—— 日本友好庭園と深く関わりを持つようになられた経緯を話して下さい。 日本友好庭園の理事に推されたのは15年も昔になるでしょうか。実を言うと、当初はそれほど興味が無かった。でも、説得されるうちに数年が経過して、気がついてみたら庭園の魅力の虜とりこになっている自分がそこにいる。本当に美しい日本庭園ですからね、無理からぬことだと思う。さらに何年か過ぎて、再び同じ人から説得を受けました。この人物は当時の日本友好庭園会長のモト・アサカワ氏で、結局、会長の任務を引き継ぐ形となり、現在に至っているわけです。 ——この庭園の美しい景観を眺めていると、誰もが街の喧騒から逃れた安堵感に満たされますね。庭園の歴史を紹介して頂けますか。 現在の日本友好庭園に発展するまでにうよ曲折がありました。「パナマ̶太平洋国際博覧会」がサンディエゴとサンフランシスコで開催された1915年以降、バルボアパークには日本庭園が存在しています。当初の茶室と庭園は実に印象深い美しさを備えていましたが、残念ながら遠い昔に取り壊されました。当時は園内の主要道路エル・プラドに程近く、公園の中心部から離れた一角にありました。それは現在の子供動物園の所在地に当たります。これらは博覧会用に作られ、サンフランシスコの建設業者ワタナベ&シバタ社が請け負いました。この会社は展示物の管理や、キョウサン=カイ・カンパニーが扱った輸入品を場内売場で販売もしています。 —— 「パナマ太平洋国際博覧会」 用に作られた庭園は、その後どうなりましたか。 博覧会が閉幕すると、庭園はサンディエゴ市の管轄下に置かれました。今度は市当局が、敷地と売場を管理していたアサカワ家 (前日本友好庭園会長の一族) に建物のリースを行うようになるのです。当時、アサカワ家は実際にバルボアパーク内に居住していて、アメリカが第2次世界大戦に参戦するまでその生活が続いていました。 ——これは驚きました。バルボアパーク愛好家が夢見る園内での生活を実現したということ…まるで自宅のように、この広く美しい庭を使用できたというのは羨うらやましいですね。 その通りだね。前会長のモト・アサカワ氏は私を日本友好庭園に深く関与させた人物だけど、彼は実際にバルボアパークで生まれ、ここで育っています。彼は現在我々が目にすることのできる日本庭園の再興に尽力し、今でも有力な貢献者の一人です。一方、私の誕生地はダウンタウンの 8th Ave. & Market St. の一角で、昔の日本人街の一部でした。第2次世界大戦時から海軍が本拠地へ戻った終戦翌年の1946年まで、国際赤十字社が海軍病院職員と患者さん用の談話室として茶室を使用していました。その後は何にも利用されず、板張りの囲いで覆われて放置された状態になっていましたね…。1954年になって、動物学協会が子供動物園の建設用地として2エーカーの敷地を市に申請しました。翌年4月、オリジナルの茶室と庭園の残存物を撤去する作業が行われ、一つの時代が終わりを告げます。 —— 新しく日本友好庭園が建設されるまでの経緯は。 1955年以降、日本庭園の再建を願う人々や団体は数多く、彼らが動き出したのは勿論です。サンディエゴ-横浜姉妹都市協会の働きも大きいものでした。でも、庭園再興を具体化させる端緒となった一つの事件があり、これは逸話中の逸話として残っています。先ず、サンディエゴ市から200万ドルの補助金と建設用の土地を確保することが必要でした。それは大金だし、大変な話でした。当時はね、市が日本庭園の建設費を賄うという案など一顧だにされないような時代だったんですよ。当時の市議会議員のブルース・ヘンダーソン氏が支援してくれて、案は市議会に提出され、公聴会の後で決議されるという運びになりました。…でも、どう見ても旗色が悪く、関係者は固唾 (かたず) を呑んで結果を待つ状態に置かれていました。その時、公聴会に居合わせた一人の女性が野卑た態度で声高に日本庭園建設への反対論を唱え出したばかりか、立ち上がって日本人に対する侮蔑的な批判をぶちまけたのです。それは信じがたい光景でした。しかし、彼女の無教養で粗暴な振舞いで状況はにわかに好転を見せました。そう、市議会がこの案を可決したのです。この時は「人の世は面白からずや」という思いでしたね。あの乱暴な女性が成功に導いてくれたと思うとね。 —— その異常な女性の出現がなければ、日本友好庭園は実現しなかったかもしれない…。その後も果たすべき仕事は沢山残されていたと推察しますが…。 課題山積でした! 市から補助金が出ると言っても、それはマッチングファンド (行政が活動団体のサービスに応じて拠出する制限的補助金) と呼ぶべきもので、我々は資金集めを続ける必要がありました。それに、与えられた11.5エーカーの用地のうち、今までに開発を終了したのは、現在の日本庭園 「三景園」 の敷地として使用されている2.5エーカーに過ぎませんからね。「三景園」 は中島健氏が第1段階 (フェーズ1) の造園設計を担当し、戦後に氏が助力して復興された横浜市の 「三渓園」に因んで名付けられました。総合的な造園計画は5段階に分かれ、第1段階 (フェーズ1) は1990年に完了。カリフォルニア州立工科大学ポモナ校の上杉教授 (景観建築) が設計した第2段階 (フェーズ2) は1999年にほぼ完成し、入口の茶展示館と大幅に拡張された庭園が日本友好庭園の全貌を大きく変えたばかりか、鯉池、滝、飛石、盆栽、刷新した展示室とオフィスなども新たな彩りを添えています。 —— 最近の日本友好庭園の増築には目を見張るものがあります。現在進めている計画とは。 我々は総合計画の道半ばにいるわけですから、ゴールは遠く、今後も精進していくつもりです。一方で、完成したものを維持する役目も十分に果たさなければなりません。我々を援助してくれる鯉アソシエーションや盆栽アソシエーションなどの団体も数多く、本当に幸運だと思っています。今手掛けているのは渓谷の開発、それにアサカワ家 (園芸家) から寄贈された桜の苗木を植樹することです。実を言うと、今日植える予定になっていましてね…。それと、十分な資金が集まり次第、もう一つの茶室を建てるという目標もあります。昔の茶室はバルボアパークの国際イベント用に横浜から送られたもので、処分しなければならないほど老朽化していました。現在展開している日本文化を児童に伝えるプログラムや、一般対象の折紙、盆栽、生花教室も継続していきたいし、将来の展望として、様々な日系アメリカ人グループが利用できる大型文化会館の建設も構想中です。バラエティに富む諸団体が一堂に会する広いコミュニティーセンターの必要性を感じますしね。まあ、全てが資金を要する問題なのですが…。 —— 全ての構想と計画の実現に向けて、資金をどの様に集めていくお考えですか。 サンディエゴ市から単発的に援助される補助金はともかく、我々が現実的な資金集めの方法として期待できるのは、企業、個人からの寄付、日本友好庭園での売上、それに2大基金調達イベント (ムーンライト・フェスティバル、クリスマス・オン・ザ・プラド) です。最近の市の調査によると、昨年の「9.11」テロ以後のバルボアパーク全体の来場者数が減少し、売上も下降線を描いているとか。でも、信じられますか? 日本友好庭園の一般入場者数は約2倍増。愛好家が多いんだなあと…。 —— 会長として奮闘努力されている、ご自身の功績であるとの自負は… (笑)。 滅相もない (笑)。これこそ日本友好庭園の魅力の賜物です。 (2002年9月16日号に掲載) {sidebar id=91} |