 March 2024

ゆうゆうインタビュー 澁谷昌治

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SDで英会話教室を開校したのはいつですか。

サンディエゴへ移り住んだのが1974年。その2年後に教室を開校しているので、かれこれ27年になりますか。現在は英会話だけでなく、日本人留学生を対象とした英語全般を教えています。四半世紀前のサンディエゴと比較すると街の様子は随分変わりましたね。その当時、日本食レストランは2軒のみで、日系スーパーはダウンタウンに1軒だけ…。ミツワマーケットプレイスやニジヤさんがあるカーニーメサ地区も昔は一面畑でしたね。日系企業は京セラを含めて数社のみ。日本人は本当に少なかったですね。その頃、私が英語も日本語も話せるということを聞きつけて、駐在員の方々から「書類作成の手伝いをして欲しい」という依頼が殺到したんです。そのうち、英会話も教えて欲しいと頼まれるようになり、駐在員やその家族を対象にしたクラスを開くようになりました。


——英語に目覚めたのはいつ頃ですか。

中学生の頃から英語の成績は良かったんです。ただ、私は人前に出ると赤面してしまうタイプでした。私のことをよく知っていた中学の英語教師が「恥ずかしがり屋を克服するために、英語の弁論大会に出てみたら?」と勧めてくれたんです。本格的に英語に取り組み始めたのは高校入学後で、ここでも素晴らしい英語教師に出会いました。先生はアメリカ人牧師。英語を手取り足取り教えてもらい、如何に効果的に自己表現するかを教わるうちに、人前で話す恐怖から解放されていきました。逆に、英語で話すことに喜びを覚えるようになりましたね。

大学では英文学部で音声学を専攻し、ESS にも所属して400人の部員に英語を教えたり、F.U.E.T (Five University English Theatricals=5大学英語劇連盟) 主催の英語劇コンテストにキャストとして出演し、個人演技賞を獲得したこともありました。1968年に来日中だった、本場ブロードウェイの『ハロー・ドリー』、『サウンド・オブ・ミュージック』 などの舞台監督として有名なリチャード・A・ヴァイア氏から演技力と発音の良さが認められ、日本人学生だけを集めた英語劇 『アワー・タウン』 の主役に抜擢されて日本全国を3か月間公演しました。


——日本でも英語教師をされていたのですか。

shibuya1.jpg 実は、日本では「オールナイトニッポン」という深夜ラジオ放送のディスクジョッキーをしていました。その頃は英語スピーチコンテストで数々の賞を頂いていたので、勿論、将来は英語を生かした仕事に就きたいと思っていましたが職業を絞り込めないでいたのです。「アナウンス学校に通えば、何か見つかるかもしれない」との思いから、大学在学中に東京アナウンスアカデミーに通い始めました。そこでの恩師が、今は亡き伝説のディスクジョッキー糸居五郎氏でした。彼は「オールナイトニッポン」の初代 DJ として活躍していましたが、英語があまり得意でなかったために私が抜擢され、学校に通いながらアルバイトとして彼と一緒に仕事をしていました。糸居氏と共に何度かアメリカへ渡り、“ブルースの巨人”B・B・キング、“盲目の天才ギタリスト”ホセ・フェリシアーノ、「バナナ・ボート」 のヒットで知られるハリー・べラフォンテなどの著名アーティストにインタビューをする機会にも恵まれました。


—— 渡米の決意を固める契機となったのは。

日本ではディスクジョッキーの仕事を2年間続けましたが、自分の英語能力を更に伸ばしたいという思いが強く、1969年にワシントンDC・インスティテュート・オブ・モダン・ランゲージで教育学を、その後ミシガン州のホープ・カレッジに留学してスピーチを専攻しました。渡米してからも糸居氏とは連絡を取り続け、アーティストの情報やインタビューテープを日本に送るなどして、結局、ディスクジョッキー歴は15年にも及びました。  渡米の動機となったのは1961年にテレビで観たケネディ大統領の就任演説でした。"Ask not what your country can do for you, ask what you can do for your country."=「国家があなたに何をしてくれるかを問うのではなく、あなたがこの国の為に何ができるかを問いなさい」=という彼の力強い言葉に感銘を受けましてね ̶̶̶。あれは世界中の若者に指針を与え、人生への意欲を高めてくれるスピーチでした。この国の自由な意思表現とフロンティア精神に憧れていましたし、ケネディ大統領の名演説を聞いて絶対アメリカに行こうと決意したのです。22歳で留学生として渡米した時点で 「アメリカで自立して、日米の架け橋になる生活を送ろう」 と心に決めていたので、帰国するつもりはなかったですね。$99のグレイハンド・バスツアーに参加して全米を巡り、ニューヨーク、シカゴ、ロッキー山脈を越えてニューメキシコそしてアリゾナと、各都市に3~4日ずつ滞在し、やっと辿り着いた理想的な街がサンディエゴでした。気候が良いという理由もありましたが、「なるべく高層ビルを建築せず、サンディエゴ本来の美しい風景を維持しよう」 という市の方針がとても気に入りました。


——SDでは英会話教室以外のビジネスも始めたのですか。

20_2.jpg英会話教室を本業としながら、1979年にカラオケラウンジを開業しました。そう、サンディエゴで初めてカラオケを導入したのは私だったんですよ。約10年間営業を続けましたが、多彩なイベントを企画して楽しかったですね。若い人はご存知ないでしょうが、'70年代後半に「ゴングショー」という素人コメディー・コンテスト番組が流行っていたんです。そのTV番組をヒントに、自分なりに演出をして1980年に「サンディエゴ・ゴングショー」を開催しました。日本人に限らず、アメリカ人も自分の隠れた才能を全開させて競い合っていました。「面白いけれど、賞に値せず」と思ったら審査員がゴングを鳴らして、そこで退場させてしまうんです (笑)。とても好評で、気が付いたら月例行事になっていました。日本人を対象にした「紅白歌合戦」も年1回開いていました。本格的な大会で、審査員はプロの歌手を LAから招いていたんです。


