—— 医師を目指そうとされたのは、いつ頃。 とても遅いんです。普通に敷かれた常識的な人生のレールを歩くというか、自分の生きる道を強制されたり押し付けられたりするのがとても嫌だったんです。在日韓国人3世の私は4人兄弟の長男として神戸に生まれ、父が祖父のゴム工場を継いで比較的豊かに暮らしていたのですが、中学の時に倒産し、私の家族の経済状態は一変してしまいました。高校入学後は何の目標もなく、毎日安部公房などの文学を始めとする読書漬けの生活。1日2~3冊読むこともザラでした。学校の勉強をする暇もないくらい本に没頭しているうちに、東大の安田講堂事件が起きたりと、社会が不安であったということも手伝って、ますます自分の方向性を見失い、とうとう高校を中退してしまったのです。それからというもの、大阪の釜が崎や東京の山谷で日雇い労働者として暮らしたり、ギターを持ってぶらりと与論島に行ったりと1年ほど放浪。でも、この間に得たものは大きく、社会のどん底で暮らす人達の心優しさに触れて、相互援助の精神を叩き込まれたような気がします。 たまたま日雇いで働きに行った早稲田大学で先輩とハチ合わせとなり、彼から諭されて「これじゃいかん」と思い直し、中退した高校に復学して結局5年かかって卒業しました。しかし、卒業後も人生の目標がまだ見出せない…。大学に進む気持にもなれず、陸送の運転手をしたり、外国人相手のマイクロバスの運転手をしたりしているうちに、人生についての悩みが増大するばかり…。この悩みから解放されたいと思い、臨床心理学の本を読み漁る日々が続きました。やがて、自分の悩みは勿論、人の悩みを解決するには精神科医になるのがいいのでは…との思いが私の中でふっと沸いてきて、「そうだ、医者を志そう!」と —。その時、既に24歳近くになっていました。 ——難関な医学部の入試を、高校卒業から6年後に突破されたのですね。 高校卒業から4年後に東京から実家のある神戸に戻り、先ずは生活のために職業訓練学校に行き、給料をもらいながら簿記を習いました。その後は鶏肉配達のアルバイトをするなど、働きながら必死に受験勉強に取り組み始め、結局1年半の準備で岡山大学医学部に入学できました。何しろ、受験勉強というプロセスをスキップしてきているのですから、母校に行って教科書を分けてもらうのが受験準備の第1歩。睡眠時間を削って一から勉強という形ですよ。合格した時は、さすがに嬉しかったですね。 —— アメリカに渡る機縁となったのは。 ![]() 常に何かにチャレンジしている状態に自分の身を置きたいんでしょうか。以前からの願望だったアメリカでの臨床研修を果たしたい。この思いがとても強くなり再渡米したのです。臨床研修までの期間を利用してコロンビア大学公衛生大学院修士課程に入学しましたが、一学期終了後に発生したあの忌まわしい阪神淡路島大震災̶̶̶。実家が神戸でしたので慌てて帰国。大学院を休学して暫く日本に滞在していましたが、コネチカットの病院から面接の通知が届き、アメリカに急遽戻ってきました。結局、1995年6月にエール大プログラム・ブリッジポート病院の内科小児科合併研修を開始し、予定通り4年で研修を終了。プログラム数が少なく、その存在自体が余り知られていない内科小児科合併研修ですが、その後、無事に内科小児科両方の専門医試験に合格することができました。 ——身を削り、寝る間を惜しんでの医師人生への選択。そこまで金先生を駆り立てたものとは…。 日本で医者をしていれば、それなりに稼げて、普通の暮らしも可能だったでしょう。でも、アメリカで臨床研修をして、アメリカの医療の一端でもいいから触れてみたいという思いが強かったんです。日本の医療制度には国民皆保険など優れた点も多く、優秀な医者も大勢いますが、医師間での診療レベルのばらつきがアメリカより大きいように思えます。また、同じ病気で大きな病院に行くのと町医者にかかるのとでは、治療方法も大きく異なることがあります。その上、スタンダードの治療法より「私の治療法」が優先される傾向が強いのではないかと思います。その点、アメリカは卒後教育、いわゆる研修医制度がきちんと整備されていて、一つの病気に対する治療の基本的なマニュアルが整備されています。その上、全体的に医師のレベル、モラルが高い。バランスが保たれているんです。ですから、どの病院で、どの医師にかかろうと、一定レベル以上の治療を受けることができるという素晴らしいシステムがアメリカにはあるのです。 日本では、患者さんの話をゆっくり聞いてあげる暇がないほど忙しい (最近はアメリカでも同じですが…)。同じ症状でも、その原因や症状の度合いは患者さんによって千差万別です。患者さんの話をじっくり聞いてあげることも包括治療の一つであるはずです。特に、外国で暮らす日本人には医学専門用語も難しくて、医師に症状を明確に説明するのも一苦労です。「アメリカに来てまで、日本人を診ることもないか…」という考えが一瞬頭の中をよぎったこともありましたが、それは全く逆であることにすぐに気が付きました。ネイティブスピーカーとして細かいニュアンスの分かる日本語ができるからこそ、医師としての私がより必要とされ、存在価値があるのだと̶̶̶。 アメリカでの臨床研修を終了し、勤務病院を探していた折、日本クリニック・グループ CEO の周英世先生から「スクリプス・クリニックと一緒に日本人向けのクリニックを開設する予定がある」と聞きました。その後スクリプス・クリニックから正式の要請が来ましたので、私は内科と小児科だけでなく、日本での2年半のローテーション研修時に救急医療のほか、一般外科、産婦人科、整形外科、皮膚科、脳外科等全科の研修経験がありますので、全科プライマリケア (初期診療) もできる絶好の機会だと思い、サンディエゴに引っ越してきたと言うわけです。 —— 今までの医師人生の中で、一番自分を誉めてあげたいことは。 ![]() —— 遅くなりましたが、全米4番目の日本クリニック院長にご就任、おめでとうございます。 有り難うございます。サンディエゴの皆様のお役に少しでも立てることに私も大きな喜びを感じます。しかし、決してこれがゴールではなく、まだまだ医師としての勉強や研究は果てしなく続くわけで、現在、SDSU大学院で疫学を勉強しています。また、アメリカの卒後教育の優れた点を導入して、日本の医療スタンダードの改善に繋がる「架け橋役」の一端が担えればと、日本の医師たちと連携を保ったり、私のクリニックでの外来研修を提供しています。これは他の日本クリニックも同様で、今後日本人医師のアメリカでの研修の助成ができればと、周先生を中心に日本クリニック・グループとして計画をしています。同時に、全米におられる日本人の方々の便宜をより図るべく、優秀な医師が働く日本クリニック増設に向けての活動も行なっています。外国で病気になるだけでも不安です。せめて、言葉の不便さだけでも取り除いてあげて、患者さんに安心して治療を受けて頂いて全快されるなら、これは医師冥利に尽きることです。 (2002年11月16日号に掲載) {sidebar id=88} |