—— 英語を教える上で心掛けていることは何でしょう。

私の英会話教室では5名を上限とした少人数クラス制を徹底させて、個人の要望に応えられるよう最大限の努力を払っています。現在の生徒数は約70名。5割が日本人留学生で、TOEFLのスコアを伸ばそうと頑張っている生徒さんが多いですね。残りの5割は駐在員または主婦の方々で、主に会話力を磨いています。当校は1回90分のクラスですが、平均週4日で3カ月間通い続けた生徒の9割がTOEFLスコアを50ポイント以上も伸ばしていますね。

また、当校に入学する生徒さんのレベルを問わず、先ず英語の基礎である品詞の機能と5文型について教えています。どの単語が名詞か、形容詞はどんな働きをするのか̶̶という基本的なルールを覚えることが大切です。子供ならば、英語を聞いてそのまま丸暗記をする方法が最良なのですが、大人はそうはいきません。日本で10年も20年も過ごしていて、今から英語を暗記しようとするのは相当に大変なことです。文法的なパターンを覚えてしまえば、後は単語を入れ替えるだけ̶̶。これが英語を上達させる一番の近道です。

それと、日本人は文法は得意でも会話が苦手だと言われていますよね。その原因は耳で聞く訓練が足りないからです。人間には3つの記憶のパターンがあります。フリーウェイを車で走っていてシーワールドの広告が目に入るけれども5秒後に忘れてしまう… これは「瞬間の記憶」。今日の授業で学んだことを2~3日は覚えているかもしれないが、復習を怠ると2週間後には忘れてしまう… これが「短期の記憶」。そして、短期の記憶を訓練すると「長期の記憶」に変わるんです。例えば、子供は親の手を借りて自転車に乗る練習をしますよね。親が手を離して1人で乗れた瞬間こそが短期から長期の記憶に変わった時点です。長期の記憶に変われば、その子は一生を通して自分で自転車に乗れるわけです。つまり、英語も一度長期の記憶に入れてしまえば決して忘れることはありません。英語を覚える場合、ひたすら紙に書くよりも、耳で訓練して覚える方が効果的です。私が生徒達に勧めている方法は、取りあえず日本語で何かを話してテープに録音して、その10秒後に吹き込んだ日本語を英訳して再び録音する。これを後で聞くと、先ず日本語が聞こえますよね。でも、10秒以内に答えられなければ英語の回答が聞こえてくる。これを車内でもお風呂の中でも、何処でもいいから繰り返し聞きながら訓練すると、短期の記憶から長期の記憶に変わるのです。


—— 今後の目標を教えて下さい。

アメリカの教育の基本理念は個人の価値の尊重であり、誰もが自由な考え方を身に付けるよう、小学生の頃から他人に頼らないで結論に到達できる人間に育成されていきます。私は1人でも多くの日本人に英語の表現を通してアメリカ人の気質を分かってもらい、日本が国際社会でも通用するような国に導いてくれる人材を育てたいと思っています。英語は必ず主語と動詞が文頭に来て、補語や目的語などは動詞の後に付いてきます。例えば "I go to church everyday except Monday." という一文。「私は毎日教会に行く」 と言った後に 「月曜日を除いて」 と付け加えても差し支えない言語なのです。しかし、日本語は 「私は月曜日を除いて毎日教会に行く」 というように動詞が必ず文末に来るので、語尾まで聞かないと話し手の意思が伝わりません。

アメリカ人の表現が率直で回りくどく言わないのは言語の文法的違いにも因るのです。これが国民性の違いに大きな影響を与え、日本人は一般的に物事を明言する態度を忌避して、相手を気遣いながら遠回しに丁寧に発言する国民になってしまいました。だから、日本人は国際社会に出ても発言が曖昧で、コミュニケーションが下手なのです。これらを踏まえて、常に私は生徒達に基本5文型の重要性と語順の違いを徹底的に教えています。

私の教え子の何人かは既に日本で英語教師になっています。私から学んだ英語を使って活躍してくれる日本人が存在しているというのは、とても嬉しいことですね。生徒の英語力が日々上達していく姿を見るのが私の生き甲斐なんです。英語を教えることを苦だと感じたことは一度もありません。自分が長年培ってきた知恵を分かち合うだけですから。あと20年、いや、死ぬまで英語を教えていきたいですね…。


澁谷 昌治 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1947年8月28日東京生まれ。1966年第11回高松宮杯全日本英語弁論大会優勝、1967年 ISA 主催全日本英語ディベートコンテスト優勝、早稲田大学主催全日本学生英語弁論大会優勝。1969年明治学院大学英文学部音声学科卒業。同年東京アナウンス アカデミー卒業。日本では DJ として活躍。1969年留学のため渡米。1974年より SD に定住。1976年ショージ英会話教室を開校。1979年に SD で初めてカラオケを紹介した 「ハワイアン・ラウンジ」 を開業し1989年まで営業。趣味はゴルフ、釣り、カラオケ。現在はミッションバレーの自宅(4966-B Waring Rd., San Diego, CA 92120) で教室を開き、小百合夫人と息子の勇太郎君 (4) と3人暮らし。 お問い合わせは (619) 286-1331。


(2003年6月16日号に掲載)